20/05/21

 何処か遠くへ行きたい……初めてそのような意識を強く持ったのは、確か十代の半ばを過ぎた頃くらいであった。

 当時、何故かわからないが、私はこれまでの自分の人生に強い恥を感じていた。そして、自分自身への不満というものは、自分の今いる環境への不満の反映でもある。私は自分を取り巻くあらゆる環境にも不満を抱いていた。何処か遠く、誰も自分を知らない所で、人生の全てをやり直したかった。

 日暮れ時、空の果てからこの世界を焼き尽くすように広がる夕暮れが、まるでこの世界は自分の居場所ではないと言うかのように燃えていた。そんな夕暮れを眺めていると、思春期に特有のメランコリーの発作が私を襲うのであった。誰か付き添ってくれる人がいてくれたら、今すぐにでもここを抜け出すのに。そう、一人で行動を起こすには、勇気が足りなかった。誰かと全てをやり直したい、それが臆病な私の願いであった。

 しかし、結局そんな人は現れなかった。当たり前といえば当たり前の話である。

 思えば昔から私はこんな人間だったのかもしれない。ただ、それに気づかないでいただけなのだろう。

 家出まがいのことなら、それより以前にしたことがある。小学生の頃、丁度私が家にこもりがちになって、家族とも、学校の知人ともあまり接触を取らなくなった時、私は当時唯一とも言うべき友人と一緒に、二人で東京に向かったのであった。その日は学校がいつもより早く終わる日であった。私達は、いつも集まる公園を集合場所にして、それから一緒に駅へ向かうと、電車で東京まで揺られたのであった。東京に向かう途中、これからの人生への華やいだ希望に、私の胸は膨らんでいた。

 しかし、これもやはり失敗に終わった。家に連れ戻された後、私は家族に酷く怒られ、その友達とも縁を切るように言われたのを覚えている。


 自分は誰かを振り回してばかりいる……いつからだろうか、自分自身であることへの恥を感じるようになったのは。

 平時は特になんてこともない。ただ時折、まるで発作のように罪の意識に襲われることがある。自分は誰かを振り回してばかりいる。自分は誰かに迷惑ばかりをかけている。まるで自分は不幸をまき散らしながら生きている。自分が全て悪い。自分には負うべき罪の責任がある……自分には誠実さの欠片もなければ、微塵の善良さもありはしない。そして、そんな事を感じながら、皮肉にも自分の生き方を変えるつもりがまるで存在しない。

 悪びれているというよりかは諦めている。強いて言うならそんな自分を、内心少なからず馬鹿にしている。


 罪……以前、恥ずかしい話だが、「罪な人」という、いかにも小説めいたセリフを言われたことがある。我ながら馬鹿馬鹿しい。というのも、自分を「罪な人」と考えるのは、何か滑稽な、間抜けな、おままごとめいた事のように思われるからだ。

 なるほど、私も『ゴッド・ファーザー』のマイケル・コルレオーネのよう、非情の美学に生きることが出来たなら、「罪な人」である自分自身に誇りを持てたかもしれない。しかし、実際の私は、マイケルの冷酷さとは程遠い、ただちんけな、気の弱い、他人に流されてばかりいる、惨めな男である。そんな自分を「罪な人」だと形容されても、感じるのは不愉快な恥だけだ。

 そう、自分自身であることへの恥。今日までの私を突き動かしてきたのは、結局それであった。過去から現在に至るまでの自分を恥じている、だから未来に賭けて生きるしかない。そういうわけだ。

 マイノリティに共感を覚える人間の常として、大多数に憧れ、大多数を羨みながらも、同時に心の中で大多数のことを冷笑にしている、という性質が挙げられる。自分の惨めさを感じながらも、同時に自分の惨めさに誇りを抱いていたのである。かつての私もそうであった。もとい、今でもそうなのかもしれない。

 今日まで、私は過去の自分を否定するかのように生きてきた。恐らく人生とは、ありのままの自分を赦せるようになるための過程なのであろう。

 ドゥルーズが好んで引用したゴダールの言葉に、次のようなものがある。「正しい映像などなく、ただの映像があるだけさ」それで、ドゥルーズもそれに倣ってこう書いている。「正しい理念などなく、ただの理念があるだけさ」と。私も彼らに倣って、こう言うべきなのだろう。善人も悪人もこの世にはなく、ただの人間があるだけだ、と。


 今の自分……生活の中で、ふとした瞬間に、今の私は、昔の自分が最もなりたくなかった人間そのままではないか、という疑惑に襲われる。そして、きっとそれはその通りなのだろう。かつての私が、今の私がこんな風だと知ったなら、きっと悲しむに違いない。その事について、私が感じるのは、「悲しいというよりかは虚しい」である。


 活動……真摯に何かに取り組むということは、人を孤独にする。もとい、根を詰めて仕事をしようとすれば、人はどうしても孤独の底に沈まざるを得ない。私は今日まで、なるべく沢山の本を読んで、なるべく沢山の音楽を聴こうとした。それも、私が孤独だったからである。絶対的な孤独からこそ、真に優れた作業というものは発生する。

 しかし、活動とは他への働きかけである。つまり、ただの孤独、ひとりの世界にこもるというだけでは充分ではない。誰かの存在をも巻き込んだ孤独というものが必要である。というのも、他者を巻き込んだところで、人間の孤独( = 本性的な差異)は消えはしないからだ。

 昔読んだ漫画で、『魔人探偵脳噛ネウロ』というものがあるが(今考えると凄まじい名前である)、それには孤高の歌姫とも言うべきキャラクターが登場する。彼女は孤独であった。そして孤独だからこそ、彼女は創作した。しかし、活動が進み、成功を収めるにつれて、彼女には大事な人が出来た。すると、彼女は以前のように歌を歌うことが出来なくなった。孤独を失ったからだ。だから再び孤独に戻るため、彼女は自分の大事な人を殺害するのである。

 その漫画の影響でか、私も似たような恐れを抱いていたことがある。孤独を失ったら、自分はもう本を読んだり、音楽に触れたりする理由がなくなるのではないか。なるほど、それは事実かもしれない。しかし同時に、そこには大きな誤解がある。人の孤独は決して消えないのである。本質的に他者との差異を抱え、意識の壁がある私達人間にとって、孤独とは一つの変わらざる現実である。リルケの言う通りだ。「私達は孤独なのです。それを誤魔化して、あたかもそうでないかのように振る舞うこともできます。しかしそれだけです」

 何らかの創作に携わる人間にとって、最も恐るべきことは、孤独が失われることだ。しかし、他者との活動というものは、(少なくともそれが創作である限りは)お互いの差異を認めた上での行いであり、それはつまり、お互いの孤独の上で連携をとるということでもある。このように本質的な孤独を抱えているからこそ、人は安心して自分の活動に取り組めるのかもしれない。

 私としては、自分が怠け者であるということを知っている。曲はいくらでも書けるし、文章だっていくらでも綴れる(その程度のことなら誰にだって出来る)。しかし、その度に「こんな事をして何になるんだ」という気持ちになる。活動とは他への働きかけに他ならない。一人で楽しむために、他を必要とする理由はないのである。要するに、一人では何か活動する気が起きないのだ。恐らく、私には協力者が必要である。少なくとも今は、一人で何かをする気が起きない。


 今私が思い浮かべているのは、ニーチェの語った遠人愛についてのことだ。

 遠人愛……それは、(簡単に言えば) 将来に来るべき者を愛せよといった内容のものとして語られる事が多い。しかし今、私はそれに、勝手に別の意味を付け加えたいような気がする。というのも、私達にとって本来、隣人とは皆遠人であるからだ。近くにいても、遠く離れたもの。隣人。もし孤独が人間にとって本質的なものであるならば、私達はどれだけ誰かを愛していても、孤独からそっと手を伸ばしてしか愛せないのである。よって、私達の隣人愛とは、突き詰めていけば皆遠人愛とならざるを得ないのではないか。

 だからと言って、それは絶えず誰かに気を使い、自らを取り繕わなければならない、という意味ではない。というのも、誰かに対して必要以上に気を使うことは、相手から失望されることを恐れるからであるが、それは同時に、相手に近づきすぎることによって、相手に失望することを恐れているからでもある。そのような愛は、隣人愛というよりかはむしろ、自己愛の表れだと書いた方が正しい。

 私自身、過去にそういった経験がある。そして、当時はそれに悩んでいたものであった。相手のためと思い、相手に自分を隠し続けることが、むしろ相手の気を損なわせる事に繋がっていたから。恐らく相手も、私が相手に気を使う理由が、相手のためというよりかは自分のためだということに気がついていたのだろう。そして、私が相手に対して深く、入り込んだ態度を取らなかったのは、やはり自分が苦しむことを恐れていたからである。

 無闇に一緒になろうとすることが正しいことだとは思わない。それは馬鹿のすることだ。ただ、相手への距離があるからこそ、相手を深く愛することが出来るのではないかと、今では思っている。

 かつて、私はよく、実際にはありえないようなことを想像しては、それが本当だったらどうしようと考えたものであった。それは、私が自分の尺度でしか物事を考えることが出来ないからである。しかし、物事の真実というものは、常に私達の想像の範囲を抜け出るものなのだ。たとえば、私がこれまで他者に抱いたことのある不安は、他者を私の不安に基づいて解釈したからこそ発生したのである。言い換えるならば、それは他者と自分を重ね合わせた上で生じたものということになる。しかし、それこそ他者との間にある心理的な距離、遠人としての隣人の存在を、意識せずに行ったことなのではないか。

 私と他者の間には、決して埋められない差異がある。だから、私が不安に思っていることがその通りに発生することは決してない。そして、遠い所にいるならば、尚更手を伸ばさなければならないのだ。そう気づいた今では、以前よりも一層深く誰かに触れたいような気持ちになっている。そう、昔は誰かに深く触れて、失望することを恐れていた。しかし、今は違う。今ならもっと違う未来が手に入れられる気がする。もとい、もう遅いのかもしれないが……


 最近は大体週に一、二回くらいの頻度で銭湯に向かう。私のよく行く銭湯は本当にお湯が熱くて、初めて入った時はあまりの熱さに「痛い」と感じた程であった。しかし、それだけその後に入る水風呂が気持ちよくて、通うのがやめられないのである。その不健康な生活から、大体いつも、私の顔色は浅黒い。しかし、銭湯に入ると、身体の血流が良くなってか、顔が面白いまでに青白くなる。そして、熱湯と冷水に交互に浸かった身体は赤く染っている。その対比もまた面白い。

 熱湯と水風呂を行き来している間、私はよく元々自分が身体を洗っていた場所に戻り、休憩を入れる。鏡にうつる自分の顔を覗き込む。じっと鏡の世界を見つめていると、何かその中に吸い込まれるような心地がする。私は両手で顔を覆う。何か異常な思想が自分の中をぐるぐるまわっている気がする。ニーチェの言う通りだ。私達は自分の身体のことをよく知らないらしい。


 『星の在り処』という曲がある。以前書いた、少年時代に母が私にプレゼントしてくれたゲームの主題歌である。当時、私はこの曲がとても好きだったのを覚えている。今でも、年に数回、この曲を聴く。そして、最近もまたこの曲を聴いている。ノスタルジックな感動で胸がいっぱいになるのを感じる。まるで思春期の頃のメランコリーが再発するかのような気分だ。