20/05/15

 私達は皆、存在しない青春を追い求めている。失われたかつての世界への悲哀を、あったかもしれない人生への可能性を、まるで帰るべき故郷のように空想し、恋焦がれている。理想というものは時に、過去から現在に至るまでの悲しみを償うために見出される。感傷的な理想から、人は存在しない青春を追い求め、それを演じようとする。

 私がここで思い出すのは、『存在の耐えられない軽さ』に登場する女流画家サビナだ。

 彼女は不和のある家庭に育ち、不遇の少女時代を送った。それもあってか、彼女は終生、静かな、甘い、調和のとれた家庭への憧れを抱いていた。それが幻想であり、美しい嘘であることはわかっていた。それでも、自分の理想を叶えたようなものを前にすれば、たとえそれがどれだけ安っぽいものであろうとも、センチメンタルな感動を覚えざるを得ないのであった。だから彼女は、よくテレビから流れるありきたりなドラマ(父と娘の和解を描いたもの)を目にすると、涙を浮かべてしまうのであった。

 そして、私も似たようなところがないと言ったら嘘になる。

 先日、友人の家に泊まった時のことである。彼に連れられて、私はその近くにある田舎道をぼんやり歩いた。時刻は既に夕暮れであった。遠くの空から続く燃えるような金色が、この世界を詩的に彩っていた。夏の匂いが既に空気に漂っていた。私はそれを嗅ぐと、いつも胸が焦がれるような気持ちがするのであった。私は夏を愛していた。とりわけ夏の夜の、湿った、生暖かい、胸をかきむしるような美しさを愛していた。

 ふと、自分の失われた幼少期と、奪われた少年時代の可能性のことを思い浮かべた。そして、何度も抱いたことのある、次の感情を思い浮かべた。そう、大人になった今、再び自分の過去をやり直したいような気がしたのである (私達は皆、時代によって可能性を奪われた子供達である) 。


 マーラー交響曲の緩徐楽章の美しさは、その悲しいまでに甘美な響きにある。甘く、物憂げで、悲しみを償うような響き。胸が張り裂けるような悲哀と、それをあがなうようなやさしさ。報われ、救われ、赦されたものの世界。悲しみと夢見心地の美しい調和。こちらを奪い去り、どこか遠くへ連れ去ってくれるような音楽。交響曲第三番の第六楽章、第四番の第三楽章、第九番の第四楽章……それらを聴いていると、いつも深い陶酔と感動に胸を奪われる。

 マーラーの勇壮な緩徐楽章を聴いていると、自分が古いモノクロ映画の主人公であるような気がしてくる。暗い部屋の中にいる時、または、夏の夜空の下を歩く時、もしくは、夕陽の差し込む電車に窓辺に揺られている時、耳元で鳴り響くマーラーの音楽が、私の何気ない日常を、何か非常に意味のあるもののように彩ってくれる……

 そして私は、自分が今日までに体験した悲しみや、自分が今日までに失ったものや、自分が今日までに愛したもののことを考える。すると、何か泣き出したいような気持ちになるのである。

 何故私がこんなにもマーラーの音楽に惹かれるのか。それは、彼の音楽がとても孤独な響きをしているからだ。美しい音楽はどれも、私に孤独を感じさせる。そして同時に、それはやさしい憂鬱で、私の孤独を癒してくれる。人は皆、自らの内に潜在的な孤独を抱えている。私が孤独な音楽に惹かれるのは、私もまた孤独であるからだ。自分の内にある孤独と、他のものの中にある孤独の共鳴。それがこんなにも私を喜ばせ、私に甘い気持ちを味わせてくれる。

 弱さへの共鳴……無論、マーラーの音楽の内に、実際に孤独が存在しているわけではない。結局、音楽は音楽以外のものを表現することなど出来ないのだから。悲しげな音楽はあれど、悲しい音楽は存在しない。私がマーラーの音楽の内に見出した孤独は、私が勝手に見出した幻想であり、私が味わうこの悲しい夢見心地は、美しい嘘なのである。しかし、そうと分かってはいても、サビナがテレビドラマの中にしか存在しない家族に胸を震わせ続けたように、私もそれに感動せずにはいられないのである。


 時折、自分の十代の頃の記憶や、失われた幼少期のことを思い出す。私の少年時代、失われた私の青春。もう二度と帰ってこない。周囲の環境や、自らの未熟さのために失われた、かつての世界の可能性。それらを、今ここでやり直したいような気がする。失われた幼少期の続きを、大人になった今、再び始めたいのである。

 それが空想の域を出ないことはわかっている。何故なら、過去をやり直すことなど出来ないからだ。人間の存在とは直線的なものであり、一度一つのものを経験したら、それを踏まえた上でなければ、次のものを経験することが出来ない。私達はやり直せない。私の失われた青春は決して、二度と帰ってこない……

 それでも、失われたかつての可能性を取り戻すことは出来るのではないか。人が生きる現在には、常に今は生きられない世界が存在するからだ。たとえば昔読んだ本を読み返すと、かつては気づかなかったことにきがつくことがある。私達は、今は気づくことの出来ないものを、やがて未来において回収する。そうして自らの生を更新させていくのである。私が今体験していることの中には、今はまだ生きることの出来ない体験が内在している。そこには一つの可能性がある。私はそれに賭けたいような気がする。

 さて、ここでとても滑稽な話をしようと思う。私の好きな異性のタイプは、あまりに友達が多そうではない人間だ。なるほど、今の私は、ありがたい事に沢山の友情に恵まれている(私は自分の友達を愛している)。しかし、かつての私は、孤独な、寄る辺のない子供であった。そして、私が最も恋焦がれているのは、そんな失われた少年時代の自分なのである。あまり社交的でない人に心理的な共感を覚えるのはそのためだ。恐らく、私は自分と同じ、失われた青春を生きた人を、孤独な友達を求めているのである。

 無論、この考えが身勝手で、傲慢であるのはわかっている。だから冗談として書いたまでの話だ。


 日中、非常な焦燥感に襲われることがある。自分はいつまでもこのままなのであって、決してこの独り善がりな世界から抜け出すことが出来ないのではないか。このまま何者にもなれず、ただ悶々として終わるのではないか。

 何故私は、このように人前に立つことが嫌うのか。人に非難されて、自信をなくすのが嫌なのか。なるほど、それもあるのかもしれない。だが、それ以上に、人に騒がれるのが嫌なのだ。かつては私も、スターに憧れたことがある。いや、今でも憧れているのかもしれない。画面越しに見た、マイクを片手に堂々と振る舞うロック・スターの姿。それに魅了された十四の頃の記憶を、私は決して忘れないであろう。しかし、今の私には、到底そんな振る舞いが無理なように思われる。何より、今もまだスターに憧れているかもしれないが、そんなロック・スターにはもう憧れを抱いていない。

 ありがたい事に、普段の生活の中で、人から好意を抱かれることがある。中にはとても強い感情を示してくれる者もいる。しかし、嬉しい半面、相手の感情が強くなるにつれて、私は何か、自分にはないものが求められているような気がしてならないのである。

 芸術作品を創造するものの原動力の一つとして、自己存在の意味のための戦いがある事は否めないことだ。私も一介の人間として、何かをなしたいという気持ちがある。しかし、本心を言うならば、自分の願望の全てを諦めて、静穏な生活に日々を暮らしたい。草木に囲まれ、花を愛で、音楽に酔い、文を書く。そして日々の単純な仕事と生活に我を忘れる。それだけで充分に幸せなような気がする。だが、これが一種の現実逃避であることもわかっている。

 皆、凄いなと思う。あんなにも積極的に現実に働きかけている。私はまだ、自分が何をすればいいのかもわかっていないのに。

 ここまで書いて、私は気がつく。自分は何と弱々しいことを書いているのだろう。我ながら不愉快である。こんな辛気臭い話はやめて、もっと別のことを語ろう。

 私は今、ロマン・ロランの言葉を思い起こしている。彼はこう書いていた。「他人に結びつく芸術こそ、真に生きたる芸術である」と。やはり私は、誰かのために生きたいような気がする。それも、誰かから愛されたいがために創作するのではなく、誰かを愛するがために創作するのである。誰かが喜ぶと思うから何かをする、というよりも、自分が楽しいから何かをするのである。誰かを愛していると断言することは、その誰かのためというよりかは、むしろ自分のためである。その方が楽しいから言うに過ぎない。満ち溢れるもの、過剰なもの、他に注ぐ利己的な愛。

 前述の通り、芸術作品が創作される理由の一つが、自己存在の意味のための戦いであるのは間違いないことだ。しかし、成功のために身をやつすことは性に合わない。自分の愛するものを利用して得る成功など、心を売って世界を得るのに等しいことだ。たとえこの世界の全てを手に入れたとしても、自分の心を失ったとしたら、果たしてそれに何の価値があるのだろう。

 芸術作品が孤独の内からのみ生み出されることもまた間違いのない事だ。ただ孤独な者だけが何かを創造する力を持つ。絶対的な孤独の底からこそ、美しい愛や出会いも可能になる。しかし、創造するという行為が他からの影響に基づいて成り立つことも忘れてはならない。人が与えようとするのは、自分がかつて与えられたもののみである。芸術作品とは、一つの満ち溢れる愛であり、誰かに対する一方的な、一途な、そして傲慢なまでに身勝手な愛の献身である。

 そう考えると、少しだけ、自分のするべきことがわかった気がする。


 生とは語りえないものに対する問いである。現在は常に私達にとって解けない問いであり続ける。一つの賭けはもう一つの賭けを生み出す。実存とは不確定なものへの意志に他ならない。何かについて語る時、人は理解できるものと理解できないものの両端を交えて語る。それは不確定なものに対する賭けである。そして、一度サイコロを振ったならば、もう一度サイコロを振らねばならない。そして更にもう一度、もう一度……と。賭け事は連続する。つまり、実存するということは、常に解けない問いを問い続けることである。