20/05/17-18

 自然界にある生物は、各々が各々、自分だけの流儀で成長し、常に自らの課題に取り組んでいる。蟻には蟻の生き方があるし、ダニにはダニの生き方がある。そして、(当たり前であるが) 蟻はダニになれないし、ダニもまた蟻にはなれない。

 しかし、人間にはそういったものが存在しない。その原初からして他者との違いを抱えている。その本性からして、人類はそれぞれが分裂した、多様であることしか出来ない存在である。だから人類は文化と文明を今日まで発展させることが出来た。文化と文明の第一要因、それは他者との間にある差異であり、他者の存在との分裂である。

 私が面白いと思うのはそこである。人間は、それぞれがそれぞれ、別の動物に変身することが出来る生命体だ。そして、自分以外の誰かであろうとしたもの、何者かであろうとしたものが、今日までの人類の文化を発展させてきたのである。差異があり、それぞれが異なった生き方をせざるを得ないからこそ、人類は今日までの発達を可能にしてきた。人間の最も特異な点は、生まれた時から「こうあるべき姿」が存在しないことである。

 それは同時に、生まれながらにして、人間には存在する理由が、生きる意味がないというこうでもある。もとい、生きる意味がないからこそ、人はどんな意味をも見出すことが出来るというわけだ。蟻は蟻であることしか出来ず、ダニはダニであることしか出来ない。しかし、私達人間は、蟻になることも、ダニになることも出来るのである。

 よって、もし私達に常に一つの変わらない課題があるとすれば、それは各々が各々、自分だけの流儀に生きようとすること、何者かであろうとすることである。一般性は常に虚構であり続けている。それは各々がその本性からして抱えてる差異を封じ込め、表面上の一致を取り繕うことをしなければ、言い換えるならば虚構であろうとしなければ成り立たない。そして、そんな一般性において得られた勝利など、決して文化的なことでも、文明的なことでもない。真に文化的な人間、文明的な人間とは、現行の世界に抗う者、反時代的な人間である。


 私の睡眠には、どうやら両儀的な性格があるらしぃ。

 一つは不眠で、「まだやり残したことがある」という気持ちから、必要以上に遅くまで起きてしまい、結果として睡眠の周期が乱れ、日常的によく眠れなくなるということ。もう一つは過眠で、何らかのきっかけから、とにかく一日の十時間以上を睡眠に費やしてしまうようになる、ということだ。眠っている間は何も考えたりしなくていいし、何も感じ取る必要だってない。私は不安から逃れるように眠りにつく。

 たとえば以前、電話越しに誰かと喧嘩した(というよりかは一方的に怒鳴られた)ことがあるが、電話の後に自分のとった行動には、我ながら驚いたものである。私は向こうから電話を切られると、何をするでもなく、そのまま眠ったのである。しかも眠ろうと思って眠ったのではなく、気づいたら眠りに落ちていたのであった。

 不眠と過眠。ついこの間まで、私は上手く眠れないことに悩んでいた。しかし今では、あまりにも眠りすぎることに悩んでいる。そして、落ちる眠りはいつも浅い。大体三時間おきに目が覚めて、何もする気が起きず、気がつけばまた眠りに落ちている。「何かしなければ」と思って体を起こしても、何にも上手く手が付かない。そして、訳もわからず、何故かとても悲しい気持ちで胸がいっぱいになっている。


 何かの節に、自分の人生の別の側面を、「こうあったかもしれない未来」の可能性を見ることがある。あの時こうしていれば、私はもっと違った生き方が出来たのではないか。そのような考えが頭によぎると、可能性への考えは、次には後悔に変わっている。何故あの時ああしなかったのか。そして私は頭を抱える。

 しかし、そう後悔しても無意味なのだろう。人は原因の連鎖に突き動かされて生きている。私達は動いているのではなく、動かされているのだ。今日までに起きた過去の出来事(特に幼い頃の思い出)は、ある程度必然であったと思わなければならないのだろう。

 頭ではそう分かっている。しかし、それでもやはり考えざるを得ない。自分はもっと違った在り方があったのではないか。何故もっと早くああしなかったのか。もとい、もっと早くああしたかった。そうすれば、今の自分はもっと違った人間になっていたのかもしれないのに。

 

 本心を言うなれば、私も周囲の人間を置いてけぼりに出来るくらい、凄い人間になりたかった。しかし、悲しむべきことに、私はそれが出来る程強い人間でないのである。

 有難いことに、周囲には、私を尊敬してくれると言うか、私に一目置いてくれる人がいる。そして、私自身それを知らないでもない。内心、その事に微かな誇りを抱いている。私は自信が無いから、何かの節に落ち込むと、上のことを思い出して、自分は他者から見て優れているのだと言い聞かせる。そうして自分を慰めることもある。しかし、それは何と惨めな行いであろう。そうした慢心が私自身の自己愛を高め、物事に歪んた解釈を当てることにつながるのではないか。私に必要なこと、それはその場に溺れる喜びを知ると同時に、常にその場を冷静に見ようと思考することではないか。


 夢とうつつの半ばをさまよっている時、近くで聞こえる物音や音楽、話し声が、そのまま夢の世界に入り込んできて、形を変えるのに気がついた。微睡んでいる私の、まぶたの裏の心象世界が、現実に聞こえるものに応じて変化する。それは何か不思議な感覚であった。

 
 今年の一月頃から、私の部屋にはさる友人が居候していた。と言っても、それは二ヶ月程度の短い期間である。彼はタイに留学していたのだが、帰国後、彼の友人の家を転々としていたのである。そしてある日、当時一緒に暮らしていた友人の部屋の大家に、彼が居候していることが発覚してしまい、それで追い出されるように私の部屋にやって来たのであった。

 彼は居候している間に、私にシェアハウスの提案をしてくれた。それは彼の主催によるもので、私の部屋を出た後にするつもりらしかった。私自身、今住んでいる部屋を一年程度で引き払うつもりでいたから(この部屋で暮らし始めたのは、丁度去年の五月頃からであった)、それも悪くないと思った。そして今年の三月、私は彼の主催するシェアハウスに引っ越した。がしかし、精神上の理由から、私は一ヶ月も満たない内にそのシェアハウスを出ていった。もとい、出ていかざるを得なかった(主催者である友人には、本当に申し訳ないことをしたと思っている)。

 結果として今、私はかつてと同じ部屋で暮らしている。


 私の自己愛も、どうやら両儀的な性格をしているらしい。今日まで散々、自分に自信がないことを書いてきたわけだが、心の何処かで、やはり自分が将来必ず成功できるということを、いつか必ず自分が正しく評価されて、いつか自分が報われる時が来るということを、信じているからである。私には才能がある。私にはもっと成長することが、もっと先に進むことが、もっと豊かになり、大きくなることが出来るはずだ。このままここで腐ってなどいたくない。私には成し遂げなければならないことがある。

 そろそろ何処か別の場所に移動したい。その必要性を感じている。というのも、ずっと前から今の生活状態に限界を感じているからだ。出来ることなら、今すぐにでもここから抜け出したい。新しい生活環境が、自分の取り組みたいことに取り組める場所が欲しい。何処か遠くへ、遠くへ行きたい。