20/05/25-26

 これからの生活のことについてを考えて、私は今、途方に暮れている。

 関西に引っ越そうかと考えている。向こうにツテがないわけでもない。そこで半年から一年にかけて、落ち着いて自分の取り組みたいことに取り組むのも悪くないかもしれない、というわけだ。幸い、向こうには友人も少ない。遊びに誘われて何処かに行く、という誘惑も少なくなるだろう。

 東京に未練がないと言ったら嘘になる。とりわけ、後悔していることが一つある。そして、私にはその後悔が忘れられない。そう、忘れられるわけがないのだ。しかし、今更どうすればいいか分からないのである。


 生活……恐らく、私には生活感というものがあまりない。昔はそれに悲しげな誇りを感じていたが、今は誇りも糞もない気がする。恐らく、私は生活にあまり興味が無いのだ。

 関西に引っ越すかどうかはさておき、どちらにせよ、今住んでいる部屋はさっさと引き払いたいと考えている。私は殆ど毎年のように引越しをしている。去年引っ越しをしてから、もう一年が経った。今の環境に、何か息苦しさにも似たものを、ずっと前から感じている。そろそろここを出ていかなければならない。

 ニーチェも書いていたが、長期的な習慣を保つよりも、短期の習慣をその時その時に応じて続けた方が、ずっと好ましい。時間の経過と共に、人は変化することを強いられる。だから、一つの場所にずっと留まり続けることは、自分の周囲の空気が淀み、濁るような感じを覚えるのである。少なくとも、私はそうだ。変化に応じて習慣を変える方が、どれだけいいか知れない。

 生活、ゴールなき実験と運動の繰り返し。もし生活を日常と同義として捉えるならば、それは確かに生活的ではないかもしれない。しかし、それはどうでもいい事だ。話が逸れてしまったから、元の筋道に戻ろうと思う。

 いっそ以前のように、住所不定の者としてあちこちをさまようのも悪くないかもしれない。帰る場所がない方が、一層孤独を感じて良い。孤独の中に身を置いた方が、人は物事に対する感覚や思考が、一層鋭くなることが出来る。

 そう、自分の居場所を持たずに、至る所を放浪した方が、自分の性には合っている……それで、様々な知人の家に泊まったり、野宿したりする。やがて私は友人の家に居候することで身を落ち着けたが、孤独を感じるために、そう頻繁に帰ることはしなかった。そういう生活は、たしかに自由で気ままだったし、辛いことも多かったが、中々楽しかった。

 では何故、今のように一つの部屋を借りたと言えば、それは、いつか招きたい人を呼ぶ時に、自分の部屋がないのは変だと思ったからだ。とは言っても、何も変なことがしたかったわけではない。ただ借りた当初、私は幸福な楽観主義に満ちていた。きっと今年の今頃には、私の愛する一人の友達と共に、もっと幸せな毎日が待っていると期待していたのである。

 こうして考えると、自分は結構不器用な人間なのかもしれない。当たり前かもしれないが、これまで上手くいったことと上手くいかなかったことならば、上手くいかなかったことの方がずっと多いのである。


 あと一歩。あと一歩踏み出せれば、私はこの苦しみから抜け出せる気がする。しかし、そのあと一歩が何処にあるのか、それがまるでわからない。これが現実である。


 相手の悲しみや苦しみが、まるで自分のことのように思われる……恋愛感情を抱いた相手に対して、私はよくそのような現象に捕われる。しかし、もしかすると、 私は恋愛感情と同情を混同しているだけなのかもしれない。

 たとえば、ある人の写真を見たとする。やつれた頬に、不自然な表情。上手く上がっていない口角から、恐らく彼女は笑顔を作ろうとしているのだと推測する。何かギクリとしたような感覚が私を襲う。胸元をナイフで突き刺されたような苦しみに襲われ、血が広がるように悲しみが広がっていく。そう、まさに、相手の不幸が、まるで自分の不幸のように思えてくるのである。

 そして私が今思い出してるのは、『存在の耐えられない軽さ』の一ページである。

 「トマーシュの目の前には再びカラスを抱えているテレザの姿が思い浮かんできた。そして、昨日テレザに警察の手下がバーで嫌がらせしたことを思い出した。またテレザの手が震えることになろう。彼女はめっきりと老けてしまった。彼にはテレザ以外のことはどうでもいい。(…)彼女だけが彼の気にする唯一のものなのである。どうしてまだ迷っているのであろう?あらゆることを判断するたった一つの基準、それは、彼女を傷つけるかもしれないことを何一つとしてしてはならないということだ。トマーシュは政治犯を救うことは出来ないが、テレザを幸福にすることは可能である。だがそれさえ出来たとはいえなかった。でも嘆願書にサインしたら、彼女のところに警察の手下がいっそう繁く通ってきて、彼女の手がより酷く震えるのは殆ど確実である」

 しかし、これまで私はどれだけの人を振り回したことだろう。どれだけ人を傷つけたことだろう。そして、これを読んで、他の誰かの感情を裏切る可能性について、私は考えないのだろぅか。こんな引用をしたり、長文を書くことにしてもそうだ。自分は一体どれだけ傲慢で、どれだけ身勝手な人間なのだろう。

 恋愛が喜劇にならざるを得ない理由が一つある。それは、恋愛のさなかにいる者が、傍から見れば滑稽であり、愚かにしか見えないからである。とりわけ感傷に酔い、自らの不幸に誇りを抱く人の様など、滑稽以外の何物でもない。「自分は不幸だ」と言いながら、そんな不幸にしがみついている。これを滑稽以外になんと形容すればいいだろうか。このように長々と文章を書く私も、やはり滑稽だと言わざるを得ない。しかし、私にはどうしようもないことなのだ。罪責感や、後悔や、未練がましい感情が、時折一斉に自分を襲う。たまらない気持ちになる。私には書かざるを得ないのである。許してくれ、私が間違っていた。出来ることなら、全てをやり直したいのだ。


 不名誉……異性に対するコンプレックスを解消するため、私は長年努めてきたつもりである。それも、私が不名誉を被るのを恐れていたからである。要するに、何らかの形で恥をかくのが怖かったのだ。だから今日まで、私は自分を必要以上に経験のある男や、豊かな体験談を持つ男に見せようとしたことが何度かある。その理由は簡単で、人に馬鹿にされたり、笑われたりするのが怖いからである。私の行動の原動力の大半は、自分自身であることへの恥だ。

 しかし、いつからか、別方向でも不名誉を被るようになった。「罪な人」なんていう馬鹿げた形容をされるようになったからだ。確かに、私は経験のない人間に見られることを恐れていた。しかしそれ以上に、軽い人間に見られることは、何よりの不名誉だと認識している。

 しかし、こうして見ると、やはり自分は面倒な人間だと思わざるを得ない。出来ることなら、こういう人間にはなりたくなかった。


 ドゥルーズは自身のニーチェ論の中で次のような指摘をしていた。哲学とは本来、その始まりからして既に失われたものである、と。古代ギリシアの哲学者達は皆、自分が生き延びるために、聖職者の仮面を被り、変装することを強いられていた。そして、後世にはその仮面の方が、哲学の宗教者的な側面だけが残った。

 だからこそ、哲学とはその始まりからして既に失われた存在なのである。よってそれは、未来において取り戻さなければならないものなのだ。

 これは私達の生にも言えることだ。私達の生とは、恐らく、生まれた時から既に失われているものなのだ。そして本来、私達には自分というものがなく、それは生きていくうちに見出されていくものなのだ。何故なら、私達は仮面の下で産み落とされ、仮面を本質だと勘違いしながら育てられたのだから(たとえ、深い意味では全てが仮面であるとしても)。

 そしてふと、私は思った。私達は皆、失われたものを取り戻すために生きているのではないか、と。