20/06/03

 全ての幸福は永遠を望む……幸福とは繰り返すことへの憧れである。現状に幸福を覚えたならば、人はその場に留まることを求める。

 しかし、だからこそ人間は決して幸福になれない。幸福を覚えることは出来ても、幸福に暮らし続けることなど出来やしない。人は過去を踏まえなければ生きていくことが出来ない、直線的な存在である。現在の幸福を維持しようとすれば、必ず現状は停滞することとなる。何故なら、現状は常に時間の経過と共に過ぎ去るから。よって、幸福を維持したいならば、今いる場所から動かなければならない。しかし、それはずっと同じ世界に居ることを求め、ずっと同じ世界の繰り返しを求める幸福への憧れに、完全に反している。

 だから人間は、幸福になろうとすれば、自ずと幸福への憧れを諦めなければならない。それが嫌なら、幸福な夢の中で自死するのが賢明な判断だ。


 不得手なこと程、人は得意げに語りたがる。慣れているなら、わざわざそれを話題にまで上げようとしない。普段それを経験しないからこそ、自分にとって珍しいそれを、誰かにかかげ、話したくなるわけだ。

 時折、何かしらの形で、自分の力を誇示したいという欲望に駆られる。それも、私が元々力を持っていなかったことの表れである。いや、今もまだ力を持たない人間なのだろう。だからこそ力のある人間に自分を見せたい、そう感じるのだ。


 学生の頃、そんな体験なんて一度もしたことがなかったくせに、どういう訳か退廃的な恋愛を題材にした歌をよく聴いたものである。もっとも、近い体験は誰にでもあるのだろう。経験したこともないのに、それに共感している。しかし、共感すると同時に、それに憧れさえ覚えている。もし本当に自分自身を映し出したものならば、共感を覚えるより先に、それに嫌悪感を抱くはずだろう。自分と何か心理的な共通点がある、けれど自分よりも優れた世界で憧れへとそれを昇華している。

 虚構の美しさとはそこにあるのだと思われる。実際に体験したことないのに、それが実在するかのように思われる。虚構が美しいのは、経験したことない自分自身への憧れからなのだ。

 人は概念によって突き動かされて生きるものだ。自分の知っているものに自分自身を寄せることで、人は自己の模索を始める。で、世の中を見ていると、経験を題材にして歌を作るというよりかは、歌に影響をされて経験を作る、ということがよく見られる。歌の世界に自分自身を投影するあまり、実際の世界でも歌の主人公であるかのように振舞おうとするのだ。こういう人間は、傍から見れば痛々しくて仕方ない。しかし、本人はそう振る舞うことに夢中で、そんな事は気にもならない様子だ。私自身、そういった経験がないこともない。だから気持ちは分からないでもない。もとい、もしかすると、今でもそういう所があるかもしれないから。

 そして時には、演じているうちに、演じている自分が本当の自分なってしまうこともあるのである。


 悪意とユーモアが切っても切れない関係にあるということは、恐らく誰も否定しないだろう。何かを笑うということは、それを滑稽だと(たとえ無意識の内であれ) 考えているからだ。何かを滑稽だと思うということは、それを見下していることに他ならない。笑いと悪意は表裏一体の関係にあるのだ。

 ある日、誰かの悪口を考えた時の事だが、その時、私は悪口を考えるのが楽しくて仕方ない自分の姿に気がついた。それは、嫌いな人間に憎悪を燃やすのが楽しいというよりか(私は対象のことが大して嫌いなわけではなかった)、どれだけ優れたユーモアをひねり出せるか、それを考えるのが楽しかったのである。実際、憎悪や嫉妬に駆られて悪口を言う人間の醜さときたら、たえられないものがある。あれはユーモアというより、彼ら自身がユーモアの種だというべきだろう。

 しかし、誰かを馬鹿にすることは、何故こんなにも楽しいのだろう?

 優れたユーモアには、間違いなくそこに理性的な働きがある(所謂「エスプリが効く」というやつだ)。シェイクスピアの残した有名なセリフに「痛みを知らない者だけが他人の痛みを見て笑う」というものがあるが、しかしそのシェイクスピアにしても、わざと人を滑稽に描くことによって、喜劇を成立させているではないか。 何かを滑稽だと思うのは、それが不条理に見えるから(理にかなわないように思われるから)だ。それを分析する行いは理知的なものであり、この理性のひらめきがユーモアを一層面白いものに仕立てあげているのではないか。

 しかし、他人の滑稽さに身に覚えのある人は、およそ二つの態度をとると予測される。一つは、相手の気持ちが痛いほどわかるからこそ、相手に同情するということ。もう一つは、相手と同じ滑稽さを恥じているからこそ、相手を突き放そうとすること。一つは理解できるがために相手に寄り添うが、もう一つは理解したくないがために相手をけなす。よって、シェイクスピアの上のセリフには、注釈を加える必要がある。つまり、「人の痛みを知ろうとしない者だけが他人の痛みを見て笑う」と。

(誤解が潜在的な憎悪に基づいて成り立つことは少なくない。というのも、誤解というものは、「理解できない」というよりかは「理解しようとしない」ために生じることが多いからだ。 何かを理解しようとすることに必要なのは、他ならない、対象への愛である。私自身、自分が愛せるもの以外は語りたいとは思えない)


 罪の意識というものについて、私はこれまで何度か考えたことがある。つまり、人は何故罪の意識を感じるのか?ということを。

 一つは罰への恐れからである。何か「罪」と定められる可能性のある事をしたとして、それを罰する者の存在を、目には見えない裁き主の存在を恐れるから、罪の意識を感じる。

 詳しいことは書かないが、以前私は、ちょっとした、人に後ろめたいことをしたことがある(無論、そんな事は誰にでも、いくらでもあるのだろうが)。それで、その件からしばらくの間は、人のいる所を歩くのがとても怖かった。誰かが自分の罪を目撃していたんじゃないかという不安が、私を苛んだ。人々のひそひそ話が、まるで自分のことを言っているのではないかと思われた。結局、それを目撃した者は、実行者である私以外にいなかったわけだが、しかし私達は皆自分の経験を通してしかこの世界を眺めることが出来ないのである。他人は知らないが、自分は知っている。それが罪人の意識に孤独と疎外の苦しみを与え、また周囲への不安を促すのである。

 話が大きくなるが、『罪と罰』のラスコーリニコフやスヴィドリガイロフはそのいい例だ。特にスヴィドリガイロフは、自分が殺した人間の幻覚をよく見ていた。下男の幻覚が見えた時は、彼が自分に仕返しに来たと考えた。無論、冷静に考えればそんな事はありえないはずであった。スヴィドリガイロフにもそれが分かっていたのではないかと思われる。しかし、それでも、彼にはどうしてもその幻覚が実際に存在しているように思えてならないのである。

(私は彼の語った次のセリフが好きで仕方ない。「私達は永遠というものを、いつも理解できない観念や、何か途方もなく大きいものとして考えます。しかし、どうして大きなものでなければならないのでしょうか。そうしたものの代わりに、とても小さな、一つの部屋を考えてみたらどうでしょう。田舎の風呂場みたいに、すすだらけの小さな部屋で、どこを見ても蜘蛛の巣ばかり。これが永遠だとしたら?私には、[天国について考える時]そのようなものが思い浮かぶ事があります……」)

 もう一つは相手の苦しみへの共感である。しかし、これは自分の内側に(相手のそれに似た)苦しみがある時にしか成り立たない。苦しみの特徴はその二重の方向性にある。一つは他を責める方向性であり、もう一つは自を責める方向性である。苦しんでいる人間というものは、往々にしてその原因を探そうとするものである。何処にか。そう、自分の過去にである。そして、過去には二つの存在しかいない。つまり、自と他である。

(ニーチェがこれについて上手い事を書いていた。「苦しんでいる者はいずれも皆、おそるべき素早さで、また驚くほど独創的なやり方で、自分の苦痛の感情にきっかけを与えた原因を見つけ出す。自分が誰か悪い人間の悪意や卑劣さの犠牲になっているのだと思い込み、それらの疑惑をこねましたり、詮索することに、一種の享楽を見出す。自分の過去、及び現在を、その臓腑のそこの底まで掘り返し、何やら暗黒のストーリー、秘密めいた物語を見つけ出し、そこで勝手に苦しい猜疑に耽る……」)

 何せよ、内側に苦しみを抱える人間は、それだけ他の苦しみに共感しやすく出来ている。そして、日頃から何かに苦しめられている人間は、それだけ自責の念を感じやすい。ドゥルーズも書いていたが、他を責める人間の方が、自責型の人間よりも遥かに健康的である。というのも、苦しみというものは、ある程度徹底されると、皆自分を責める方向性を取り始めるからだ。普段はそうでないとしても、何かの節に、ある日突然それはやって来る。一つの罪の意識が、これまでの自分の罪をむせ返し、自分が全て悪いのだと考えるようになる。

 責任という概念には悲しみから生み出された側面がある。この不幸は誰のせいなのかという問いがあれば、そこに「誰かのせいだ」という答えが導き出されるのは当然である。たとえば以前、私は誰かの目を見ながら、「この人がこんな目をしているのは自分のせいだ」と感じたことがある。責任という概念が、人の喜びを阻止するために生まれたことは間違いのない事だ。しかし、それは他から自に与えられるだけでなく、自分で自分の責任を見出すこともある。


 眠りから覚める度に、どうしてこんなにも悲しい気持ちが胸の底から広がってくるのだろうと不思議に思う。思わずしばらく天井を眺めてしまうほどだ。