20/07/02

 昨日、友人の家で『トレインスポッティング』を観返した。果たして何度この映画を観たか、それはわからない。ただ、これを観返すのが数年ぶりであることは知っている。私が初めて『トレインスポッティング』を観たのは高校生の時であった。そして、あの頃の私は、作中とは全く違う(そして作中よりも遥かにマシな)環境で生きていたにも関わらず、主人公のマーク・レントンに深い共感を覚えていた。今観返すと、あの頃に感じていた閉塞感や、やり場のない情熱を思い出すと同時に、当時は気づかなかったことをも感じる。映画の長さは約一時間半で、比較的短いものである。当時は、この映画がこんなにも短く、展開の早いものだとは知らなかった。

 作品に触れることは、多かれ少なかれ、その作品によって鑑賞者が変化することを意味する。しかし、作品によって自らが変わる時、私達は、作品を自分の手で変えてもいるのである。『トレインスポッティング』を初めて観た十代のあの日、私はその日のうちにもう一度『トレインスポッティング』を観返した。それは、私がこの映画に感銘を受けたからであるが、それと同時に、私の中にあるこの映画の印象が変化したからでもある。観る前は、内容も知らない遠い外国の青春映画という認識であったが、観た後には自分の共感の対象に変化している。つまり、作品によって変わった私の中で、作品もまた変化していたのである。

 人の成長とは、常に自分と自分以外のものとの間で起こる。昨日、私は『ファイト・クラブ』をも観返した。映画の構成的にも、一度目よりも二度目以降の方が発見の多い内容なだけに、私は初めて観た時には感じなかったことや、考えなかったことをも感じ、また考えた。この時、私の内にある「あの映画はこういうものだ」という印象はすべり落ちる。「あれはこうだ」という考えからすべり落ちて、別の方向へと生成し、変化する。そして、作品への印象が変化する時、印象の持ち主である私自身もまた変化するのである。

 私はかつての自分からすべり落ちて、別の方向へと生成する。この時、私と作品は、元々いる場所、既存の「自分」、信じられていた自己同一性から抜け出して、全く新しい可能性のある、別の未来へと生成変化する。


 新しいものとは、常に失われた過去を再び見出すことによって生み出される。例えば会話をしている時、私達は絶えず口を動かしたり、表情を動かしたりする。言い換えるならば、会話の最中、私達は常に筋肉を動かして、一秒前の自分と変化している。何かを体験し、経験する度に、私達はそれを感覚する前の自分を喪失し、違う存在へと変化する。私達は常に、自分の内側で差異を産出し続ける存在なのである。

 しかし、そんな変化のただ中を貫く、唯一変わらない存在がある。それは持続する意識である。喪失された自己と現在の自己(そしてその先にある未来の自己)の中間を貫く意識の流れである。私達は自分が今日までに感覚したものの集合体だ。もし現在に新しい発見があるとするならば、それは常に過去の記憶を(無意識的にであろうと)参照された上でなければ成り立たない。その時、かつて見出された差異が、現在において再び見出される。それも、かつてとは違った印象を伴って。私達の変化、成長は、常に自分が今いる所から抜け出すことによって成立する。

 非人称なものへの問い……私達が生きる現在とは、ある面から見れば、常に既に生きられたもの、再び生きられているものである。今現在には、常に私達自身には属さない時間がある。つまり、現在の主体からすべり落ち、無名な世界へと沈んでいく、非人称な空間があるわけだ。

 それを生きるということ。私達の内には、常に私達自身に属さない、別の自分が存在すると言っていい。人は感覚を通して経験するが、常に自分が何を感覚しているのか、それを完全に理解することが出来ないからである。私達の経験には、常に今は生きられない過剰が存在する。それを再び見出すということ。かつて生きたが、全く生きられなかった過去の過剰、自分でありながら自分からすべり落ちる非人称的なもの。そこに私達の生きる舞台がある。


 人は作品によって変化し、また作品を自分の中で変化させている……このような現実に直面することで、ふとドゥルーズの書いた次の言葉が思い出される。「二人がどんな風に理解し合い、互いに補い合い、互いに相手の中に入り込んで脱人格化を遂げるのか、それを確かめ、さらに相手を刺激しながら特異化していくという体験があった。つまり愛だね」

 人が誰かを愛する時、相手の気にいられようと、自分と相手が近い性格をしているよう(間接的であれ)アピールすることがある。必ずしもそうでないとしても、よくよくそういう現象が見受けられる(私もそれが好きなんだ、僕にもそういう趣味があって、俺は元々こういう環境で育って……といったふうに)。しかし、もし相手が既にこちらを愛していたならば、上の態度は失敗だと考えねばならない。何故なら、人は自分と相手が違う存在だからこそ、対象を愛するのだから。

 無論、相手と自分が同じ人間だという、共感にも似た作用が必要であるのは間違いのないことだ。例えば『ファイト・クラブ』の中で、主人公が何やかんやでヒロインのマーラに好意を抱くのは、彼女が自分と同じ不幸な人間だったからである。全く違う人間に対して、人は親近感を覚えることもなければ、共感を覚えることも無い。人が愛情を覚えるのは、相手に自分に近いものを、特に自分に近い弱さがあるのを見い出したからである。

 しかし、それだけでは愛は生じない。もし自分と全く同じ人間が目の前にいたならば、むしろ自分の見たくない所を相手に見出して、相手のことが嫌いになるはずだ。逆に言えば、そこで自分にないものを相手に見いだせたならば、それを相手の魅力だと考えて、相手を愛し始めるのである。自分と同じ不幸な人間でありながら、自分にはないものがある。それを感じ取る。だから主人公はマーラのことが気になり出すわけだ。

 相手は自分の共感の対象( = 同じ人間)であるが、相手には自分にないもの( = 自分との差異)がある……だから相手を愛する。または、相手から愛されたいと願う。相手によって、自分に足りないものが補われることを願っているからだ。愛情とは一つの相互作用だ。相手を愛することで、自分が変わり、また相手をも変えていく。愛によって、かけ算されるように相互の存在が高まっていく。または高め合っていく。そして自分が今いる場所から、別の場所へとすべり落ちる。

 「誰かを愛するということは、一体何を意味するのだろう?それは、常にその人を一つの群衆の中で把握すること、その人の加わっているグループから、たとえ家族のような狭いグループからでも、その人を抽出することだ。── それから、その人だけの群れを、つまりその人が自分の内に閉じ込めている、恐らくは全く違う性質をした、様々な多様体[ = 非人称な個性、魅力]を探すこと。それを自分の多様体と合体させること。それを自己の多様体に入り込ませ、それらに入り込むこと。天上的な婚礼、多様体多様体

 しかし、もしかすると、私が愛に過剰な期待をしているだけなのかもしれない(しかも、大抵この期待は失意に終わるのだが)。ただ、次の事だけは確かに言える。人が愛されることを求めるのは、自分に足りないものが補われることへの憧れからである、と。


 高校の頃、私には同じ中学出身で、しかし別の高校に通う、一人の親友とも言うべき存在がいた(20/04/14-15の日記も書いた話だ)。当時、私はよく彼に『トレインスポッティング』を観るようにすすめたものである。

 私は地元が嫌いだった。とりわけ、中学時代の友人達は、皆笑顔で人をいじめるような、陰湿な連中ばかりであった。私にしても、少年の日の思慮の浅さと、その薄弱な精神から、人をいじめたことがある(もとい、人からいじめられた事の方が遥かに多いが)。高校に入ってからも、中学時代のそういった不愉快な付き合いが続いていた。私はそれが嫌でならなかった。しかし、その付き合いを拒むことも出来なかった。何故なら周囲の人間を振り払い、孤独になるだけの勇気もなかったから。

 『トレインスポッティング』を初めて観たのは、まさにそういったものに苛まれていた時期であった。友達付き合いをしてはいるが、腹の底ではお互いを見下し合っている。そんな腐れ縁の故郷の友人達を裏切って、主人公は自分の人生を生きようと決意する。そんな映画のラストシーンに痛く感動した。これこそ自分のあるべき姿だと本気で考えた。同時期、私は初めてニーチェの書物に触れた。本の中から、ニーチェは「孤独を恐れるな」というメッセージを送ってくれた……私の人生が変わり始めた瞬間であった。この腐った環境から抜け出して、新しい自己に至りたいという欲望が芽生え始めた。

 しかし映画には、スパッドという、自堕落な人間であるが心根の優しい青年が登場した。彼だけを主人公は裏切らなかった。そして、当時の私の目には、自分の唯一の親友が、まさにスパッドに当たる存在であるかのように思われた。だから散々彼に『トレインスポッティング』を観るようにすすめた。しかし結局、彼は一度もそれを観なかった。そして私は、やがて彼の前を去ったのである。


 私は読書を好む……しかし、難解な本を読んでいると、精神的な高揚と同じくらいに深いノイローゼを感じる。にも関わらず、また幾度も小難しい本を開く……あの喜びが忘れられなくて。

 人間は自己を破壊するのを好む生物である。どんなものであれ、刺激とは常に一つの毒であり続ける。刺激は元々あったこちらの構成関係を破壊し、それをかき乱す。それは毒素が侵入した時、既存の肉体の構成関係が破壊されるのと同様である。しかしそれによって、全く新しい別の構成関係が生成されるのも事実である。私を神経質にさせる本は、それだけ一層大きな刺激を与え、それだけ一層新しい私を形づくる。その感覚は喜びを与えてくれる。喜びは繰り返されることを求める。こうして私は再び本を開く……