20/05/08-09

 一昨日、とても悲しい夢を見た。それは映画のように長く、物語のある夢であった。夢の最後で、私は泣いた。そして、泣きながら謝っていた。

 そして私は目を覚ました。

 その物悲しい夢は、しかし同時に(何故かはわからないが)とても幸福な気持ちをも私に与えてくれた。やさしい憂鬱が私を訪れた。暫く、何もする気が起きなかった。そして、気がつくとまた眠りに落ちていた。

 次に目が覚めた時には、暗い感情が胸いっぱいに広がっていた。私は寂しかった。まるで何かを喪失したかのような気持ちがした。そのまま、深い抑うつから抜け出すことが出来ずに、私はその場に横たわり続けた。時折、一時間にも満たない短い眠りが私を襲った。眠っている間は、何も感じたり、考えたりしなくて済む。眠りは孤独の虚しさを和らげてくれる。睡眠は死人のようにやさしかった。

 結局、起き上がって何かをしようと思う頃には、既に一日が終わろうとしていた。部屋は暗く、夜は虚しかった。夢の与えた印象は、いくつかの断片となって、まだ私の脳裏に散らばっていた。それを覗き込むと、砕けたガラスの破片のように、私自身の反映が見えるような気がした。

 そして私は、暗い部屋の中でひとり、考え事をし始めた。

 突然、誰かと繋がりたい思いに駆られた。自分を受け入れて、自分が帰るべきところとなる、自分から離れないもの、居場所が欲しくなった。

 居場所?しかし、それは何とも馬鹿げた話のように思われた。私は友人に恵まれているではないか。自分の人生を省みた時、自分なりに幸福に生きることが出来たと、そう思う事ができるではないか。では、何故「居場所が欲しい」という考えを抱くのか (というのも、自分が帰属する場所を求めるのは、自分が不幸であるという意識に基づくものであるからだ)。

 その答えは簡単だった。そう、私は家族が、家庭が欲しいのだ。失われた原初を取り戻したいのだ。母を、妹を、そして幼い頃の女友達を、これら全てのものを、失われた幼少期の思い出の続きを、内心、私は他の誰かとやり直すことを、期待しながら生きているのだ。

 そう考えるきっかけを与えてくれたのは、私の見た、あの物憂げな夢の内容であった。それは悲しい印象を私に与えたが、同時に幸福な後味をも残してくれた。それは、私にとって、贖罪の物語、罪を赦される過程を描いたもの、和解と調和に満ちた、愛と救済の物語であった。それは、私が赦され、受け入れられ、誰かと一つになる夢であった(夢の内容については、これ以上書くことが出来ない。理由は二つある。一つは私自身、その内容を語るのが恥ずかしいからであり、もう一つは、もうその内容を、最早上手く覚えていないからである)。

 その後、私は憂鬱に襲われ、やがて暗闇に沈んでいった。それは、夢が覚めて時間が経つにつれて、気づいたからであった(または、思い出した、とも言うべきなのかもしれない)。この世界には本来、救いも糞もないのだということに。

 今日まで、自分の過去を回想する上で、不思議と私は、異性にまつわる思い出話をすることが多かった。それは、認めたくはないが、私が潜在的に、異性を求めているということの表れなのかもしれない。しかし、それは何ともおかしな話である。今日まで、どちらかと言えば、私は異性との性的な体験を、恋愛的なものを避けて生きてきたのだから。しかし同時に、異性との友情を、家族のような信頼を、他の同性よりもずっと深く求めていたのも、否定しがたい事実なのであった。


 人間とは根源的に差異を含んだ存在である。例えば、ある人が現在Aという状態であるとしても、人が「Aである」という状態は、既に過去へと変化し、過ぎ去りつつあるため、それは仮定の中にしか存在し得ない。私達が生きる現在とは、常に過ぎ去りつつある過去なのだ。人は常に遅れて生きる存在なのである。

 よって、ある人が自分について考える時、その自分は、仮定された自分であり、そんな自分への考察とは、一つの自分自身への模倣(シュミラクル)なのである。

 こうして、シュミラクルは多層化していく。人間とは、本来的に自己同一性が欠けた存在である。変わらない自己、常にそこにあり続ける本性など存在しない。あったとしても、それは(主観や過ぎ去る自己の影響で)私達には理解できない。生成し、変化し続けるということ。それこそが私達にとって変わらざる唯一とも言っていい本性である。

 しかし、人は時に、変化を受け入れることが出来ない。何故なら、変化はその本性からして、人を傷つける性格を持つからだ。変化は、変化する前に存在したものを喪失させることに繋がる。変化は人に忘却と喪失を促す。そして、もしそれが人間にとって避けがたいものであるならば、生は本質的に人を傷つけるものとして存在している。何かに傷つけられたものは、自分を傷つけないものを理想として求める。つまり、変わらないものを、そこにあり続けるものを、同一性を求めるのである。

 過去を思い起こすということは、それを生き直すということだ。たとえば五月六日の日記の中で、私は少年時代の母との記憶を思い起す。プレゼントとして、母の同棲相手のおさがりを貰った思い出である。そして、今の私にとって、それは少なくとも二つの意味を持つ。少年時代には、それは「母からプレゼントを貰った」という喜ばしい記憶である。しかし、青年時代には「母の恋人のお下がりをもらった」という悲観的な記憶である。それは、当時の私が感じていなかったことである。つまり、私はその過去を、既に生きたものであると同時に、一度も生きたことのないものとして生きているのだ。

 過去を思い出すことが、私にこれまで感じたことのない感情さえをも呼び起こした。そして私が気づいたのは、私が異性を恋愛的に拒みながら、同時に異性の恋人を求めていることであった。私は深い意味でのパートナーを求めていた。失われた母との思い出を、妹との日々を、そして忘れられた幼少期の女友達との日常を(私達はよくおままごとをして遊んだものである)、これら全てを皆一緒に、漠然としながらも、傲慢にも他の誰かに押し付けるように、期待しながら生きてきたのである。

 しかし人間は、その本性からして、はじめから既に原初を失われたものとして生きることしか出来ない。何故なら、私達は必然的に変化を強いられ、かつての私達を失うよう強いられるからだ。私達には始まりも終わりもない。得られるものは、皆はじめから失われるよう約束されている。

 たとえ、私が誰かから赦されたとしても、問題となる過去は残り続ける。何より、赦されようと赦されまいと、その過去を経過した現在を踏まえた上でなければ、人は生きていくことが出来ない。先程の話に戻るが、「Aである」という状態は、過去として変わらず私の無意識に眠り続けているのである。

 よって、贖罪が得られたとしても、それは何にもならないのである。時間は過ぎ去ったら最後、二度と帰ってこない。私は過去の記憶を内在しながら、同時に過去の経験によって変わってしまった。もう二度とかつてのよう誰かとの関係を生きることなど出来ない。過去は決してやり直せない。否定的なものを、悲しい過去を回収するように生きたとしても、それで報われることは決してないのである。

 これらの事を理解した上でも、やはり苦い顔をしながら、何度も「すまん、僕を許せ」と独り言を言う時がある。生きる上で、後悔は消えない傷跡として残り続けるように思われる。

 ふと、私は永劫回帰のことについて考えてみる。一切が再びやってくる……永劫回帰とは選択的な思想である、とドゥルーズは指摘していた。一切が回帰することを肯定するということが、永劫回帰の思想を生きる上で必要とされるから。しかし、一切が回帰することを望める人間、何かを否定せずに、全てのことを必然だったと肯定できる人間など、果たして存在するのだろうか。そう、いない。だからこそ永劫回帰は超人の思想なのである。何故なら、人間とは、一つの反動的な存在、憎悪と後悔に駆られて行動する一つの復讐機械であり、ニヒリズムルサンチマンから逃れることの出来ない、悲劇的なものであるから。

 しかし、それでも尚、全てが必然であるとして、肯定する意志が必要なのではないか。

 生きる上で、自分の罪が償われ、救われることはありえない。何故なら、それは感覚( = 意識)上の問題であって、現実の問題ではないからだ。つまり、本人が「救われた」という意識に到達しなければ、たとえどんな事を他者からされようとも、どんな赦しを他者から与えられようとも、救われた気がしないのである。

 よって、人間存在にとっての救いは、そもそも救いを求めなくなることから始まる。真に救われた人間の境地とは、最早救いを求めないということである。そう、それこそが悲劇としての生を肯定するといぅことである。

 人は自分の経験に基づかなければ、現在を生きることが出来ない。そして、経験の作りだした価値観に基づいて、現在を理解しようとする。その理解は人の過去の反映でもある。今私が新たに体験する事は、同時に、既に私が生きたことのあるものでもある。

 よって私達の現在には、今体験しているものと、今はまだ体験出来ないものの、二つの領域が存在すると言っていい。それは丁度、当時は分からなかったが、今思い返すことでその意味に気づく、そんな回想と同じような現象である。

 再びやって来るということ、回帰するということ。それが生の本質だとは言えないだろうか。つまりは永劫回帰だ。

 こうして今、私は再び永劫回帰についてを考えている。しかしそれは、かつて永劫回帰の概念を知った時とは、別の考え方によってである。私は再び、何度も、永劫回帰についてを考える。この体験は回帰し、反復しながらも、決してかつてと同じではない。決して同一性の回帰ではない。

 私達が今現在生きられない世界に賭けるということ。現在とは、別の角度から見れば、既に生きたことのある過去の変奏である。しかし、それは同時に、別の角度から見れば、初めて生きられることでもある。私たちが今生きている現在には、同時に、今はまだ生きることの出来ないもの、理解のできない状態、生きられない世界が含まれている。

 人は時間と共に変化していく。変化は人の内側に差異を生み、差異は時間の経過と共に多数化していく。そして、自らの内の自己( = 過去)が多数化していくにつれて、理解出来ていく現在の領域が増していく。しかし、現在には絶えず、体験し得ない領域が残されている。そこに新たな発見があり、気づきがある。

 そして今、私はその気づきに促されている。私は現在を気づきによって加速させている。その先を生きようとすることで、私は過去を肯定し、過去を救済しすることが出来る。それは同時に、救済なき人間存在、罪の赦しなき人間存在を、肯定する事によってしか得られない。変化し、生成する人間存在を肯定し、一つの場所に留まらないで生きようとするものだけが、それを得ることが出来る (結局、人間の救われたいという願望や、赦されたいという願望は、一つの居場所に永遠に留まりたいという意志の現れなのである) 。

 しかし、また私は同じようなあやまちを繰り返すのだろうか?私の今日までの体験は回帰するのだろうか?嫌だ、私はそれを拒みたい。私の経験は、かつてからの変奏であると同時に、かつてにはない差異が含まれている。過去の私は、いつか自分がこんな風になっているとは思ってもみなかった。未来の私は、きっと今の私では、想像もつかないような人間なのだろう。

 友よ、私を許せ。傲慢なのはわかっている。しかし、私にはどうすることも出来ないのだ。


 しかし、出来ることなら、またあの物悲しくも幸福な夢の続きを見たいものだ。