20/06/09

 人は皆、何かしらのマイノリティに変化する可能性を持ったものとして生きている。何故なら誰しも必ずどこかしら病んでいるから。そういう意味では、この社会は大きな病院だと言えないこともない。ただ、大抵の人は自分の何処が病んでいるのかを知らないのである。

 今日までの日記を読めばおおよそ予想はつくだろうが、私は以前、自分と仲の良かった女性に強い未練を抱いている。そのくせ、私は何の行動も起こしていない。もとい、何もする気になれないのである。何故か。「会いたい」よりも「後ろめたい」という気持ちにの方が遥かに強いからだ。それに、会って何を話せばいいかも分からなければ、そもそも相手に合わせる顔がない。相手の話なら聞きたいかもしれない。ただ、私が口を開いても、二言目には謝罪が出てくるだろう。

 日が消えない限り、影は後ろをついてまわる。しかし、闇夜の中では何も見えず、人は何処へ向かえばいいかもわからない。一度灯りをつければ、再び自分の影が現れる。今日まで私は、いつも何かに対して後ろめたさや罪責感を感じながら生きてきた気がする。恐らく、この罪の意識は一生消えないのであろう。

 私はキリスト教徒であるが、結局、今日まで神への信仰を捨てられなかった理由はそこにある。恐怖や不安、そして上のような罪の意識に苛まれた時に、私は今でも神の名前を口にし、神に祈る。しかし、実をいえば、心から神を信じているわけではない。信じたいとは思っているが、信じきれていないのだ。いつだってそうだった。信じているというより、信じたいという願望のために神を信仰してきた。それは、神によって罪を赦されたいという気持ちのためよりかは、むしろ神という絶対的な罪の裁き主の存在を信じたいという気持ちからであった。赦されるよりも、裁かれた方が遥かに気が楽なのではないか。自分が負い目を感じている相手に対して、怒りを向けられるよりも、優しくされた方がずっと苦しいに違いない。

(大多数のキリスト教徒は二通りに分けられる。つまり、神を信じているつもりの人間と、神を信じたいと願っている人間だ)

 客観的に自分を眺めてみることもある。きっとあの人は自分のことをこう思っていて、きっとこの人は自分のことをああ思っている。自分はこういう人間に見えて、こんな風な考えを抱かれている。傍から見れば、自分はそんなに酷い人間ではない……これらの推測は、中には当たっているものもあるのだろう。そして、そのために慰められることもある。しかし、それも何になろう。この世界に事実は存在せず、ただ主観だけが真理なのだ。

 不幸のナルシズム……罪の意識に苛まれ、その中に留まろうとすることは、ある種の否定的な自己愛の表れである。それは自分の不幸に執着し、しがみついている事への現れだから。そして、自分を馬鹿にする人間は、(そのつもりはなくとも無意識的に)自分以外の大多数を自分と同じかそれ以上に馬鹿だと思いながら生活している。


 自分が今日まで人前に立つことを拒み、活動する意欲を持たなかったのも、やはりここにあるのかもしれない。自分には、認めれたいという気持ちもなければ、喜びを発散したいという気持ちもあまりない。それよりもずっと自分自身に対する後ろめたさや、情けなさや、恥じらいの方を強く感じている。自分は大した人間ではない。そういった考えが、いつまでも頭から離れない。だから何かをする気になれないわけだ。

 それでも昔は違った気がする。そう、かつては私も、何かに対して、もっと熱意を持って取り組むことが出来ていた……何故なのか。その問題に突き当たった時、私は一つの考えに囚われた。自分が今日まで何かを進んでしようとしたのは、悲しみに突き動かされていた時ではないか。自分には悲しみの情熱とも言うべき性質があるのではないか。つまり昔、自分が今よりも意欲的であったのは、今よりも私が悲しかったからなのではないか。

 恐らく、それは事実であった。再び何かを進んでしたいと思うためには、私には悲しみが必要なのではないか。悲しいから何かをするのではないか。そして、無気力に苛まれながらも、今日まで何かをなしたいという気持ちを捨てきれずに生きてきたのは、私の悲しみが持続してきたからではないか。今の私は、あまりにも幸福になりすぎたのではないか……

 ルサンチマンを徹底させることによって、ルサンチマンを克服する……ドゥルーズによれば、創作行為は恥の概念と切り離せない関係にあるらしい。自分自身を恥じている。だから自分が誇れるようになるために何かをする。私達が自分を否定するのは、自分の肯定したい別の自分を見出したいがためだ。悲しみを徹底させることによって、人は悲しみを克服するのである。


 今年に入ってから、私はロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』に初めて触れた。それで、痛くこの本に感動したものである。他の多くの読者と同様、私は「クリストフは自分だ」と感じた(多くの優れた文学作品に共通する性質として、その精緻な描写により、この作品に描かれているのは自分だ、これは自分のために書かれたものなのだという、錯覚にも似た心理的共感を起こさせることが挙げられる)。それで私は、この長い小説を夢中になって読んだ。一冊の小説にこんなに夢中になれたのは久しぶりかもしれなかった。

 けれど今、今日までに読んだ長い長いページの数々を再びめくる度に、この共感は憧れを含んだものであるということに気がつくのであった。私はクリストフではない。彼のように生気に溢れた、健康な人間ではない。私は不健康な人間だ。彼と同じように、好んで病的であろうとする、不愉快な美学趣味は嫌いである。でも、私の本性は何処までもデカダンスで、彼のように、喜びから何かをする人間になれない。いつかはなれるかもしれない。しかし、少なくとも今はなれない。

 同じ私が夢中になった作家の一人、クンデラは、よくよく作品の中でキッチュ(俗悪さ)についてをとり上げている。

 キッチュなものとは、ある存在への絶対的な同意である。たとえば大人になると、人は子供であることを美化して語るようになるが、しかし大抵の人は、自分が子供だった頃に体験した暗い思い出や、自分が他者にした酷い行いなどは、なかったことにして語るのが常である。物事を美しく語ろうとする時、人はその汚い部分や暗い部分が、あたかも存在しなかったかのように語る。または、悲しみや苦しみに苛まれた人は、そういったものの対極にある世界を、まるで彼岸のように美化して考える。

 『存在の耐えられない軽さ』の中で、家庭に不和を抱えて育ったサビナは、(本当は存在しない)家庭の幸福さを歌ったセンチメンタルな歌を聞くと、それが美しい嘘だとわかっていながらも、感動せざるを得なかった。存在しないものへの憧憬、弱さから求めてしまう優しい嘘、美しい嘘、糞の存在しない世界。キッチュ(俗悪さ)とはそういうことである。

 理想主義とは常にキッチュなものと限りなく近い関係にある。どこで見たかは覚えてないが、ハイティンクマーラーの音楽の根底にあるものをキッチュ(俗悪さ)だと考えた、という文章を読んだことがある。本当に彼がそう考えたのかは知らないが、もしそれが本当だとするなら、その意見はわからないでもない。私はマーラーの音楽を愛しているが、マーラーの音楽の美しさは、まさに存在することの苦悩から来る、彼方にあるものへの憧れであり、感傷的な空想の世界にある。感傷とは常に自分の弱さと表裏一体の関係にある。自分の弱さから来る苦悩と、自分の弱さ故の美化。私がマーラーの音楽に感動するのは、まさに私が苦悩するからであり、そして、それ故に何かを美化して語りたいからである。


 ロマン・ロランと言えば高潔なヒューマニズムの人として有名である。読書の喜びは、本を読むことを通して、自分の知らない自分自身の姿に出会うことにある。読んでいて共感しながらも、自分はそれを表す言葉をかつて持たなかった。私はロランの本を読みながら、それを感じることがあった。そして、彼のその一徹の理想主義に、どれだけ慰められたか知らない。

 その一方で、ロマン・ロランの理想主義の美しさが、多少取り繕われたものであることも否定し難い。ロランがかつてソ連を激励し、スターリンと面会を果たしたこともあるのは有名な話である。『ジャン・クリストフ』の中でも、彼はクリストフが「マッチーニあるいはレーニンのような精神的偉人」(ロラン自身の言葉)と親交を結び、クリストフが革命運動に積極的に参加する、という話を書く構想があったが、結局それは実現せずに小説は完結したのであった。


 今朝、とても悲しい夢を見た。大体の幸福な夢は、覚めてすぐの頃には忘れてしまう。しかし、どういう訳か、悪夢や物憂げな夢だけは鮮明に覚えているものである。

 そして、今回の場合もそれは同様であった。気がつくと私は、少年の頃に暮らしていた、二階建ての家にいた。そして、どういう訳か、私の家には沢山猫がいた。夢の世界での私は、どうやら通りすがりの野良猫を憐れんで、餌を与える習慣があったらしい。それで懐いた猫を皆、家で飼っていた。

 しかし、現実の私が飼っていた猫はたった一匹であった。それはララという、雌の猫である。

 夢の中でも、無論、私はララは飼っていた。しかし、他の猫が増えるにつれて、ララに構う暇がなくなっていった。彼女を他の猫と同様に扱っていた。やがて私はそのことに気がついた。そして、それがどれほどララに対して不誠実であるかを考えた。申し訳ないが、他の猫を皆家から追い出すことにした。一匹一匹、私は猫を抱きかかえ、窓の外に出していった。不思議と、猫達はそんな私に抵抗せず、出された後もじっと私を見つめていた。

 途中、私は何度もララの名前を呼んだ。ララは走って私のところに来て、そして私の胸に飛び込んできた。そしてまた作業に戻った。ララが近くにいなくなると不安になった。そして私は彼女の名前を呼んだ。ララがやって来ると、「もう二度とお前を手放さない」と言った。

 その時だった。突然、洪水にも似た何かが外の世界を埋め尽くしていった。辺りは下半身の所位まで、ドロドロとした半透明の液体でいっぱいになっていた。私は外に出した猫たちのことを思った。しかし、夢に特有のご都合主義が働いて、きっと何とか生きていけるだろうと思った。そう、他の猫のことなんてどうでもよかった。私にはララがいるのだ。

 私はララを再び抱き抱えた。彼女と一緒にここを脱出しなければならない。家の中には、まだ数匹の猫がいた。彼らが家の中で生き残れるように、私は大量の餌と水分を与えた。きっとこの災害はすぐによくなる。彼らには、一先ずここで避難してもらうことにしよう。でもララは別だ。私はどうてしも彼女と一緒に脱出しなければならない。どうして彼女なしで生きていけるだろう。

 私は彼女を毛布でつつみ、顔だけ出した状態で、それをバッグの中へと入れた。他に必要なものを幾つか持つと、私は家を出ようとした。この時、既に私はこれが夢であることに半分気づいていた。しかし、まだ一つ、肝心なことを忘れているのであった。私はそれに気づかないまま、ララを愛でた。さあ、行こう。ララ、僕達はずっと一緒だ。もう何があってもお前を離さない。僕は死ぬまでお前を愛する。そうだ、ずっと、ずっと一緒なんだ。死ぬまでずっと……

 この時ふと、私は気がついた。ああ、そう言えば、ララはもうずっと前に死んでいるのであったと。

 そこで私は目を覚ました。

 傍から見れば、あまりにも大袈裟な話かもしれない。たかが飼い猫に、何故こんなにも思い入れをしているのだろう。しかし、恥ずかしい話だが、年に数回、私は今でもララの夢を見る。そして、大抵は夢の最中で彼女が既に死んでいることに気がつく。目覚めはいつも決まって悪い。その日は一日中悲しげな気持ちがついてまわる。