20/05/11

 音楽はやさしい毒だ。それは麻酔のようにこちら痺れさせ、麻薬のようにこちらを溺れさせる。心地よい静穏と物憂げな陶酔。心が落ち着き、神経が静まり、満たされるような感覚が、じわじわと全身に広がってゆく。この快楽を知ってしまっだら最後、もう以前のような生活に戻ることなど出来ない。

 だからこそ私は音楽を求めてきた。 リルケは『マルテの手記』の主人公に「僕は子供の頃から音楽に対してひどく不安であった」と語らせている。「それは音楽が、僕を何よりも力強く宇宙の中へ高く引けあげてゆくからというのではない。音楽が僕を再び元の場所へ連れ帰さないで、さらにもっと深い、何処かわからぬ混沌とした地底へ突き落としてしまうことに気づいたからだ」と。なるほど、それはその通りだ。今の私には、音楽なしで生きていくことなど、到底考えられない。

 生活を営む上で避けられないのは、他者との共存である。そして、それがどれだけ愛する相手であろうと、私は時折、他者との生活の中で、自分を見失っていくような感覚に陥ることがあった。

 私が音楽に逃れるようになったのはそれからであった。音楽は私を孤独にした。もとい、私の愛する音楽は皆、私に孤独を感じさせ、私を孤独にさ迷わせるものであった。物憂げな音色が、心の落ち着きと、閉じた暗闇に落ちて、沈んでいくような喜びを与えてくれた。私はその感覚に病みつきになった。以来、自分の世界に逃れる手段として、私は音楽を愛するようになっていった。

 どうやら私の愛するものには、いくつかの共通点があるらしい。こちらに痺れるような感覚を与え、それが広がり、精神に穏やかな落ち着きを、沈むような感覚を与えてくれるもの。それでいてこちらを高め、愛し、精神の高揚を感じさせ、生きる喜びと生の価値を教えてくれるもの。たとえばコーヒーなどがそうだ。コーヒーを飲むと、心が静まり、頭がぼーっとして、神経の安らぐのを感じる。それは喜ばしく、美しいひと時だ。

 私は魂の平穏を求める。孤独がなければ、人生には何の価値もない。幸福とは一つの麻酔である。それはこちらを痺れさせ、心地よい安らぎを与えてくれる。しかし同時に、幸福は快い陶酔と、深い高揚感をも与えてくれる。だから、幸福は劇薬でもあるわけだ。

 今、私はサムソン・フランソワの弾いたショパン夜想曲集を聴いている。それは私に精神の安らぎと、孤独の苦い喜びと、甘く酔うような快楽を与えてくれる。やはり、音楽はやさしい毒だ。それは秋の夕暮れのように憂鬱で、暖かく、そして悲しいまでにやさしい。


 東京に来てから驚いたことは、その違法薬物の出回り具合である。少なくとも私の周りには、常用者となれば僅かかもしれないが、これまでに一度でも薬物体験をしたことがある人の方が、したことのない人よりも遥かに多数派である。

 実際、私も体験がないと言えば嘘になる。ただ普段、酒も煙草も口にしない(酒は社交程度には飲むが、知人といる時以外は好んで飲まない)ような人間が、薬物にはまるわけがない。それは流石に言い過ぎかもしれないが、そうでなくとも、かねて私は、ドラッグ・カルチャーの持つ、あの快楽主義的とも言える厭世的な側面に、馴染むことが出来ないでいる。

 要するに、麻薬にはまるにはあまりにも臆病であり、あまりにも「善良なお坊ちゃん」なのである。

 かと言って、薬物の存在それ自体に否定的であるわけではない。用い方が純粋であれば、あらゆるものは純粋である。ただ問題は、どんなものであれ、大抵の人はそれを純粋に用いることが出来ないということにある。そういう意味では、薬物の存在に否定的ではないが、その合法化には肯定的でない。あれは個人が扱うにはあまりにも刺激が強すぎる。初めて使用する際は、近くに経験者がいて、彼を指導し、それに慣れるよう指示しなければ、使用者は堕落するであろう。

 しかし、私はそちらの世界に詳しい人達に比べれば、殆ど何の経験も持たない、赤子同然の存在だと言っていい。無知な人間として、この話題については、ここで口を塞ぐべきなのかもしれない。

 ただ、以前偶然知り合った人から、非常に面白い話を聞いたことがある。そのことを、一応ここに記しておこうと思う。

 彼はあらゆる薬物を体験したことのある人間であった。そして、大麻所持をはじめとする薬物犯罪のために(または幾つかの暴力事件のために)、もう何度か捕まった経験のある人間であった。警察に追われている時、急いで大麻を処分するために、その場で持っていた大麻を全部食べた話や、拘置所に入っている時の話も興味深かったが、とりわけ印象的であったのは、覚せい剤を使用していた頃の話である。

 ある日、彼がいつものように覚せい剤を使用すると、それがあまりにも効きすぎて、彼は非常に危険な状態に陥った。自分がこのままで死ぬことを悟った彼は、その場で何度も思い切り自分の顔を殴り、それからバケツに水を入れて頭に水をかけるのを、同様に何度も繰り返したらしい。こうして彼は平常の意識を取り戻し、何とか死なずに済んだわけだが、それ以降、その時の後遺症として、彼はいつも死んだ目をしているのであった。

 ちなみに、彼とは会ったその日に仲違いをした。去り際に、私は彼と喧嘩になり、胸ぐらを掴まれ、壁に体を思い切り押し付けられた。あと少しでぶん殴られるなり、首を絞められるなりされるところであった。彼は面白い人間ではあったが、「レオナルド・ダ・ヴィンチの描く人間の皮膚は宇宙人のそれだ」とか、「天才は皆宇宙人と繋がっており、人間の無意識にいつもテレパシーを送っている」とか、麻薬のやりすぎで既に頭がおかしくなっていた。あらゆる快楽は、理性の眼差しが伴わなければ、人を駄目にするものに変わるのであろう。

 しかし、いい話が聞けたとは思っている。


 思想というものは、生活の実際的な側面では何の役にも立たないものなのだ。もとい、学術的なものとは、本質的に実用生活の中においては無意味なのである。

 この世の生活というものは、そういった多くの無用なもの、必要のないものによって形成されるのである。結局、哲学は哲学にしか用が無い。考えるために、必ずしも哲学を必要とする理由もないわけだ。しかし、無用なものの働きこそが、人の生き様を美しくする。

 「哲学は愚劣を防ぐのに役立ち、愚劣をある恥ずべきものにする。それは、思考の下劣さをそのあらゆる形態のもとで告発すること以外の使用をもたない。その源泉と目的がいかなるものであれ、あらゆる欺瞞を批判しようとする学問が、哲学以外にあるだろうか」ドゥルーズはそう書いていた。「いくつかの行き過ぎが愚劣と下劣には禁じられているが、しかし、哲学以外に誰がそれを禁じるのか」と。人は本来、馬鹿に生きようが高貴に生きようが自由である。馬鹿であろうと高貴であろうと、なんであれ生活はやっていけるから。しかし、下品な連中を「下品だ」と指摘するものがなければ、人の愚劣さは益々不愉快なものとなり、人の下劣さは益々耐え難いものとなる。その先にあるのは、可能性を奪われた人間の未来である。馬鹿が好んで馬鹿であることを禁止するもの、つまり何らかの思想がなければ、人間の生活は益々不愉快なものとなり、益々耐え難いものになるのであろう。

 やはり哲学とは、どんなものであれ理性主義的であることしか出来ず、最善を志す理想主義である事しか出来ないのである。


 先日、インターネットでネット上の生放送配信を題材にした漫画を見かけた。そして、それは私が中学生の頃、パソコンに張り付いてニコニコ動画の生放送配信を見ていた時の自分のことを思い出させた。以来、最近はずっとその頃のことを考えている。

 大体、私が見に行く配信は、コミュニティの参加人数が百人前後(またはそれ以下)しかいない、人気のない、しかしそれだけに配信者と閲覧者とのコミュニケーションが密接なものであった。はっきり言って、私はそのコミュニティに依存していた。恥ずかしい話、自分を受け入れてくれる場所だとか、居場所だとか、そんな感じの事を(今考えると滑稽であるが)考えていた。無論、家族はそんな私のことを冷めた目で見ていた。しかし、そんな事はどうでもよかった。実際はそうでもないのに、何かに熱中している間は、それなしでは自分は生きられないと、心から思い込むものである。そう、私はそれらの配信なしでは生きられないと、本気で考えていたのであった。

 しかし、こうして思い返してみると、私の今日までの人生は、孤独と帰属する居場所と、その両方を同時に求めてさまよっていることに気がつく。それは悲劇のように物悲しく、また喜劇のように滑稽である。

 ニコニコ動画には、それ以外の面でも熱中していた。私は当時、ボーカロイドに非常に夢中になっていた。それなりにマイナーな曲も掘って聴いたものである。今の私の友人にも、何人かボーカロイドが好きな人間がいるが、最近、彼らの影響で、七、八年ぶりにかつて自分の熱中していた曲を聴き直している。まるで当時の記憶がよみがえり、波のように私の頭に訪れるような感覚だ。懐かしくて仕方ない。

 ボーカロイドの曲には、恋愛を題材にした、時に露骨なまでに性的な曲も少なくない。中学生の頃の私には、それらにまつわる経験が全くと言っていいほどなかったはずなのに、何故かそれらを題材にした曲に深く共感していた。もとい、経験がないからこそ共感し、好意を抱くことが出来たのだろう。

 実際、ボーカロイドの歌詞は、言葉遊びが強いというか、意味があるようで意味がない、というと少し言い過ぎかもしれないが、意味深な言葉で聴き手にイメージを想起させて、それを楽しませる、といった傾向が強いように思われる。そして、その言語表現の多くは、思春期の閉じた、繊細で傷つきやすい憂鬱を表したようなもので、それが日々に鬱屈としたやり場のなさを感じている少年少女の心に突き刺さったのだろう。そんな初々しい、穢れなき子供であったからこそ、よりピュアな意味で性愛的な世界観を楽しむことが出来たのである (性が一つの現実として自分に近いものとなれば、大半の人間は、何らかの昇華を伴わない限り、性を不純な目で楽しむようになるか、そうでなければ性を悪として遠ざけるようになる)。まさに経験がないからこそ楽しめる世界観、というわけだ。

 しかし、中には今聴いても独創性を感じるものや、胸に来るものも少なくない。十年弱の時を経て、私は再びボーカロイドの音楽に対して、ある種の親近感とも言えるような、深い共感を覚えている。

 ニコニコ動画は、別の恩恵をも私に与えてくれた。今はどうか知らないが、当時、サイトには歌詞の和訳のついた海外のロック・ミュージシャンの動画が多く出回っていた。たとえばデヴィッド・ボウイの音楽に初めて触れたのは、ニコニコ動画においてであった。そして、私がボウイを愛するようになったのはそれ以来である。

 しかし、私のこれらの傾倒は、半ば強制的に打ち切られることとなった。ある日、使用していたパソコンが壊れたのである。家族はそれを修理しようとしなかった。当時、私は地味で、運動も出来ず、そのくせ真面目に勉強にも取り組まない、そんな冴えない生徒であった。なんの取り柄もない私がネット文化に傾倒していく様は、家族からしたら不愉快であり、不都合であったのだろう。父は私に「いい機会だ」と言って、私を納得させた。

 実際、パソコンが壊れてから、私の成績は上昇していった。それに、次第に自分が熱中していたものに対する執着も忘れていった。私はやがて別のものへと関心を向けるようになった。やはり、「これがなくては生きていけない」と思い込んでいるものの大半は、実際になくても生きていけるのである。


 反復するメロディーの美しさというものに、改めて驚かされる。たとえば今、目の前にピアノがあるとして、右手で一つのアルペジオのフレーズを弾きながら、左手で異なった和音を連ねてみるとしよう。左手が奏でる和音が、一つの舞台の背景を作る。右手の奏でるアルペジオは、絶えず同じフレーズの反復を示しながらら和音の一つ一つに応じて、それぞれ異なった表情を見せる。和音の差異が、反復するアルペジオに魅力を与える。同じアルペジオが、背景で鳴らされる和音によって、悲しい顔になったり、楽しい顔になったりするのである。それはまるで、同じ一つのものが、その時々によって全く別の意味を持ってよみがえるかのようだ。