20/05/30-31

 予てから考えている事だが、人間には弱さへの趣味があると思う。ある人の善良さとは、ある人の弱さの裏返しである事が少なくない。優しい人とは気の弱い人のことである。そして、傷つけられた者、悲しみの人間は、自分を傷つける可能性のあるものに復讐することを願う。弱さは時に、強さを罪として罰する。道徳的価値観は、時に人間の弱さを守るものとして発生する……

 突然このような事を書き出したのは、ここ数日、「一線」の問題についてを考えているからだ。

 恐らく、私は他よりも比較的に失うものが少ないというか、物事への執着心が小さい。臆病な性格をしているのも事実だが、他方で無謀さにも似た大胆さを持っているのも事実であるように思われる(人は自意識を抱くにつれて、内側に相反する二者を同時に持つようになる)。そして私の読みが間違っていなければ、他の影響からそうなった所もあるが、この傾向は年々強くなっている。おかげで、かつてでは想像出来ないような経験をした。しかし、そのために失ったものも多い。どうやら、経験には何かを失うことが付き物らしい。

 そしてある日、私はふと思った。超えてはならない一線とは、一体どこにあるのだろう?

 スピノザは私達の構成関係から何かが分離し、分解する作用を感じることを「悲しみ」と呼び、逆に私達の構成関係と何かが合一し、増大する作用を感じることを「喜び」と呼んだ。悲しみは持続する。持続した悲しみは、自分を壊す可能性のあるものを「悪」と呼び、その正反対にあるものを、彼岸のように「善」と名づける。故に道徳的価値観は時に悲しみ( = 復讐心)に基づいて生まれる。復讐は何かを分離させ、分解させることを求める。悲しみとは一つの伝染病である。

 だからこそスピノザは言う、「悪は何ものでもない」と。何故なら、存在を超越した善悪の価値観など、本質的には存在せず、あるのただ誰かにとっての良いものと悪いものだけだから。強いて言うなれば、「悪」とは故意に何かを分離させ、分解させようとする悲しみの作用である (期待や希望さえも「悪」である可能性を持つ。何故なら、期待と希望は二つとも、悲しみの反動として生まれる事が少なくないから) 。

 一方で、人間の文化が悲しみの文化であるという点も否めない。 「楽観主義の根底にあるのは全くの恐怖だ」というオスカー・ワイルドの指摘は正しくその通りで、上記の通り、希望や期待さえも人間の人間に対する復讐心として生み出されることも少なくないのだ。悲しみは喜びよりも一層真実に近いのである。私自身、好きな音楽は、楽しげなものよりも悲しげなものである(優れた音楽の特徴の一つとして、人を悲しませ、人を孤独にさせる事が挙げられる)。

 人の身体に新しい要素が侵入した時、何かが分解され、何かが分離される。しかしその時、同時に別の何かが発生し、新しい身体の構成関係が生じることも忘れてはならない。私達の存在自体もそれと同様で、確かに経験するとは何かを失うことだが、しかし喪失は常に一つの成長として作用するのである。

 よって、悲しみを徹底させ、悲しみと共に生きることが、悲しみを超越する一つの手がかりだとも言える。何故なら、私達が悲しむ時、それだけ一層別の喜びが用意されることとなるから。

 失われるものは、遅かれ早かれ失われる。そして、ある人にとって本質的であるものは、きっと何があっても失われず、その人と共にあり、たとえ一度失われたように見えても、必ず再びその人の内側でよみがえるのである。丁度以前は読んでもわからなかった本の数ページが、今では理解できるように、人が生きる現在には、常に生きられない時間があり 、余白があるのである。


 『マルテの手記』の主人公は、初めに「見ること」( = 経験すること)を学ぼうとする。「なんのせいか知らぬが、全てのものが僕の心の底に沈んでいく」からだ。「僕には僕の知らない奥底がある……」そして、「見る」という仕事をするこの青年詩人には、ある一つの持論がある。「詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったなら、年少にして既に有り余るほど持っていなければならぬ。詩は本当は経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ」

 だからマルテは見て、経験しようとする。そして、やがてマルテは次のように考えるになる。「この世の中には、何一つ想像だけで済ますことの出来るものはない」

 彼がそう考えたのは、彼の父親の死体が医者によって解剖されている時であった。父の危篤を聞いた彼は、急いで帰ったが、着く頃には既に父は死んでいた。それから二人の医者が来て、死体を解剖しようとし始めたが、マルテは「強いて求めずとも与えられたこの機会に、そう得がたい経験を取り逃すのはつまらない」と考え、その場で父の身体にメスが入れられるのを見守ることにした。初めて読んだ時には何とも思わなかったが、考えてみると、これは道徳的にどうなのかと思う人もいるかもしれない。

 ここで再び私は思う。超えてはならない一線とは、一体どこにあるのだろう?

 これは言い換えれば、何処に私の破滅があるのか、ということでもある。私が一線を超えることを恐れるのは、その先に自分の破滅があると考えているからだ。では、何が私を破滅させるのか。一線を超えることで、なにか取り返しのつかない喪失をすることだ。ここで結局、自分が臆病者なのだということを知る。執着心がないとか、失うものがないとが書いていながら、同時に私は、何か取り返しのつかない過ちをして、自分の内側にあるものが帰らないものとして消えてなくなるのを恐れているからだ。


 『マルテの手記』は、数年前に本当によく読んだ小説だ。一年の内に何度も、数え切れないほど読み返した。一語一句が、当時の私にとって真実であった。

 しかし、胸に深く刺さりながらも、同時に上手く意味が理解できない言葉がいくつもあった。幾年かを経た今、生活の中で、時折『マルテの手記』の数行を思い出すことがある。その時、私はまた少し深くこの小説についてを理解できるようになった気になるのである。

 「僕という人間は刻々と変化していく印象ではないか。もう少しのところで、僕は全てを理解し承認することが出来るかもしれぬ。もう一歩踏み出す事が出来れば、僕の深い苦しみは幸福に変わる。しかし、その最後の一歩を、僕はどうしても踏み出せないのだ……」

 生が一つの試練としてあり続けているのは間違いのないことだ。何故なら、私達は自分がどういった環境に生きているのか、どういった存在であるのか、どういった本質を備えているのか、それらのことを本来知らずに生きているからだ。そして、それは理解しようと問いを発し続けること( = 理性的に生きようとすること)でしか決して知りえないものである。

 超えてはならない一線はある。しかし、それは私達それぞれによって違うものなのかもしれない。


 悲しみから生まれる愛がある。または、悲しみが愛を深くする。そういったこともあるだろう。私自身、そういった傾向がある。しかし、そのような愛情を覚える時、同時に相手に対して何か気まずいというか、後ろめたい気がするのも事実である。これは、相手を可哀想だと思っているから愛している、と言い換えられかねない状態であるからだ。そして、それを失礼と言わずになんと言おう。

 こうして書いた文章に一通り目を通せば見えてくるが、私はプライドの高い人間である。そして、プライドを傷つけられるのが怖いから、ある程度の俯瞰した態度を持って自らを守ろうとしている。もとい、大抵の気取り屋はそうである。自分であることに恥を覚えなければ、人は何かを気取ったりしない。

 これが私の文体の裏に潜む理念だ。あとは、ニヒルな口調とシニカルな態度の似合う、格好いい男に憧れているというのもある。それも、元々の私がいつも冷静に欠けている、格好のつかない男でなければ憧れはしないのである。

 私は基本、性愛にまつわる話を馬鹿にしている。性愛において生まれる駆け引きとか、執着とか、そういったものが楽しめないからだ。それも、自分のプライドを傷つけるそれらの事を恐れているからかもしれない。だとすると、性愛を馬鹿にしている自分が一番馬鹿なのかもしれない。

 では、自分を傷つけないような、弱い人間が好きなのかとなれば、そうではない。私はただ、自分が心理的な共感を覚える相手が好きなだけである。自分と何か決定的な精神の違いを抱えた人間とも友達になることは出来るだろう。しかし、握手は出来ても、抱擁は出来ない。相手を深く愛し、相手と一緒になりたいとはどうしても思えない。結局、私が一緒になりたいと思えるのは、自分と似た悲しみを抱えた、自分と同じ生きづらさを感じた、少なくとも私にはそう見えた、そのような相手だけなのである。

 と、そう思うのだが、どうだろうか。君はそんな私の言い分に共感してくれるだろうか。