20/05/28

 時間、それは連続するものだ。

 日々の流れの中で、一日一日を生きるというよりかは、連続する無際限な時間を生きる、といった感じを覚えることがある。今日は昨日の続きである。私達は昨日を念頭に置きながら今日を生きる。言い換えるならば、私達は昨日を取り戻すように今日を生きているのである。

 断続的な眠りが襲う……何か一般的な規則に囚われない生活を送ると、眠りが一日の終わりとしてではなく、むしろ持続する時の流れの休止のように思えてくる。眠る、目が覚める。しかし、それが朝であるとは限らない。このような生活が続くと、まるで一日が存在せず、ただ去来する朝と夜の繰り返しだけがこの世界に存在しているかのような心地がしてくる。

 「限りなき海の潮の干満のように、昼と夜とは永遠に変ることなく去来する。週と月とは流れ去ってはまた始まる。そして日々の連続は同じ一日に似ている……」ロマン・ロランはそう書いていた。確かにその通りだ。この世界には、殆ど永遠に持続する時間があるだけで、一日も一年も存在しないのである。そして、ただその中で、昼と夜が繰り返されるだけなのだ。

 私達は皆、自らの内に一つの世界を持っている。私達の過去と未来は、常に私達の内側にある……リルケは確か、次のように書いていた。芸術家であるということは、計量したり数えたりしないということであり、年月は何の意味も持たず、十年も無に等しい。「そこでは時間で量るということは成立しません……」

 永遠に去来する昼と夜の繰り返しの中で、時間という個々の人間に固有のものを生きるということ。私達は常に、昨日を取り戻すように、遅れて今日を生きている。そこには一日というものは存在せず、過去と未来を内包した、私達の持続する意識の流れだけが存在するのかもしれない。


 不安から逃れるように眠る……眠る前、私は何か馬鹿げた認識論等をこねくり回す。そうして心を安らかにする。論理的なものはいい。考えていて安心できる。

 その時、私は気がつく。自分が思索的なものを好む理由は、それに答えが与えられているからだと。大抵の問題は、提起しても答えを見出すことが出来る。ただ生だけが解けない問いとしてあり続けている。私が生に不安を覚えるのは、未来が見えないものとしてあり続けているからだ。

 未来に対する問い、それは常に解けない問いである。現在においては答えが与えられず、ただ未来においてそれを見ることが出来る。しかし、現在に不安を覚える者からすれば、未来の幸福なんてどうでもよくて、ただただ今現在の幸福にすがりたいのである。

 活動しようとすれば、学びに対する余裕が無くなる。学ぼうとすれば、活動に対する余裕が無くなる。この数年、その二つを両立させたいと願いながら、結局それが出来なかった。そして私は、ずっと部屋にこもり、学ぶことを優先した (果たして本当に確かな「学び」が得られたか、それはわからないが)。

 しかし、このまま何もせず腐っていたくないという気持ちが、やはりある。何かを成し遂げたいという気持ちもある。頑張らないととも思っている。しかし、一歩も動くことが出来ない。何をすればいいかわからないからだ。そして、何かをするには、今の私は精一杯な状態であるということを、白状しなければならない (やはり、私には協力者が必要である) 。


 以前、コンセプト・カフェで働いたことがある。きっかけは当時、私の愛する友達に薦められたことであった。私自身、何らかのバイトがしたいと思っていたし、何より、彼女の喜ぶ顔が見たかった。

 それで働き始めたわけだが、はっきり言えば、結構な苦痛であった。興味のないことを散々覚えさせられるし、職場の規則もかなり厳しい。燕尾服を着て豪華なフロアに立つことなど、確かに面白いとは思うが、そんな苦労をしてまで立ちたいとは思えなかった。

 それでも、なるべく続けるよう努力はした。私は他に二人の同期と共に働き始めたが、やがて二人とも辞めてしまい、最後に残ったのは私だけであった。何とかフロアに立つ所まで漕ぎ着けることは出来たが、その際に「君は本当にこの仕事が好きなのか」と問い詰められる程、私はやる気がないように見られていたらしい。とにかく、仕事に苦しさを感じていた。

 結局「もう続けられん」と思い、私はそこを辞めるに至った。しかし、いい経験だったとは思っている。

 コンセプト・カフェというと、時にキャバクラやホスト等の水商売と同系列で語ろうとする人がいるが、それは大きな誤解である。コンセプト・カフェにおいては、客と労働者( = キャスト)の接触が非常に少ない。話すことは出来ても、身体の接触は先ず殆ど有り得ないと言っていい。キャストは他の仕事をしながら接客するため、客と話す時間が長いわけでもない。

 では何故、客はコンセプト・カフェに通うのかとなれば、むしろそのキャストとの距離感を、客は関係性の清さとして捉えているからである。それは言わば、アイドルと追っかけとの関係性に近い。客とキャストの接する時間が短く、直接的な接触がないからこそ、労働者側と顧客側の関係性が、下品なものにならないで済むのである。つまり、直接的な性消費の不在。客とキャストの間に一定の距離があるからこそ、客はキャストに夢を見ることが出来、またキャストもアイドルとして客に夢を売ることが出来る。

 実際、私が(短い間ではあるが)務めたコンセプト・カフェの従業員達は、皆演劇の経験があったり、かつてバンドマンであったり、または声優志望であったり、とにかく舞台に立つことへの憧れ( = アイドルになることへの憧れ)を抱いたことのある人が多かった。そして、実際にそうはなれなかっとしても、たとえ狭い世界であれ、自分だけが輝ける場所を持てる。スターになれる、アイドルになれる。だからキャストはコンセプト・カフェで働く。何故なら、客もまた、たとえどれだけ小さい世界であろうとも、自分だけのスター( = アイドル)を求めているのだから。

 要するに、コンセプト・カフェとは「場所のビジネス」なのである。客もキャストも、双方共に夢を見れる場所を追い求めている(夢を実現しようとすることも、やはり夢を見ている状態に他ならない)。そして、会社はその「場所」を提供する。キャストの給料は、確かにバイトにしてみれば高時給なものが多いが、仕事の内容は普通のバイトのそれよりもずっと厳しいものがある。はっきり言えば、割に合わない。大抵のコンセプト・カフェはブラックだと言わざるを得ない。そして大抵のキャストは、それを承知の上で働いている。

 私としては、そこまでしてスターになりたいとは思えなかった。だから辞めたというわけだ。辞める時、私の愛する友達のことが頭に浮かんだ。きっと彼女は悲しむだろうと思った。しかし内心、私は彼女の喜ぶ顔が見たいと思っていたが、あんな所で働くよりも、部屋にこもって別のことに励んでいた方がずっと有意義だと、働いている間中考えていたのも事実であった。(当たり前かもしれないが)自分の興味のあることにしか熱中できないことを知って、私は悲しくなった。

 ただ、もう少し続けてもよかったかもしれないとは、今でも少し思っている。


 力の本質は別の力との関係にある。言い換えれば、一つの力とは、他の力との関係( = 比較)においてしか存在し得ない。故に、一つの同じ力とは存在せず、力の本質は複数であるということにある。

 あらゆる力は占有し、支配し、搾取することを求める。何に対してか。そう、別の力に対してである。

 これがニーチェの言う「力への意志」だ。それは、力( = 欲望)の持つ、別の力( = 別の欲望)への「力の、力との関係」である。

 力への意志という名前は誤解を呼びやすい。ドゥルーズは『ニーチェと哲学』の中で「力への意志(will to power)」を「力の意志(will of power)」と訳したが、それも力への意志という言葉の誤解を避けるためであると思われる。

 というのも、力への意志とは、力を求める人間の在り方を指すのではないからだ。強さを求める人間とは、元々力を持たないからこそ強さを求める。欠けているものを感じなければ、人は欲望に突き動かされたりはしない。 そして、人が力を得たいと願うのは、力なき自分を認められたいからである。

 では、力への意志とは何かとなれば、それは自ら何かを作り出そうとするもののことである。あらゆる力は満ち溢れ、表出することを願う。それは、何かを求めるというよりかは、何かを贈り与える存在だと言える。強さとは強烈さであり、激しさである。強いもの、激しいものは、自己を飛び出し、他へとエネルギーを贈与しようとする。

 ニーチェのこの力への意志の考えは、スピノザのコナトゥス(あらゆるものが自己を保存しようとする衝動を持っているという考え)を下敷きに発展したと思われる。そう、あらゆるものは自己を保存しようとする。しかし、あらゆるものは常に現在の状態に慣れていく。その場に停滞すれば、一つのものは強さを維持するどころか、むしろ衰退していく。よって、自己を保存しようとするだけでなく、現在の自己から抜け出し、自己から溢れ出ようとする必要がある。つまり、力への意志である。

 力……月並みな表現だが、恐らく私は「力が欲しい」という感情が人一倍に強い。それも(前述の通り)、私が強いからと言うよりかは、むしろ私が弱いからである。

 今日まで、自分の後ろめたさとか、欠点とか、自分に足りないものなどを、ずっと感じながら生きてきた。それに突き動かされて生きてきたとも言っていいかもしれない。それも、自分の醜さとか、恥とか、そういったものを、いつも人一倍強く感じていたからだ。だから私は「力が欲しい」という感覚を強く覚えるのであろう。

 こんな考えは、人から見れば青臭いであろう。私自身、それを自覚している。しかし、このコンプレックスが解消されない限り、恐らくはこの青臭さから抜け出せないのである。

 そう、私は今日までの人生を、まるで否定的なものを回収するかのように生きてきた気がするのである。


 昔から、ファミリーが欲しいという気持ちが強くある。血の繋がっていない男女が一緒にいるからと言って、何でもかんでも色恋沙汰に結びつける世人の軽率さが、昔から性にあわない。そうでなくて、私達はもっと、深い意味でお互いを求め合うことが出来るのではないかと思っている。つまり、お互いを愛し合い、尊重し合い、信頼し合い、兄弟姉妹のように互いを求める共同体があってもいいのではないか。そして、お互いを補い合い、お互いに良い影響を及ぼし合う。そうしてお互いを高め合う。

 誰しも、初めから自分を理解してくれる存在に恵まれている訳では無い。現代においては特にそうだ。そして、人は本来、元々備わっていたものと共に生きていくのではなく、生きていく過程で、自分と共にいてくれるものを見出すものなのである。寄る辺なき現代において、私達は、初めからファミリーとなるべく相手を与えられている訳では無い。そうではなく、自分のファミリーとなるべく相手を、生きている過程で見出すのである。少なくとも、私はそう考えている。