20/04/19-20

 中学の頃、初めて異性の友達を家に呼んだ。

 その日、家には私と彼女以外の誰も居なかった。私達は二人きりで、次第に暗くなりゆく夕暮れの部屋を過ごした。しかし、私は何もしなかった。もとい、初めから何かをするつもりで呼んだわけではなかったのである。ただ来たいと言われたから呼んだ。それだけであった。

 しかし、なんとなしの気まずさを感じていた。だから、私は近くにあったソファの上に寝っ転がった。すると、彼女が言った。

 「寝るんだ」

 それは少々尖った声であった。その頃、私は自分の抱く友情が、時に恋愛と呼ばれるものに近いということに気づき始めていた。しかし、彼女に好意を抱いていれど、何か肉体的な接触をしたいと考えたことは一度もなかった 。ただ私は私は、やや不機嫌になった彼女を前にして、おどおどすることしか出来なかった。

 こうして過去を思い返すると、自分は思った以上に身勝手で、他人を振り回してばかりいるのかもしれない。そんな疑問が浮かんでくる。

 上の件について、最も身勝手だと思うのは、私自身がそのことを忘れていたことにある。かの旧友についてはよく覚えていた。しかし、彼女が家に来た時のことを、私は都合よく、すっかり忘れていた……そう、その時の事を、私は再びした知人との通話の際に思い出したのである。

 時折、誰かが私を恨んでいるのではないかという気持ちになる。申し訳ない。許しを乞うのも傲慢かもしれないが、どうか私を許して欲しい。

 人は何かに気づかないのではなく、気づこうとしないことが大半である。上の友人が何を求めていたかなど、今の私には分からない話だし、考えたくもないことだ。本当に、うんざりするまでに考えたくない。どうでもいい話だ。私はこれ以上、何に悩み、何に怯えればいいのだろう。そう、全ては私の臆病な性格のためなのである。


 夜。風のように不安が去来する。感情が騒ぎ、頭を抱え、何にも手が付かない。本を取り、ペンを持っても、集中が乱れ、分散し、何一つ頭に入ってこない。

 かつて、そんな私を支えてくれたのが音楽であった。

 音楽は私の全てであった。これ程までに深く私の心に触れてくれたものは、かつて他に存在しなかった。文学は私に感銘を与え、哲学は私にどう生きるべきかを教えてくれたが、私のそばに静かに寄り添い、母のように私を癒し、愛し、慰めてくれたのは、ただ一つ、音楽だけであった。

 私には音楽しかなかった。孤独に耐えがたさを見出した時、私はとにかく耳元で音楽を流したり、楽器を奏でたりすることを思いついた。そうすることで、頭の中で騒ぎ続ける不安をかき消そうとしたのである。それから、何をするにしても、絶えず音楽を流しながらする習慣が出来た。一日八時間以上音楽を聴く日も少なくなかった。私は音楽に依存した。麻薬のように音楽にすがった。恋人のようにそれを求めた。何をするにしても音楽と共にいた。溺れるようにそれの与える快楽に身を浸した。

 ドビュッシーキース・ジャレットレディオヘッド。当時の私を熱中させたのはその三者について、先ずは書きたい。

 ドビュッシーの音楽には、どれだけ助けられたか知らない。不安と焦燥感から、一日中部屋を歩き回っているような日に、私の苦しみを和らげてくれたのはドビュッシーであった。ピエール・ブーレーズの指揮した『海』が流れ出した途端、全ての嘆きと悲しみが清められ、私は赤子のように無垢な安らぎに包まれた。

 クリスティアン・ツィメルマンの弾いた『前奏曲集』は、もう何度聴いたかもわからない程に聴き込んだ。彫刻のように力強く端正な、しかし氷細工にも似て繊細な演奏は、何度聴いても私を恍惚とさせるのであった。そして、その偉大な音楽の中には、何度聴いても組み尽くすことの出来ない発見が秘められているのある。

 サムソン・フランソワによる諸ピアノ作品の録音も忘れてはならない。『ピアノのために』、『版画』、『映像』、『喜びの島』など。これらのドビュッシーのピアノ作品で、フランソワの演奏以上に好ましいものを、私は知らない。『ピアノのために』のトッカータや、『喜びの島』の終盤部分の異様な盛り上がり、その高揚感は、私に異常な緊張と、他では得られない喜びを与えてくれたのである。

 キース・ジャレットとの出会いは、私の音楽観を一変させた。『ケルン・コンサート』を聴いた時、これが即興だとは、どうしても信じられなかった。そして彼が、既に幼い頃からプロのピアニストとしてコンサートを開いていることを知ると、嫉妬のあまり居ても立ってもいられなかった。彼の人生に比べれば、私のそれはなんと卑小で、繊弱なものであろう。こんなに凄いことを出来る人がこの世にいる。そして私は、一生かかっても、その足元にも及ばないのである。

 この時、私は知った。真に優れた芸術作品は、人を慰める力を持つと同時に、人のこれまでの人生を全否定するだけの力を持つのだと。偉大な作品は、他者の存在を受け入れるのではなく、むしろその存在を全否定する。「哲学は慰めるのではなく、悲しませるのに役立つ」とドゥルーズは書いていたが、これは芸術にも当てはまることだ。それに触れるものを絶望させる、この厳しさ。そこにこそ芸術作品の偉大さ、その魅力がある。

 当時、私は教会に通っていたが、決して熱心なクリスチャンではなかった。私がキリスト教信仰に熱中するのは、上京してから出会った、さる牧師のためであった……しかし、十分な信仰を持っていなくとも教会に足を運び続けたのは、そこにピアノがあったからであった。家にはピアノがなかった。だから、練習するには教会しかなかったのである。私はキース・ジャレットを真似て、ピアノの即興演奏をし始めた。私は彼に苦しめられながらも、それ以上に強く彼を愛していたのである。

 レディオヘッド……恐らく、私が最も愛したロックバンド。彼らとの出会いは、中古ショップで偶然手に取った『Kid A』であった。それまでにも、いくつか彼らの曲を知っていて、その数曲は非常に愛していたが、一つのアルバムを通して聴いたことはなかった。しかし、この『Kid A』が、これ程までに私に重要な意味を持つことになろうとは思っていなかった。私はそれを通して、一日に三回聴いたりした。そして、そんな日が毎日のように続いた。目が覚めれば『Kid A』を聴き、昼休みも『Kid A』を聴き、就寝前も『Kid A』を聴いた。その紡ぎ出す鮮やかな、しかし荒廃とした音像が、まるで私の心象風景をそのまま代弁してくれているかのように思われた。

 当時、多少英語の読み書きは出来るが、外国のロックバンドが何を歌っているかの聞き取るだけの理解はなかった。しかし、何を歌っているのかは分からないが、それでも私はレディオヘッドの歌と、トム・ヨークの歌声に共感した。そして、それこそが音楽の良さなのだと私は思う。何を言っているのかわからない、またはそもそも歌詞すらない。それでも私達の胸に迫り、孤独な心境に切迫してくれる「何か」がある。その「何か」が、私達の胸を打ち、それを震え上がらせ、「この人は自分のことを知っている、自分の言いたいことを言ってくれている」といったような感覚を与えてくれる。この誤解にも似た感動、感銘、共感こそが、私達が音楽を愛する理由なのではないだろうか。


 美は人を魅せるが、同時に美は人を狂わせる。人生の中で、いつからか、私は「美しいもの」の存在を知った。そして、恐らくはその素晴らしさを知ると同時に、その恐ろしさを知ったのである。

 リルケが残した有名な詩の一節に、次のようなものがある。「何故なら美とはおそるべきものの始まりに他ならないから」これは、一度美に魅せられ、美を追い求めたものなら、きっと誰もが分かるであろう。芸術的な美しさとは、一般生活の常識をひんむいたところにしか存在しない、実に恐ろしいもので、もし美を追い求めるならば、人は自ずとこれまで生きていた一般生活から背き、絶望的な苦しみを負わなければならないのである。そしてもし、美に触れることが出来たとしたら、人はそのために狂い、破滅するしかないのである。


 何かによって変えられる人間とは、既に変化の予兆を内在させている人間でもある。変化とは、起こる前から既にその人の内に存在しており、ただその変化のきっかけが足りないだけなのである。

 私の人生は、私の触れた作品によって大きく変化した。恐らく、人との出会いよりもさらに深く、さらに忘がたい感銘を、音楽や書物から得ることが出来た。そして私は気づいたが、私の傲慢さは、恐らく自分の関心事の方が、自分は勿論、自分の愛する人々よりも、ずっと大切だということにある。

 先述の中で、私は中学時代の思い出を書いた。しかし、はっきり言ってしまえば、そんな思い出は、私にとってどうでもいいのだ。そんな下らない出来事よりも、音楽的体験、読書体験、思索的体験の方が、ずっと大切であった。

 そう、私はいつだってそうであった。私は、たとえどれだけ友人や恋人を愛していようとも、それ以上に自分の関心事をずっと愛している。私はいつだって自分のエゴで生きることしか出来ない、傲慢で、身勝手で、薄情な人間なのである。そして、そんな自分に対して、諦めの混じった軽蔑と自己愛の念を、いつまでも寄せている。


 上京して間もない頃、私には人と出会う機会が殆どなかった。東京で改めて教会に通い始めるのは、それから半年以上に経った後であり、実際に人と知り合うとなれば、路上で偶然誰かと知り合うか(私は見知らぬ人から話しかけられる経験が多かった)、それをきっかけに知り合ったバンドマンの友人の働くライブハウスか。それくらいであった。

 しかし、そのライブハウスにしても、皆居るのは私より歳が上の人ばかりであり、話が合うわけでもなく、気まずさばかりを感じていた(友人であった彼には、私が未成年であるとして、いつもドリンクを無料で出してくれた。そのことを本当に感謝している)。しかし、当時の私が人と関わる機会といったら、その程度のものしかなかった。

 そんな孤独な私の心に喜びを与えてくれたのは、SNSの存在であった。

 当時、私はSNSを通して人を会うことがなかった。二、三の例外はあれど、それらの人達にしても、一度会ったらそれきりか、場所や距離の問題から、また長く会う事のできなくなる友人しかいなかった。

 そんな私にとって、SNSで繋がっている人間の大半は未知な存在であった。そして、私はその未知の友人達に対して、並々ならぬ愛と友情を寄せていた。夜のある一定の時間になれば、いつもお決まりのメンバーがいて、皆でわいわい騒ぐのである。皆顔も知らない。会ったこともない。しかし、私は彼らを非常に愛していた。少し恥ずかしい言葉を使えば、ここに自分の居場所がある、なんて、そんなことを本気で考えていた。

 あの時の友人達は、今一体何をしているのだろう?その内の極わずかな人達は、今でも繋がっていて、会ったこともある。しかし、大半の人達は、会うこともなく、次第に離れていってしまった気がする……または、私が彼らから離れていったのかもしれない。あの美しい日々は、もう二度と帰ってこないのだ。

 懐かしい思い出だ。当時、私はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に熱中していた。ページをめくる度に、恐ろしい惨劇と勇壮な展開が待ち受けていて、毎日それから感銘を受け、次のページに向かう度に、それに一喜一憂していたのをよく覚えている。『カラマーゾフ』を読んでいた大抵の時、私はスヴャトスラフ・リヒテルの弾いた『平均律クラヴィーア曲集』を聴いていた。教会に広がる残響の美しい録音である。大音量で聴くと、近くに生息していると思われる、鳥の囁き声まで聴こえてくるのであった……

 そして当時の私は、部屋にこもって本を読むか、英文を和訳するか、ピアノを弾くか、音楽を聴くか。それくらいしかすることがなかった。

 夜が更けていく。『カラマーゾフ』に栞をはさみ、ヘッドホンを外すと、おもむろにノートパソコンを開き、SNSのページをクリックする。部屋には、私の作業場を僅かに照らす、小さなあかりが一つあるのみ。仄かなオレンジ色が漂い、それを覆うような暗闇が空間を満たしている。薄闇に光る液晶画面は、私の愛する、しかし私の知らない友人達をうつし出す。今思えば、きっと世間を否定しながら、世間に否定されているような人間ばかりの集まりであった。しかし恐らく、だからこそあんなにも心地よく、楽しい時間が過ごせたのだろう。

 もう二度とあのような日々を過ごすことは出来ないだろう。それから二年以上の月日を経て、私はもっと頻繁にSNS経由で人と知り合うようになった。そして、そのために、親友と言うべき人物にも出会うことが出来た。しかしそうなると、既に私は、SNSが楽しいのではなく、現実が楽しいのである。その時点で、私はもうあの頃の、閉鎖的で薄暗い、しかし優しく楽しかった時代に、戻ることは出来ないのである。

 時折、SNSに否定的な人をみかける。実際、彼らの意見は正しい。私はインターネット上に蔓延る、あの弱さへの文化とも言うべきものを、薄弱な感傷、厭世、ルサンチマンの文化を憎む。そして、現代人の醜い退廃趣味に吐き気を覚えるという点では、私は誰よりもSNS上の文化に否定的な人間である。

 しかしそれでも、あの美しい日々を忘れることが出来ない。人から見れば笑われるかもしれないが、あの頃の私にとって、それは確かに青春であった。私の青春は液晶画面の中にあった。私はSNSを通して青春を過ごしたのである。


 「どうでもよい」「知ったことではない」など、悩ましい物事に直面した時、それらの感情を強く感じる。それが他者との問題であれば尚更そうである。もしかすると、これは、悩むこと苦しむことから逃れるための、ある種の自己防衛反応なのかもしれない。ふと、そう思った。