20/04/02

 人は停滞するよりも、むしろ衰退することを求める。何も欲しないよりも、むしろ虚無を欲する。人間には、生を憎悪し、生に敵対し、衰退することを求める本能がある……

 現在の自分が、かつての自分の反動であるということを、人はよく忘れがちである。

 突然このような事を書くのは、私自身、その事を忘れていたからだ。現在の私の生活が、またその価値観が、かつて私が否定したかったものの反映であるということに、ふと気がつく。人は絶えず何らかの影響に晒されている。そして、その影響がどんなものであれ、影響は変化をもたらす。そしてあらゆる変化には反動的な側面が備わっている。反動とは、それが否定したかったものへの復讐である。

 日中、ふと泣き出したくなるような時がある。どういう訳かわからないが、その場で頭を抱え、孤独な憂愁に身をよじらせる。漠然とした不安に襲われ、絶えず寂しさとも虚しさとも区別のつかないものに胸がかきむしられる。とても、苦しい。私は思わず身を横たえ、目を瞑り、暗闇に背を向けて、眠りの世界へと逃れようとする。やがて微睡みが訪れる。しかし眠りは浅い。幾度となく目を覚まし、その度に暗闇にのまれていくような不安感を覚える。夢と現実の境目は曖昧であり、夢にいても、うつつにいても、どちらがどちらなのかわからなくなることも少なくない。

 私は一人、部屋でじっとして、自分自身を注視してみた。そして、敏感なものは神経質なまで感じるとが、それ以外のことには恐ろしく鈍感であり、他者からすれば一目瞭然な事も分からないでいる自分自身の姿を発見した。恐らく、これは私自身の中々変わらない性質なのだろう。幾度自分のこの性質のために悩まされたか知らない。

 家の中にいる時、人はその家の外装がどんなものであるかわからない。家の外に出て、初めて自分がどんな家にいたのかがわかる。この世界を生きる中で、私自身を襲う不可解な問題の数々がある。そして私が問いに悩むのは、そもそも私自身を襲う問題が何であるのか、それがわからないでいるからなのだ。答えは決して与えられることはない、我々に出来るのは答えを生きることである。そして、それの出来ない今、私は問いを生きなければならない。

 流れ。人は無数の線の流れが束ねられる事で生まれる存在だ。ニーチェは人間存在を「多数の魂によって構成されている共同体」と表現していたが、彼は正しかった。人間とは、直線的で、一つの流れに沿って生きるものだ。問題は、我々自身が、自分がどんな流れに在るのかを知らないということにある。

 人間存在に点はなく、あるのはただ線のみである。それは一つの場所(つまりは点)に固定し、留まるものではなく、自分が生まれる前の歴史からの流れや、自分自身の生の流れなど、様々な流れ(つまりは線)が複合しながら成り立つものである。

 そして私は、その流れを解明したいと思う。今、何かを意志するのではなく、無を意志している自分自身の現状に解決を与えるために、私に出来ることはその程度のことだろう。


 "結局、書物は実生活ではない。"

 芸術と生活は一致しない。  卑小ながらにも芸術を愛好する私は、恐らく、生活能力に乏しい人間なのだろう。自分自身の思想的な問題、観念的な問題にばかりとらわれて、生活をおざなりにする事が多々ある。

 運命の苦しさはその複雑さにあるが、生活の難しさはその単純さにある。リルケはそう書いていた。複雑にばかり目が行けば神経衰弱になるが、単純さにばかり目が行けば、存在は停滞する。

 今の私に必要なのは、自分を律すること、禁欲的であることなのかもしれない。生活がおざなりになれば、私自身に未来はない。しかし、生活のことにばかり気を取られていては、自分のなしたかった事もなせない。その均衡をとるのは難しい。よって、改めて生活を見直して、自分自身を立て直そうとする必要がある。そう、つまりは自分を律し、禁欲的であることが必要である。


 "僕は恐怖と戦ってみた。僕は夜どおし起きてペンを動かした。今はウルスゴオルの野原を遠く歩いたあとのように疲れている。"

 生活のさなか、何かの節に、『マルテの手記』の数節が頭の上に思い浮かぶ。それを手に取って、該当の箇所を開く。すっと心が落ち着くような気がする。リルケの著作には、私の全てが書かれている。ニーチェドゥルーズも、リルケがなければ、今日まで手に取り続けることもなかったろう。

 "しかし僕は、今ひとりぼっちで、一つの持ち物もない。(…)ただ思い出だけがわずかに残されている。けれども、その思い出だって、それを持っているのは誰だろう。子供の頃を思い描いてみても、それはまるで地の底の世界のようだ。思い出を生かすためには、人は先ず年をとらねばならぬのかもしれぬ。僕は老年を懐かしく思うのである。"


 私はいつも、魂の平穏を求めている。何より苦しいのは、心の平静が乱れることである。元々、私は感情の激しい人間だ。一度感情が激すると、生活の何にも手がつかなくなる。

 こうして書いていて気がついたが、恐らく私が最も恐れているのは、私自身のことなのである。私は自分の感情を恐れているのだ。そしてそのために、幾度他者に傲慢な態度をとり、他者に誤解を与えてきたか知らない。


 どんな人でも、ある角度から解釈し、ある点を拡大して捉えれば、滑稽で、皮肉な冷笑を浴びせざるを得ないようなところが出てくるものだ。

 明敏な頭脳は、他人に嫌われるまでに他人の欠点をよく見出す。幸福に他者との愛を育むためには、ある程度間抜けでなければならない。

 自分が馬鹿にしているものに対して程、人は臆病な態度を取りがちである。

 何かを信じたいがために、自分の信念を守ろうとする人がいる。信念の人とは、時にかたくなな人でもある。

 遠慮は、行き過ぎれば冷淡な態度として捉えられ、孤独は、釈明がなければ傲慢な利己主義だと勘違いされる。

 生に執着することと、真理に執着することは、本質的に一致しない。そして、真理に執着するということは、その人を人間的でなくさせる。

 自らよりも真理を愛さなければならない。しかし、真理よりも一層よく隣人を愛さなければならない。

 自由は麻薬のようなものであり、一度自由の喜びを味わうと、人はどんな犠牲を払ってでも自由のために情熱を注こうとする。そして自由のために血を流す程、人は益々孤独になり、またその孤独によって、人は変えられていく。

 善良さと自己愛、そして何かへの愛情のために、人生を断念し、人生から隠居する選択肢を取った人々。

 生気に溢れて生きる人は、何故生きているのかという疑問を抱かない。彼らはただ生きるがために生きている。

 無気力に繋がる知性がある。こんな事をして何になるのか、これが一体何の役に立つのか。そういった疑問を感じるだけの理性は、人を消極的にして、受動的にする。

 ある人の抱く秘密の数、ある人の抱く言い表せぬものが、ある人の持つ魅力に繋がる。

 大抵の倦怠は、欲望するものが得られないことから生じる。

 限りない思考と分析は、享楽を不可能にし、あらゆる行動の勇気を失わせる。そして活動的であるために、人は俳優となって生活を演じる。

 音楽を愛する者は皆、一度必ず音楽を聴くことに疲れるものだ。