小説

22/05/10

その日、Aの口調はいつもと異なっていた。突然かかってきた電話からは、てっきりいつものような世間話が待っているのだと思っていた。しかし違った。電話越しに聞こえてくるのはあまりにも切羽詰まった声である。そして聞かされた内容は、それまでの彼からは…

《イノセント》七

結局、ここまで徹夜で書いてしまった。元々眠るのが怖かったから、丁度よかったかもしれない。 これを読んだら、君はなんと思うだろうか。正直に言うと、未だに自分の行いを悪いと思えない。あんなおばさん、どうせ生きても死んでも大して変わらないはずだ。…

《イノセント》六

夜の八時であった。暗がりを歩いていた。青白い街灯の下を通る度に、辺りには俺達以外の誰もいないように思えた。互いに雰囲気が昔と違っていた。制服を着ていないから当たり前かもしれなかった。しかし、何かが決定的に異なっているのであった。それでも変…

《イノセント》五

何故人を殺さなければならなかったのか?あるいは、何故殺す必要があったのか?自分でもわからない。ならば、次のように問おう。何が自分を殺人に走らせたのか?あの瞬間、横切る女性を目にして「実行しなければならない」という思いを強く感じた。それは何…

《イノセント》四

その後も何度か老婆の家に顔を出した。その都度、快く迎え入れてくれた。俺は老婆の話し相手になった。話す内容はほとんどいつも一緒だった。親族が相手をしてくれないこと、誰からも忘れられてること、故に孤独の相手をしてくれる者がいて嬉しいこと。 「そ…

《イノセント》三

大抵の場合、連続あるいは無差別殺人の最初に犠牲者になるのは女性か子供である。それは単に腕力の問題だけではない。殺害者側が男性の場合、同性よりも異性の方が、大人よりも子供の方がずっと誘惑しやすいからだ。よって殺害者が女性である場合、自ずと最…

《イノセント》二

何故人を殺してはいけないのか?その問いに答えるのは難しい。しかし、次の問いなら容易い。何故人は他者を殺さないのか?そう、捕まるのが怖いからだ。ならば更に以下のように問いを出そう。何故大抵の殺人犯は捕まるのか?ラスコーリニコフが、それについ…

《イノセント》一

何故人は犯罪に走らないのか?思うに、その理由は二つあるに違いない。一つは単純で、捕まるのが怖いからだ。言い換えるならば、大抵の人は、捕まる心配がないとわかれば容易に犯罪に走る。事実、軽犯罪なら大抵の人は経験済みだろう。しかしより大きな規模…

《ボール》

木の葉が舞う。枯れて黄ばんだ葉は、否定の身振りでふらふらと宙を舞う。他の葉と同様、それは音もなく落ちる。公園を見渡せば、一面が枯葉で満たされていた。斜陽が差し、冷たい空気が騒音を拭う。午後四時を過ぎた今、一切が物憂げに染まろうとしている。 …

《表現と結晶》エピローグ

警察はXの死を事故によるものだと断定した。Xの両親とも、彼女の死によって初めて会うこととなった。しかし、その辺りのことは、もうあまり思い出せない。 彼女の葬式にも参列した。会場からはひそひそと話し声が聞こえた。参列中、私はできる限り彼女との…

《表現と結晶》二・4

朝が近づいている。もう四時だ。雨は先よりかは小降りになったかも知れない。ふとペンを置き、両手で顔を覆う。不思議だ。この場面を書くために筆を取ったのに、いざその箇所に至ると、書く気が起きない。自分でも、それが何故なのかわからないのである。 ス…

《表現と結晶》二・3

初めての晩から一ヶ月と経たないうちに、彼女は私の部屋に住み始めた。もとい、住まざるを得なくなった、と書いた方が正確だろう。理由は単純である。元の家に暮らすことが出来なかったからだ。 朝の幸福は長続きしなかった。私と同様、彼女もスマートフォン…

《表現と結晶》二・2

あの電話以来、Xはもっと沢山のこと話してくれるようになった。私はずっと何故彼女が法学部に行ったのか知りたいと思っていた。しかし、その理由も聞くことができた。彼女は両親が二人とも弁護士であったのだ。そして家の方針として、法学部以外を選択する…

《表現と結晶》二・1

雨が降る。コンクリートの大地を鞭打つ音がする。無数の水滴が地上に弾ける。その音が聴こえる。そして気がつく、知らぬ間に音楽が止んでいることに。どうやらスピーカーの充電が切れたようだ。今や一切は雨に染まる。私の部屋は土砂降り模様に変わっていた…

《表現と結晶》一・2

夜。一切が闇に沈もうとする今、満月だけが私を引き止めてくれる。月光には不思議な作用があると思われる。夜は白銀のヴェールに包まれて、その裏にある天体の輝きを想起させてくれる。生憎、私の住む部屋からは星が見えない。街灯が星の在り処を隠してしま…

《表現と結晶》一・1

今でも思い出す記憶がある。それは私が幼稚園児の頃の話だ。 床にしゃがんで画用紙を敷き、私はひとり絵を書いていた。ふと、ある女の先生が「何を描いているの」と聞き、近づいてきた。私はそれに答えようとした。しかし、聞かれて初めて気づいたのだが、自…