日記

21/10/17

ニーチェによれば、私達の行為はどれも解釈に基づいて行われていると言う。たとえば子供が親に甘えるのは、「親が自分を愛している」という無意識上の解釈に基づくからである。だからこそ、いかなる言動にもその裏には必ず解釈が存在する。よって、「解釈」…

21/10/10

愛情の反対は無関心であるとよく言われる。しかし、私はそうは思わない。愛情の反対とは、むしろ失望である。無関心、それは文字通り何の関心も持たない状態を指す。だからこそ、丁度大地に種が撒かれて芽が生えるように、無関心から関心が芽生える可能性は…

21/10/06

何かを「美しい」とする行いは、それ自身無関心なものである。たとえば「彼女の肉体は美しい」「彼の顔はとても綺麗だ」など。これらの美的判断は、ある種の客観性をもって行われている。「美しい」という価値判断は、本来他者と共有されたものだからだ。そ…

21/10/01

クリスチャンだった頃、私には主に通っていた教会が二つある。一つは地元にある教会で、もう一つは上京後に出会った教会である。どちらの教会にも大変世話になったが、特に後者の教会の牧師には、非常に大きな影響を受けた。それは思想的な意味だけではなく…

21/09/25

人が恐れるのは不幸よりかは退屈である。そして、退屈さとはその凡庸さの表れでもある。では、そもそも私達は何をもって「凡庸なもの」と見なすのか。それは他ならない、相手の底が知れた時である。もし私達が日常に耐え難い凡庸さを見出したとするならば、 …

21/09/19

人が最も恐れているもの、それは不幸ではなく退屈である。人間が自殺する理由として最も多いのは、恐らく不幸ではなく、むしろ不幸も幸福も忘れてしまうほど退屈な日常にある。退屈であればあるほど、人は自分も周りも腐っていくような感覚に陥る。よって退…

21/09/15

小学生の頃、私の学年にはDという男子生徒がいた。体格が大きくて、いつも汗をかいていた。肌が白くて、顔についた沢山のそばかすが印象的な少年だった。確か小学五年生の終わり頃まで私達の学校にいた。しかし卒業まであと一年という時に、Dは突然転校して…

21/09/11

「スピノザがしばしば指摘するように、子供時代は無力と束縛の状態、無分別の状態である。そこで我々は極度に外的な諸原因に依存しており、また喜びよりも悲しみの方を必然的に多く抱いている。我々がこれほど自らの活動力から分離された時代は他にない。」 …

21/09/07

時に人は、喜びのために苦しみを求めようとする。あるいはむしろ、喜びを求めて苦しみを得ようとする、と言い換えてもいいかもしれない。 かつてはドゥルーズも『ディオニス・マスコロとの往復書簡』の中で、その事について触れたことがある。彼によれば、彼…

21/09/01

時間は常に真実を危機に晒す力を持っていた。そう断言しても言い過ぎではないだろう。例えば今目の前にいる子供がいるとして、子供の両親がある日突然離婚したとしよう。この時、その子供には二つの事実が避けがたいものとして突きつけられることとなる。一…

21/08/26

現代とは「話しすぎ」の時代である。皆、特に話すこともないのに何かを話すよう強いられている。だからこそ苦しんでいるのではないか。言うべきことが何もない。これは実に気持ちいいことである。 SNSや連絡手段の発達は、私達の生活に多くの恩恵をもたらし…

21/08/21

「真理はあなた方を自由にする」とは、確かキリストが『ヨハネによる福音書』で語っていたことである。しかし恐らくこの言葉は、今日までに教育の必要性が説かれてきた理由をも意味している。つまり、知識が人を自由にするということ。学習を深めることによ…

21/08/15

作者とは作品の影であり、作品こそその主役である。小説『ジャン・クリストフ』の中で、ロマン・ロランは彼自身とその主人公のどちらが主役であり、またどちらがその影であるのかを曖昧にしながら書いた。作者とは誰か。それは作品を通してしか語るべき言葉…

21/08/09

それにしても、子供時代とは一体何だったのか? 少年の日を思い描いた後、今の自分を鏡越しに眺めてみる。すると、そこに映る自分が、幼い日の彼と同一人物だとどうしても思えないのである。幼少の日の記憶と、今現在の自分との間には、明らかな、深い断絶が…

21/07/31

私が高校生の頃、父はよく酔っ払って学生時代の話をした。父はよく自分の同級生をいじめていたらしい。「俺はあいつを四つん這いにさせて、馬乗りになって、けつを叩きながら歩かせたんだ……」 しかし、学校ではいじめる側ではあった父も、家の中ではいじめら…

21/07/24

年に幾度か、不眠に悩まされる夜々を過ごす。早ければ一週間で終わるが、長ければ一ヶ月以上それが続く。そして今、まさにその時期である。今日も眠れず夜を明かしてしまった。しかし、決してそれを悲観する必要はない。「打ち勝ちえぬ病に冒された時、重要…

21/07/18

関係性の内で消費される社会。恐らく私達が生きる世界とは、その一言で表現することが可能であろう。力、それは別の力に対する関係によって成り立つ。これはかつてニーチェが打ち立てた哲学的なテーマの一つでもある。一つの力の大きさは、別の力との関係の…

21/07/08

ゲームには規則がある。そして規則がある以上、ゲームには正解がある。一般的な人間関係というものは、およそこのゲームの理論を把握することである。こう言った時にはああ言って、ああ言った時にはそう言う。そのようなやり取りの規則性を把握すること。あ…

21/07/04

雨が降る。さながら感情の嵐のように、大地を鞭打つ豪雨が降る。かつて黒澤明は、雨を激情の表現として用いた。恐らくベルイマンはそれから影響を受けて、『野いちご』におけるある美しい場面を考案した。土砂降りの雨の中、二人の男女が佇んでいる。女は男…

21/06/29

「病気が私をゆっくりと解放してくれた。病気のおかげで私は、仲違いをしなくても済むようになったし、波風の立つ、厄介な奔走に苦しまなくてもよくなった……。病気は私に、自分の習慣を根本的に変える権利を授けてくれた。」 上の言葉は、ドゥルーズの小論『…

21/06/25

「反復とはかけがえのないものへの行動である」とは、確かドゥルーズが『差異と反復』の序論で書いていたことだ。しかし、何故反復すること(繰り返すこと)が「かけがえのないものへの行動」に繋がるのか。それは、人が置き換え不可能なものしか繰り返される…

21/06/19

顔というのは不思議なもので、それは言葉が語る以上のものをこちらに想起させる作用を持つ。今目の前にスクリーンがあって、そこに一つの映画が流れていたとしよう。カメラは突如登場人物の顔をクローズアップし、キャラクターはそこで僅かに口を開く。そし…

21/06/12

上手く言い表せないのだが、ここ二、三ヶ月の内に、ある劇的な心境の変化が生じている。何故かはわからない。ただ、かつて執着のあったものへの執着が殆ど失われつつある。たとえば家庭。私はかつて、自分の子供時代に苦しめられていた。そして子供時代に関…

21/06/08

「私は秘密を信じている、つまり<偽なるものの力能>を信じている。だから正確さと真実への嘆かわしい信仰がしみついた物語は私に似合わない」と、かつてドゥルーズはある批評家への手紙の中で書いていた。 ドゥルーズ哲学の内には、その最初期から一貫して…

21/06/04

かつて、私には過去にいくつかの後悔があった。最近ではそれに苛まれることが少なくなったが、しかしそれでも、時折ある一つの思いが頭をよぎることがある。 ベルイマンの『鏡の中にあるが如く』には次のようなセリフが登場する。「人は皆、自分の周りに円を…

21/05/29

この世の中には、やたらと自分の活動 - 作品に意味を持たせようとする人がいる。「自分はこれこれこういう理由と目的をもって制作をして、このような意図を持って活動している」というわけだ。白状すると、私にはそういった人が皆傲慢に思えてならないのであ…

21/05/24

夏が近づいている。私は今、暮れる一日を背景にしながら、薄暗い部屋でひとり (僅かな明かりを頼りにして) こうして文章を書いている。夏を思わせる匂いを感じ取る度に、およそ五年前の日々を思い出さずにはいられない。あの頃、私はほとんど他者と関わりを…

21/05/19

月日は流れる。ついこの間まで冬だと思っていたのに、気がつけばもう五月の下旬である。じめじめとした、湿っぽい天気が続いている。私は額の汗を拭う。もう初夏が始まろうとしているようだ。最近、時の流れのはやさに驚く。一体こんなにも歳月というものは…

21/05/10

晩年のニーチェにはある有名な逸話がある。その日、イタリアのトリノに訪れていたニーチェは、自分の泊まったホテルの近くで、ある一匹の馬がいじめられているのを見る。馬は鞭で打たれ、苦しそうに鳴き声をあげていた。やがてニーチェはその馬に近づいた。…

21/05/07

もはやニヒリズムの時代は終わった。誰かがそう言ったとしても言い過ぎではないだろう。今から百年以上も昔に、ニーチェは「神は死んだ」と語った。しかしその時、彼は決して「神の死」を問題にしてはいなかったのである。 ニーチェによれば、西洋においてキ…