20/06/30

 苦悩すると、人はその苦悩の責任と原因となるべき存在を求めようとする。そして、このように苦悩に満ちた人生はあやまちであり、間違ったものであり、救済され、償われるべきものであると考えるようになる。人によっては、苦悩を深め、益々苦しむことで、自分が償われ、救済されるとさえ考えようとする。何故なら、苦悩する人にとって、その苦しみは一つの罰のように見えるから。罰とは罪のあるものにしか与えられない。

 こうして、人は次の考えに至る。つまり、生は悪であり、罪深いものである、と。

 人が正しくあろうとするのは、悲しみの反動からしか有り得ない。しかし、断罪されるべき生の彼岸として見出された正しさとは、不正に対する、苦悩に対する復讐としてしか成り立たない。だから人は絶対に正しい人間になることが出来ない。何故なら、苦悩によって生まれた理想とは、常に一つの影であり、いくら追いかけても捕まえることの出来ないものであるからだ。

 よって、人が真の正しさに至ることがあり得るとするならば、それは悲しみから出発して、悲しみを超越することにある。加害と被害は常に表裏一体の関係にある。大体の加害者は、元々強い被害者意識の持ち主であり、だからこそ誰かに加害しようとするのである。


 死と性が近い関係にあるように、音楽と性もまた近い関係にある(故に死と音楽もまた深い仲にあるのだが)。そのような事を思ったのは、シェーンベルクの『浄夜』を奏でる弦楽合奏団の映像を眺めていた時のことだ。

 異なった声部がそれぞれ絡み合い、ぶつかり合うことによって、音のエクスタシーは次第に高まると同時に、より深くなっていく。弦楽合奏団は、その官能の響きと共に身を揺らし、弦楽の揺らぎは、異なった声部ごとに異なった動きを、しかし規則的で、歯車のようにそれぞれが噛み合った動きを見せている。その様が妙に性的で、さながらベッドの上で求め合う男女のように見えてきて、興奮する。

 そういえば、以前自分がピアノを弾いている動画を見ていた時、演奏しながら身体を揺らす自分の姿が、まるでピアノに向けて腰を降っている男のように見えて、実に愉快だったことがある。実際、音楽の流れに身を委ね、その浮き沈みに聴き入ることには、非常に肉体的というか、性的と言えるまでのエクスタシーがあると思う(私が孤独でいても大して寂しさをおぼえないのは、もしかすると音楽のおかげなのかもしれない)。

 次に思い浮かぶのは、オーケストラを指揮している時のカラヤンの顔だ。交響楽の盛り上がりと共に身振りが動き、その強弱によって表情が変わる。全てが解放され、罪の穢れが洗い落とされるような楽章の頂点を迎える時の彼の顔は、まさにエクスタシーそのものだ。グレン・グールドも、ピアノを弾いている時に、口を開き、ピアノの方にかがみ込みながら演奏する。その様は、まるでピアノを愛撫しているように見えなくもない。


 「本物」を求める時、人は常に偽として定められたものを裁くものとしてそれを考える。しかし、実際には違う。真実的なものとは、常に偽物を包み込む存在なのだ。なるほど、確かに偽は存在する。しかし、本物はそれに対立するものではない。偽が本物の副産物であり、それよりも重要でないのは確かかもしれない。しかしだからと言って、本物が偽を裁くことはない。もし偽が本物の副産物であるならば、本物はそれに対立すると言うよりかは、むしろ無限に産出される偽物を内包する存在である。

 偽を恥じ入らせ、それを断罪する本物とは、本質的に存在しない。本物とされたものが、意図せず偽とされたものを恥じ入らせることはあるかもしれない。しかし、断罪するために存在する本物など決してありえない。偽に復讐するために本物を求める動きは、それ自体自らが偽物であることの表れである。


 「……まさにその意味において、存在[現実の生]とは試練である。しかしそれは物理的・化学的な実地の試練であり、実験であって、[道徳的な善悪の価値観による]〈審判〉とはまるで違う。(…)そうした個々の状態の物理化学的な実地の試練こそが、道徳に基づく審判とは全く逆に、〈生態の倫理(エチカ)〉を形作っているのである」

 私達が生きる現在には、常に今は生きられない余白がある……人の知性が、これまでに経験した感覚の集合体であるのは間違いのない事だ。これは熱い、これは悲しい、これは痛い……そのように感覚的な経験が積み重なることによって、私達の意識は形成されていく。言い換えるならば、私達の知性とは何処までも感覚的なものであり、感覚を超越した絶対理性とは、理論上でしかありえないことのなのである(感覚を否定する理性とは、感覚に対する復讐心の表れである)。

 「砂糖水を飲みたければ、砂糖が水に溶けるのを待たなければならない」とは、ベルクソンの残した有名な定理だが、初めて見た時には、一体何を当たり前なことを言っているんだと思った。が、よく考えてみると、この短い文だけでベルクソンの言いたいことが端的に現れているので、確かに面白い。私達の生きる現在とは、常に砂糖を水に入れた瞬間なのである。水の中には砂糖が入っている、しかしまだ溶けていない。同様にして現在には、常に全く違うもの、理解できない( = 水に溶けない)ものが同時に存在している。しかし、私達はそれを間違いなく経験しているのである。そして、砂糖水を飲みたければ、砂糖が溶けていく持続を経験しなければならない。

 時に、知性がもし感覚的なものだとするならば、私達は一生かかっても、自分自身を完全に客観的に見ることが出来ないわけである。何故なら感覚は限りなく主観に属するものであるから。よって、こうとも言うことが出来る。私達は、自分を構成している経験が何なのかを知らない、と。生が一つの試練であるのはそのためだ。私達は自分がなんであるのかを知らない。ならば、それをふるいにかけて、自分を試し、実験しなければ、自分がいかに生きるべきかを見出すことが出来ないのである。

 私達が生きる現在には、常に今は生きることの出来ない余白がある……しかし、私達はその余白がなんであるかを知らない。ならば、余白を生きようとすること、自分を知ろうとすることは、常に一つの賭けとしてあり続ける。恐らく、その先にこそ、悲しみ=ルサンチマンにとらわれない、真の善い生き方が、私達の倫理的実存がある。

 「したがって生態の倫理における試練は、[来るべき最後]延期された審判とは全く反対に、道徳的秩序を[あとから]回復するのではなし、確固の本質やその状態個々の持つ内在的な秩序を、即座に確認していくのである。総合して賞罰の裁きを下すのではなしに、この倫理的試練は、どこまでも実地に私達自身の化学的組成を分析するに留まる(試金分析、あるいは[同じ粘土からつくられる]器の違いの分析) のである……」