20/06/13-14

 哲学とは一つの誘惑する力である。真実は時に、産まれたての赤ん坊のように醜い印象を与えることがある。悲しみは喜びよりもいっそう真実に近い。もし哲学的な探求を一つの真実の解明であるとするならば、哲学とは、元々私達が暮らしていた世界の安逸を破壊するためのハンマーだと言ってもいい。哲学は慰めるのではなく、悲しませるのに役立つ。哲学者とは誘惑する者のことである。哲学的なものは、元いる世界から、別の世界へと人を連れ出す。哲学とは、一つの誘惑する力である。

 ニーチェディオニュソスアリアドネの神話に取り憑かれていたことは有名である。誘惑の神ディオニュソスは、ある日英雄テセウスの妻アリアドネを誘惑し、彼女を別の世界へと連れ去る……この世界観については、幾つかの説明がいる。先ず、ディオニュソスが一人の誘惑者であり、また一つの哲学的な力であると考えなければならない。次に、テセウスは一般的な世界の代表であり、また父のイメージでもある。テセウスは立派にこの世界の重荷を背負うが、それは真理の誤魔化された世界である。だからディオニュソスアリアドネを連れ出す。何処へ?そう、別の世界へと。哲学的な力のもとへ、悲劇的なものの方へ。

 悲劇の本質は肯定にある。あらゆる生は変化し、分裂する宿命にある。だから人生は悲劇的であることしか出来ない。よって、喜劇の本質が和解にあるということも見えてくる。和解とは変化し、分裂するものへの解決であるから。しかし、和解は虚構の中にしか存在し得ない。何故なら、人は変化し(変化するとはかつてとの違いを生み出すことである)、分裂するもの(違いはかつてのものとの分裂を生み出す)の連続だから。

 何故悲劇の本質が肯定であるかはここにある。人間の生がこのように悲劇的なものであるならば、それをその通りに生きようとすることは、まさに変化し、分裂する実存を肯定することであるからだ。

 優れたものは多くの誤解を生む……『ドリアン・グレイの肖像』の中には次のような言葉が書かれていた。影響とは皆不道徳なものである、と。自分に知らないものを教えてくれるものとは、何にせよこちらの関心を引くものである。しかもその教えてくれるものが、自分の興味の対象であり、自分の心理状態に共感するものであれば、尚更である。

 時に、影響を受けるということは変化することでもある訳だが、変化とは変化する前に対する反動として成り立たない。だからこそ、何かから影響を受けて間もない頃、時に人は、傍から見れば幼稚だとさえ言えそうな態度や振る舞いを見せることがある。それは、知という一つの危険な誘惑に魅せられた結果である。

 哲学的な力とは、  悲劇的な方へと人を連れ出し、導き出す、一人の誘惑者である。ディオニュソス( = 悲劇)はアリアドネを連れ出して、アリアドネディオニュソスを肯定する。変化し、分裂すること。それは肯定されることによって、更に加速されていく。一つの差異は多数の差異の産出に繋がる。しかしながら、それは決して悲しむべきことではない。何故ならアリアドネディオニュソスを愛しているのだから。喜びは繰り返されることを求める。回帰し、反復されることを求める。ドゥルーズの書いていた通りだ。「悲劇、正真正銘の力動的な陽気さ」


 永劫回帰……ベルクソンはかつて、「現在は存在せず、ただ潜在的な過去だけが存在する」という驚くべき理論を展開したことがある。一見するとこれは神秘主義的な意見にも見えるが、よくよく考えると、分からないでもないのである。人は常に遅れて生きるものだ。私達が生きる現在には、常に今は生きられない世界が存在する。よって私達は、常にかつての世界を生き直している、ということも出来る。何故なら、どんなものであれ、今現在生きている出来事とは、別の角度から見れば、既に生きたことのある出来事であるから。しかもそれは、かつてでは考えもしなかった形で、かつての生きた世界の余白を生きているのである……過去は回帰するが、それは決して同じことの繰り返しではない。一つの回帰は更に多数の回帰を産出するのである。

 『失われた時を求めて』の主人公は、マドレーヌを食べた時に、忘れていた幼少期の記憶を思い出す。しかしその時、そこには当時では感じ得なかった感情があり、理解し得なかった余白の世界がある。この過去は、再び生きられていると同時に、新しい、初めて生きられるものとしても存在している。

 ここから小説の物語は展開していく。回帰するもの、反復するものが、多産される。永劫回帰は連続する。ディオニュソスアリアドネの結婚が連続するように。そして、そこには常に、今はまだ生きられない世界が、未来への新しい可能性が含まれている……

 「なにものかを作り出すとしてもそれは、本質的に忘却されたあるものを繰り返し思い出すことによってそうするのである」


 深夜、終電間際の駅のプラットフォームにて、私は壁に背をもたれなが、その場にぐったりと座り込んで、ブルックナー交響曲第七番を聴いている。そうして電車を待っている間、自分が世界で一番格好いい人間な気がしてくる。

 矜恃……孤独は文化だ。ブルックナーの音楽は瞑想に似ている。後期ロマン派らしい、絢爛な管弦楽法と影のある美しい和声、そして旋律が見受けられるが、しかし彼の音楽には、マーラーのような劇的な要素が、小説的な性格が一切存在しない。彼の音楽を聴いていると、川に身を浸し、その流れに身を任せているような気持ちになる。そう、彼の交響曲には、物語性が、劇の筋書きを追うような展開が一切存在しない。ただ何の脈絡もなく、突拍子もないような音の積み重ねがあり、それがひとつの大伽藍のような構築を積み重ねていく(そういう意味では、彼の音楽は汎神論的というか、ややスピノザ的とも言える)。

 昔、ブルックナーの音楽を聴いた時には、それもあってかまるで良さがわからなかった。しかし、ここ一週間は毎日のように聴いている……そう、私のブルックナー体験は回帰している。しかも、かつては思いもよらなかったような形で(四年前の自分に、私が今ブルックナーを好んで聴いていることを伝えたとしても、決して信じることが出来ないだろう)。

 そして今、私はボードレールのあの詩の一節を思い出している。「今、この真夜中の孤独と寂寞に一人でいると、僕は気力を取り戻し、いささか自己の誇りを取り戻したいと思うのだ……」ああ、今なら彼の気持ちがわかる気がする。もう何度もこの詩を読みながら、今、新しく別の感情をこの詩に対して抱いている。孤独は文化だ。自己を取り戻し、自己を癒すための時間。それが孤独だ。そして、そんな孤独な時間を高め、深めるもの。それが文化だ。


 夜更けの世界を歩くのは、どうしてこんなにも楽しいのだろう。ほぼ毎晩、私は深夜の、誰もいない街中を歩くのがやめられないでいる。それで、出先でコーヒーを買ったり、パンを買ったりして、飲食しながら歩き回る。途中、大体何処かの路上で立ち小便をする。性的興奮は感じないが(当たり前の話である)、なにか強い解放感に襲われる。今の私なら、犬が散歩中にマーキングをする気持ちがわかるような気がする。電柱の影なり、草むらなり、とにかく毎日、必ず違う所で立ち小便をする。そして、そんな自分に密かな満足感を覚える(私は自分のこういった下品なところが好きで仕方ない)。


 偶然の美しさ……もし人生を彩るものがあるとすれば、それは美しい偶然にある。思いがけないもの、不意に襲ってくるもの、予期せぬものに出会う度に、私の人生は豊かになっていく。私が初めてブルックナー交響曲第八番を聴いたのはピエール・ブーレーズの指揮であったが、恐らく他の別の指揮者(たとえばヨッフムの指揮など)を聴いていたら、こんなにもそれに魅了されるはしなかったであろう(そして、ブーレーズがこの曲を指揮していなかったら、私はそもそもブルックナーを聴かないままだったかもしれない)。

 しかし、この偶然に対する反応が、ある程度必然であるというのもまた事実である。というのも、私は過去の経験から、予め何に惹かれるかが決定されているから。この偶然への愛もまた必然なのである。遅かれ早かれ、私はこのような愛に芽生えるよう決定づけられていた。この時、偶然と必然はイコールによって結ばれる。偶然の連なりが一つの流れを作り出し、一つの必然を生み出していることを知る。偶然を愛すること、それはその偶然が必然であると確信することを意味する。

 つまりは運命愛。


 性愛に纏わる劣等感は、思春期の少年の心を度々襲うもののように思われる。周りはそれを体験しているのに、自分はそれを体験してない。そして、知っているものに特有の優越感を持って語る彼らの口調に、疎外感や、自分の臆病さに対する歯がゆさのようなものを強く感じるのである。あの頃、私は何らかの性的な体験を獲得したいと願っていた。しかし、それは性的欲求からと言うよりかは、「自分は他人に劣らず力がある」ということを、自分自身に言い聞かせたかったからだ。

 が、いざそういった立場に立たされると、喜びよりも一層気まずさのようなものばかりを感じて、いつも逃げ出したかった。そして実際、私はいつも逃げ出していた。とにかく、かつての私は、普段話さない同級生と数分後顔を合わせただけで真っ赤になるような、そんなうぶな学生だった。そして私自身は、自分のそういった所が堪らなく嫌であった……その気まずさを誤魔化すために、何度道化のような振る舞いをしたかしれない。

 スタンダールの『赤と黒』は、自分がかつて夢中になって読んだ小説だが、何故あれにあんなにも惹かれたのかとなれば、私がジュリアンの言動の一つ一つに絶えず共感を覚えていたからだ。確か小説の何処かに、女遊びをよくする友人の武勇伝を聞いて、自分もそれを真似てみたら(そうすれば異性から喜ばれるだろうと思って)、むしろ相手から嫌われかけたり、または相手に対して大胆な態度をとる時、顔を真っ青にしていたり(変に思われるかもしれない事をするのだから、不安で顔が真っ青になるのは当たり前だ)、全く経験がないのに、とにかくプレイボーイの振りをしようとしたり(何故ならプレイボーイは強い力を持っていて、弱い自分の対極だから)、そんなシーンが幾つかあった。全くその通りだとは言わないが、私もそのような所があった。で、ジュリアンがそれらの体験を通して失態なり何なりを見せることで、初めてそれがおかしいということに気づくことさえあった……我ながら滑稽である。自分がこんなに他人の気持ちを考えるのが下手だとは思ってもいなかった。

 今日までのブログのアクセス数をチェックしてみると、自分の過去の異性との体験談や、家族にまつわる話だけ、他より遥かに読まれていることにきがつく。皆、私の下らない過去の話が好きらしい。永劫回帰の話とか、ブルックナーの話とか、それらの方がずっと面白いと思うのだが、残念である。