20/06/23

 思弁的なレベルで言えば、あらゆる問題は提起すれば必ず答えを出るようになっている。というのも、答えを想定して問題は設定されるからだ。では、同じ問題を堂々巡りして、いつまでも解決が見えないという現象は、何故よく見られるのか。それは、そもそも問題の提起の仕方が悪いからである。

 肝心なのは、答えを出すことではなく、問題を設定することだ。というのも、物事への問い方によって、答えの内容は変化していくからだ。もし同じ問題から抜け出せず、問と答えの間を行ったり来たりしているならば、それはそもそも問題の設定の仕方が間違っていると考えるべきだ (解答が出てるのに解決が見いだせない、それは解答が出ていないのと同じだ)。大切なのは、無理に目の前にある問題を解こうとするのではなく、今いる場所から抜け出して、別の観点から再び問題を問い、そもそも問題とは何かを考えることである。


 多様性というものを、人はよく誤解している。真の多様性とは、ある意味では差別の肯定とも言えるからだ。

 生まれながらにして、人は本性上に差異を抱えている。たとえどれだけ社会的な平等が整えられても、その根源的な差異から、私達の間には実質的な不平等が、差別が生じざるを得ない。もとい、だからこそ私達の世界は発達してきた。不平等であり、人と人がそれぞれ違うということ。文化の発展の第一要因はそこにある。

 よって、真の多様性とは、分裂した人間存在の肯定である。現代は一つの反動の時代と言える。既存の価値観への反発から、またはかつての世界への復讐から、人々が大規模な運動を起こそうとしているのをよく見かける。しかしそれらは、マイトリティ= 多様性の肯定というよりから、むしろ既存のマジョリティを追いやって、自分たちがマジョリティになろうとしている征服運動であり、一種のファシズム的な運動なのだ。これは、言うなれば多様性の肯定とは正反対の行いをしているということである。ファシズムは差異を否定的なものだとして、一つのものへと回収することを求めるから。

 マイノリティは常に、マジョリティに自分を認められたいという欲望を内心に抱かざるを得ない。よって彼らが取る行動は二つであり、一つはマジョリティに自分を寄せていくことであり、もう一つは自分がマジョリティを征服することである。どちらにせよ言えることだが、マジョリティに自分を認められようとすることで、マイノリティは自分の良さを失っていくのだ。

 先程も書いたが、文化の本質は人がそれぞれ抱えている根源的な差異、孤独にある。よって差異=孤独を無にしようとする活動は、それ自体文化を無にしようとする欲求の表れに他ならない。つまり、悲しみの表出だ。悲しみは自分を悲しませるものを無にすることを求めるからだ。しかし、自分を悲しませるものを無にしようとする程、人は自分を喜ばせるものさえも失っていくこととなる。悲しみへの反動的活動は、それ自体自分を衰退させるための活動なのである。

 多様性とは、それぞれの抱える本性上の差異の肯定である。それはマジョリティ=虚構の解体をも意味する。物理法則というものは、常にある特定の環境下に置いてしか成立しえない。法則のように必ず当てはまる一般的なもの、普遍的なものとは、物理学と同じように、一定の条件下でしか成り立たないものなのである。言い換えるならば、一般性=普通とは常に虚構なのだ。それは人々が本性上に抱える差異を誤魔化した上でしか成り立たない。

 本性上の差異を肯定するならば、差異は一層深刻化する。差異は多数化する。一つの違いを認めれば、違いは益々産出されていくこととなるのである。よって、多様性とは、本性上の差異の肯定であると同時に、分裂することへの肯定でもある。つまり、私達が分裂し、八つ裂きになることへの肯定、全ての人間がマイノリティに生成変化することへの肯定なのだ。多様性の先にあるのは、一般社会の解体であり、既存の価値観の崩壊であり、また新しい価値観の発生でもある。


 私達はその場その場を生きるというよりかは、むしろ諸々の流れを、始まりと終わりの失われた流れの中間を生きている存在だ。

 有名なゼノンのパラドックス、アキレスの亀を思い起こしてみよう……亀より足の速いアキレスが亀に追いついた時、亀は幾分先に進んでいる。再びアキレスが亀に追いついた時も、それは同様である。ここでは、足の速いはずのアキレスが、何故か亀を追い越せないでいる。それはこのパラドックスが、そもそも空間( = 設定された場)のみにおいて起こることを前提とした理論であるからだ。確かに、アキレスが亀に追いついた瞬間だけを切り取るならば、亀はアキレスより先を歩いているかもしれない。しかし、実際のアキレスは亀を追い越す。何故なら、現実の空間 = 場は切り離されるのではなく、持続する一つの流れであるからだ。

 現象は空間の中で起こるのではなく、時間の流れの中で起こる。一般法則が理論上でしか成り立たない理由は、ひとつの場所に限定された現象というものが、理論の中でしか成立し得ないからだ。小学生の頃、算数の問題を解く時に、何故pさんはこんな事をするのか、何故qさんはあそこから動かないのか、という冗談を同級生と飛ばし合ったことがあるが(同様な経験はほかの人にもよく見られるだろう)、それはまさにそういうことなのである。

 流れとは常に多様なものの集合体である。リルケが書いていたが、運命というものは、無数の線が重なり合うことによって生じるものだ。かつては何とも思わなかったものが、ある日とても大きな意味を持つようになることがある。私達が生きる今には、常に今は理解し得ない余白がある。何故なら、今とは常に多様な線の集合体であるのだから。

 私達が生きる現在とは、かつて生きる事の出来なかった過去の続きである。最近はそんな事を考えながら生きている。人はいつも、かつて生きられなかった過去の可能性を、失われた過去の余白を生きているのではないか。