20/05/06

 少年時代のある放課後のことである。私は初めて母や妹達の暮らす家に顔を出した。それは父と母が離婚してから、既に数年が経つ頃のことであった。その頃には、私も物事のわかる年になっていた。そして、私と母が会うのは不定期であり、最低でも半年に一度、長ければ二年に一度程度の頻度で会っていたように記憶している。

 その日、私が家に顔を出すと、そこには母の他に、見知らぬ男が一人いた。妹は学校で部活をしているらしかった。とは言っても、その男は私と殆ど口をきくことをしなかった。彼は私達に背を向けて、ずっとテレビでゲームをしていた。そして、それが当時の母の同棲相手であったということに気がついたのは、それよりずっと先の時のことである(後日、酩酊した父から聞いた話ではあるが、それは私の幼稚園時代の同級生の保護者であるらしく、そのために父は母の浮気を疑っていた)。

 次に思い出すのは、それから少し後である、私が誕生日を迎える数週間前の時のことである。私は母から電話を貰い、「誕生日プレゼントには何が欲しいか」という問いを受けた。私は当時、最新のゲームソフトを買ったばかりだったので、「何か面白いゲームが欲しい」と答えた。母はそれを元気のいい声で了解し、その日の電話は終わった。

 しかし誕生日を迎えた後も、母からのプレゼントは来なかった。時折、電話が入って「選ぶのに時間がかかっている」という言葉を聞いた。私は「とっておきのものを用意する」という母の言葉を信じることにしたし、それに内心、プレゼントのことなんて忘れつつあった。そして誕生日を迎えてから二ヶ月以上先のある日、母がプレゼントを持って私達の家にやって来た。それは二部作になっているRPGものであり、かつてPC向けに作られたものを、私の持っていたゲームソフト向けに移行したものであった。言うなれば、比較的マニアックなゲームである。二つの内の一つは、中古ショップで買ったばかりであるのがよくわかった。まだ値札がつけっぱなしであったから。そしてもう一つは、上記の母の同棲相手のおさがりであるらしかった。「それ、凄く面白いらしいから」と、母は言った。

 こうして書くと、何かネガティブな印象を人に与えるかもしれない。しかし、人の身の上の不幸とは、傍から見れば滑稽なのである。当時の私は、それを悲観したことなど一度もなかった。私はそのゲームは楽しんでプレイした。次男の兄もお気に入りであり、恐らくは兄弟揃って熱中したことのある数少ないゲームかもしれなかった。

 それを悲観するきっかけとなったのは、それから数年先のある日、私が何となく思い出したこの話を、当時の友人に話した時のことである。私はてっきり、それがいい笑い話になると思っていた。だから驚いたのだ。まさかそんな風に悲しい顔をされるとは思ってもみなかった。

 実際、母は忙しかったのだろうと思われる。女手一つで妹と長男の兄を育てることなど、容易な話ではない。それに、母はゲームにも詳しくはなかった。そして何より、私が母の家を訪れたあの日、私は見たのである。母の部屋の壁に、私と次男の兄の二人がうつった写真が一枚、飾られているのを。当時の同棲相手については、もうずっと前に別れているらしいが、母は恋多き女であるから仕方ない。そうとしか言えない話である。

 それでもこの記憶が、こんなにも印象的に私の脳裏に残っているのは、少年時代の私にとって、これが母にまつわる殆ど唯一の思い出だからであろう。あの頃の私には、他に母と深く関わった時の出来事がないのである。

 恐らく、私は潜在的に家族を憎んでいるのであろう。意識的にはそのつもりがなくとも、無意識のうちで、私は家族全員を、ぼんやり、漠然としながらも憎んでいる。それは、かつて家族から酷い目を受けたからではなく、家族にまつわる思い出の多い少年の日々の記憶が、私にとって嫌なものばかりだからである。忌まわしいものに関連するものに対して、あまりいい印象を抱かないのは当たり前であろう。

 妹についても、それは同じである。表面上、私は妹を愛している振りをしていた。実際、昔の私達はとても仲がよかった。しかし、今はと言えば、もう何年も前から、何か 義理に近いような感情しか抱いていないような気がする。強いて言うなれば、私は妹を愛していたと言うよりかは、愛そうと努めていたのである。

 そんな私が、妹に深く同情した時の出来事が一つある。それは二年前、私が母の家に遊びに行った時のことである。上京してから一年が経つ頃、私は母と数年ぶりに会い、それから定期的に母の家に遊び行くようになっていた。その日も、いつも通り母の家に遊びに向かい、そこで一晩を過ごす予定であった。

 私はその家の屋根裏で泊まるのが常であった。そして、その日も屋根裏で眠ろうとした。しかし、私が就寝しようとする前に、妹がそこを訪れた。妹は丁度バイトから帰ってきたばかりであった。私達は静かに、落ち着いた言葉をいくつか交わした。そして、妹がこんなにも思慮のある人間になっていることに、私は驚いた。そういえば、もう何年も前から、こうして二人だけ話すことをしていなかった。妹は、人に気を使ってばかりいる、性格の弱い、優しい女であった。

 妹は屋根裏部屋から下を覗いた。そこには母と、当時母が仲良くしていた男友達(肉体的な意味を含む)が、二人仲良く酒に酔って、床に寝そべっていた。それを見た妹は、寂しそうに笑って、いくつかの言葉を口にした。その言葉が、私の心に悲しみにも似た愛情を呼び起こした。ふいに、私はその場で妹を強く抱き締めたくなった。やがて妹は、家族の中で誰が一番好きかをたずねてきた。私は「お前を一番愛している」とこたえた。妹は意外そうな声を出して、次に照れくさそうに喜び、笑った。私も内心、嬉しいような、恥ずかしいような気がした。

 私は母のことは悪く書きたくない。どれだけ無意識に嫌悪感を含んでいようとも、やはり私は家族を、母を、心の何処かで愛しているのである。

 しかし、その晩の次の日、私がその家を去ろうとする間際に、私達が交わした幾つかの会話を、私は決して忘れることが出来ないのだ。その中で、母は妹を前にして、妹の容姿を醜いと言って笑ったのである。妹と母の仲が良いことを、私は知っている。彼女達の間で、友達のような会話が多くなされることも知っている。しかし妹の、あの頼りない、自信なさげな態度と、時折見せる道化のような振る舞いが、私には、私達家族のせいに思えてならないのである。再会して以来、母は私を愛してくれた。私に媚びるような態度さえ取ってくれた。しかし、今やそれらが、私には嘘としか思えず、もはや母を信じることが出来なかった(実際、誰かから愛されようとする態度は、ある程度自分を偽らなければ成立し得ない)。

 こんな風に怒りを覚えながらも、私は自分がまだ頼りない、情けない人間であることを自覚している。私には母を非難する権利など一つとしてない。そして妹に対しては、ただ何も出来ずに目の前を去ったことを、申し訳なく思うばかりである。結局あれから一度も、母や妹の前に姿を現していないのである。


 私が母方の家に再び顔を出すようになったのは、当時私のよく通っていた教会の牧師の影響である。

 この牧師については、もう既に何度か書いてきた。そして、私が非常に彼を尊敬していたことも。私達の間には、決定的な思想上の違いが存在した。しかし、それでも私が彼に惹かれてやまなかったのは、彼のその優れた人格と、その明晰な頭脳の故であった。私は彼を愛していた。牧師は私にとって、上京してから出会った、父親とも呼ぶべき人物であった。

 だからこそ、私は彼に認められたかった。しかし、いくら考えてみても、私は牧師と、牧師の信仰する原理主義的なキリスト教信仰には、酷い矛盾と欠陥に満ち溢れているように思われた。それについて、少しだけ書こうと思われる。

 教会は権威である聖書に従うことを命ずる。しかし、知識は疑いと共に生ずるものである。疑うことなくして、いかなる誤解の解消が得られようか。教会は信心深くあることを命ずる。しかし、もし現実に神の愛が示されていると信じ、それに基づいて解釈するとすれば、それは現実を都合よく解釈し、誤解することに他ならないのではないか。そうだ。キリスト教は教会と聖書の教えを信じ、それに忠実であることを求め、現実に対して受動的な態度を求める。しかし、受動的であり続けてきたからこそ、教会と信徒達は、今日までの歴史に見られる様々なあやまちを犯したのではないか。

 教会は信徒が既に世に勝っていると教える。何故ならキリスト教徒は皆神に選ばれ、愛されし民であり、死後には天の国における浄福が約束されているから。しかし、それこそ都合のいい解釈であり、負け惜しみであり、現実の問題から目を逸らしていることに他ならないのではないか。信じるものは救われる。何故なら信じるものは現実を自己愛に基づいて歪め、解釈するから。信じるといういう事は、ある程度盲目になるということであり、盲目でなければ、人の幸福は成立し得ないのである。しかし、そのために宗教と信仰を持ち出し、神の名を持ち出すとするならば、それこそ神に対して不誠実であり、自分の身の安全しか考えていないと言えるのではないか。

 そして、これらの事を言おうものなら、「自分の頭でしかものを考えられないのは不幸である」というわけだ。神のご計画は偉大であり、それは一介の人間には理解の及ばぬことである、と。結構な話だ。しかし、その神に対する信仰が、そもそも間違ったものであり、誤解に基づいたものであるとすれば、ご計画も糞もないのではないか。それでまた罪を犯せば、またそれを人間の罪深さのせいにするが、それは罪深さと言うよりかは、そもそも受動的に物事を考えて、能動的に問題に取り組もうとしない、その姿勢にあるのではないか。

 何より、教会は人間の本性を罪深いものとして断罪するが、そんな人間の中で最も罪深い天才という人種によって、キリスト教を始めるとする人間の文化がどれほど豊かに発展し、今の私達の生活も、それにどれだけ支えられているかということについては、一体どうお考えか。まさかそれもまた「神のご計画」で済ませるわけにはいくまい。

 何処をとっても矛盾だらけな思想であった。悪魔にでも行ってしまえというものだ。ロマン・ロランは「信仰と同じく、信仰の喪失もまた神恵の一撃、突然の光明であることが多い」と書いていたが、彼は正しかった。私は今でも神の存在を信じている。しかし、あのふざけた教会的な信仰から抜け出せたことは、私にとって、神の恩恵だと思わねばならない。

 そして、私はそれらの事に、ずっと前から、上手く言い表せはしないが、気がついていた。それでも教会に居続けたのは、私が牧師を愛していたからである。私は何としても彼に認められたかった。そして私には、あれ程聡明であり、鋭敏な頭脳の持ち主が、これらの事に気が付かないわけがないと思われた。だからこそ、私には、彼がそれから目を逸らしているに違いないと考えたのである。

 それから私は、教会にいる人々のことを考えてみた。心優しいが、皆人生に傷つけられ、人生から逃れたような、そして自ら好んで盲目でいることを求めるような、そんな人達ばかりであった。それが悪いとは思わない。結局、閉じた幸福、落ち着いた生活を求めるならば、人はある程度盲目でなければならないのだ。しかし、今の私には必要のない生活である。そう思ったまでの話だ。

 私は牧師と教会の人々から、本当に多大な恩恵を受けた。そして、私から彼らに与えることが出来たものはと言えば、それと同じくらいに大きな心配と迷惑だけである。牧師からは、個人的な生活の援助を受けたこともある。だからこそ、自分が恩知らずな者に思えてならない。そして実際、私は生意気で、恩知らずな若造なのである。彼は私の将来を期待してくれた。私の才能を買って、私がキリスト教的な意味合いで、何か大きなことを成し遂げることを期待していた。最後まで、私が教会に立ち返ることを願ってくれた。そして私は、それらの感情を、こうして裏切ったわけである。

 結局、私が母や牧師を通して知ったのは、物事の深層において、和解と調和が有り得ることは決してなく、ただ分裂と闘争だけが真実として残されている、ということであった。しかし、これらの事を書きながらも、時折、祈らずにはいられないのである。「主よ、私の罪をお赦しください」と。