20/06/17

 死にたくない……この一、二ヶ月、どういう訳か過去の思い出が、特に家族との思い出が頭にちらつく。その度に、私は自分が何故こうなったのかを思い出す。最近は家を出ていった時のことをよく考えている。そう、昨日の日記にも書いたが、私が家を出ていったのは、あのままあそこで腐っていたくなかったからだ……ここ一、二ヶ月、私はずっと「このまま腐りたくない」という気持ちを抱いている。このままでは、私は何もなせないまま死んでしまう……私はまだ死にたくない。

 ここに来て、自分がこんなにも生に執着していることに気がつく。肉体的な死は特に恐ろしくもなんともない。私にとって恐ろしいのは、精神的な死だ。自分の意志が死ぬことだ。

 ふと以前、教会に通っていた時のことを思い出す。その教会には、よくよく一人の女性が顔を出していた。私よりも歳上ではあるが、まだ若くて、大人しい人であった。教会に行く度にいるから、殆どあそこに住んでいるのではないかと思われることもあった。聞く話によると、女性は精神を病んでいるらしかった。通りすがりに、(普段長袖を着ているために見えないでいる)女性の細い手首に、無数の傷跡がついているのを見て、私も驚いたことがある。恐らく、あの時だけ隠し忘れていたのだろう。

 女性はとても静穏な生活を送っていた。同じ教会に通う人からプレゼントされた、聖書にまつわる本が、よく机の上には開かれていた。聖句を記したしおりが傍には置かれていた。恐らく、毎日ではないにしても、少しずつそれを読んでいるのであろう。傍から見れば、それは眠りのように閉じた人生であった。女性の顔は死人のようであった。いつも驚くほど表情の動きが少なく、まるで自分の人生を他人事として眺めているような目付きをしていた。きっと神に正しい生活を送り、現世で生きることを諦め、敬虔に死後の救いを信じているのだろう。

 そんな女性の姿を見て、私は決してそうはなりたくないと思った。失礼であることはわかっている。しかし、元々私自身が精神病棟に通っていただけに、一層この女性のような生き方を否定したいような気がした。言わば同族嫌悪である。

 この教会には、上京したての頃から通い始めた。しかし、一時期は通うのを辞め、それから数ヶ月後、再び通い始めた。無論、そのような経緯には理由がある。それは、ある日の夕礼拝で聞いた、牧師の説教のためであった。

 その日の礼拝では、ヨハネによる福音書の第十六章、二十五節から三十三節が朗読された。牧師の説教も、それを取り上げた内容であった。該当する福音書の箇所で、キリストは次のように語っていた。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と。牧師はその箇所に言及した。わたし達の人生には、様々な苦難や悲しみがあるかもしれません。しかし、わたし達には神様がついています。死後には天国での救いが待っていて、今この時も、イエス様がわたし達を愛してくれています。どんな苦しみの中にも、神様が与えてくれた恩恵があります。わたし達は既に世に勝っているのです。

 私はそれを聞いて、恐らくはただ一人、礼拝堂で静かな怒りに震えている人間であった。世に勝っている?そんなものは、ただの負け惜しみではないか。実際、この教会に来ている人達は、皆現実の苦しみに抵抗せず、ただあるがままを受け入れて、そこに神の愛が働いているとでも信じているような人達ばかりである。無論、何の抵抗もしないがために、現実の苦しみは一層酷くなるばかりであった。しかし、それでも何もしない。何故か。それが教会の教えだからだ。もとい、その教えを受け入れるくらい、彼らの心は臆病であった。その様はまさに子羊であった。あるがままに満足しようとすれば、人の幸福は自ずと失われていく。恐らく、信徒達はそれに気付かないふりをしていた。それでよかったのだ。何故なら、現世では苦しくても、自分には天国が待っていて、神様が自分達を受け入れてくれるから。ああ、なんて馬鹿げた話だろう。まるで負け犬の遠吠えだ。

 礼拝後、信徒たちが集まり、談話している中で、私はただ一人、自分が場違いな人間であることに気がついた。ここにいる人達は皆、牧師の話に感動して、その通りだ、イエス様は素晴らしい、そんな事しか言っていなかったから。お前らには自分の意志はないのかと言いたくなった。こんな人生は、生きているとも死んでいるとも変わらないではないか。しかし、彼らにはそれこそが真実であった。そして、場違いな自分の意見をその場の人々に押し付けるのは、あまりにも無粋な話であった。

 私はまだ死にたくなかった。だから教会に通うのを辞めた。再び通い始めるのは、わかりきった教会の嘘に誘惑されるくらい心が弱っていた、その数ヶ月後のことであった。


 次に私が思い出すのは、祖父の家にいた時のことである。 私はよく祖父と二人で夕食をとる事が多かった。そして、食事中は、ずっとテレビが付けっぱなしにされていた。恐らく、このように、食事中のリビングで延々とテレビを流す家庭は多いように思われる。その事を改めて考えると、テレビとは恐ろしい装置である。人がテレビを流し続けるのは、沈黙を恐れるからではないか。沈黙は人に死を、孤独を、冷たい暗闇を感じさせる。だから人は沈黙を恐れる。そして大半のテレビ番組は、いつまでも当たり障りのない内容ばかりを流し続ける。沈黙をかき消すためだ。こうして人々は現実の恐怖から目をそらすことが出来る。そして、徐々に、少しずつ、しかし明確に、テレビは人を毒していくのである。

 休日になると、父はよく自室で一人、テレビを観ていた。または、レンタルショップで借りてきた、特に意味もなければ内容もない、毒にも薬にもならないようなコメディ映画を垂れ流していた。 意味の世界に疲れると、人は無意味の戯れを求めるようになる。あの頃、既に私と父は、殆ど口をきかない生活を送っていた。かと言って、父は私以外の親族と、特に仲がいいわけでもなかった。だから、休日になると、いつも一人で、酒を飲みながら、延々とテレビを垂れ流していた。部屋の前を通ると、ふすま越しに、テレビの音声と、虚しい父の笑い声が聞こえた。

 これが一人の人間の生きた末にあるものであった。私はまた「死にたくない」と感じた。


 あらゆる現状維持は、常に現状の退化をうながす。私は今日まで、平穏な生活に憧れてきた。家庭に対してコンプレックスがあるから、人より尚更家庭的なものに、閉じた幸福に憧れがあるのかもしれない。そして今でも、(上のようなことを散々書いたにも関わらず)その憧れを、心のどこかで捨てられずにいる。恥ずかしい話である。

 結婚は人生の墓場である、とはよく言ったものだ。私もその通りだと思う。結婚は人生の墓場に違いない。ならば私は、自分の墓場になってくれる存在が欲しい、と言ってもいいのかもしれない。しかし、それならわざわざ結婚にこだわる必要がないのかもしれない。そう、言い換えるならば、私はパートナーが欲しいのだ。最後の最後で自分の帰る場所となるところ、墓場、死に場所が欲しいのである。


 『ゴッドファーザー』の二部作目は、ある印象的な回想の場面と共に終わりを迎える。それは主人公のマイケルがまだマフィアになるつもりがなかった頃の、彼の父が死ぬ前の頃の話である。

 父の誕生日、兄弟達が全員集まっている中で、マイケルは自分が大学をやめて、戦争のために軍隊に入ったことを告げる。そして、彼は誰にも相談をせずにその決断を下したのである。マイケルは兄弟から親不孝ものだと罵られ、「パパはお前に期待しているんだぞ」と言われる。それに対して、彼は言う。「これは自分の人生だ」

 映画の中で、彼は自分の守りたいものを守ろうとする。しかし、マイケルは自分を押し通す事でしか生きていけず、自分のためにしか生きられない。だから、自分の守りたいものを守ろうとするほど、彼はそれを失っていくのである。

 上の場面は、家族を愛しながらも、あくまでも自分のためにしか生きられないマイケルの悲しい性の表れだと言える。初めてこの映画を観た際に、やがてひとり取り残されていくマイケルの姿に、共感にも似た感動を覚えたことを、私はよく覚えている。