20/07/05

 先日、友人達と集まって話している時のことである。その内の一人が、願い事がよく叶う神社が近くにある、との話をしてくれた。彼自身も時折そこに願掛けをしに行くらしかった。そして、普段は微塵も興味がないにも関わらず、思わずその場に向かいたい気持ちになっている自分の姿に気がついて、驚いた。私にはどうしても叶えたい願い事があった。無論、それも絵空事なのかもしれないが。

 私は、曲がりなりにもキリスト教の洗礼を受けた者である。聖書もよく読んだし、教会にだって熱心に通った。しかし、心の底を言えば、もう殆ど神の存在を信じることが出来ないでいる。ずっと前からそうだ。私はもう神を信じていない。今になって、リルケが書いていたことの意味を痛切している。人は好き勝手に信仰を捨てられるのではない。むしろ信仰を捨てざるを得ないよう強いられるのである。「神社に行ってまでしても願い事を叶えたい」という欲は、まさに自分のキリスト教への信仰が死んだことと、何でもいいから何かにすがりたいと願っていることの、二つの表れだと言っていい。ドストエフスキーは正しかった。理性に固執するほど、人はどことなく迷信深くなっていく。

 神社の話よりも少し前に、その友人が恋愛の話を僅かにした。彼は私に「今恋人はいるか」と聞いた。私は正直に「いない」と答えた。それからぼんやりと、その事について考えた。恋人が欲しいとは思わない。ただ、何かもっと深い関係にある存在というか、支えてくれる存在というか、パートナーが欲しいとは思っている。私にはアリアドネが必要であった。上手く言えないが、最近はそんな事ばかりを考えている。長い間、私は模索を続けてきた。それで出た答えがある。それは、自分は一人で生きていけないということであった。

 これからを諦めるなら、私もひとりで生きることが出来るかもしれない。何処かに隠居して、散々本や音楽に熱中し、時には映画を観たり、絵を描いたりする。それだけで結構幸せに暮らせるだろう。しかし、まだ死にたくないという気持ちがある(それに、ずっとそうではやがて飽きてしまうかもしれない)。年々、人との関わりが多くなるにつれて、自分の内にある、喪失感とも悲しみとも言えるようなものが強くなっていく事に気がついた。今朝だってそうだ。目が覚めた時に、私は漠然とした虚しさに襲われた。そして、この虚しさが、人の言う寂しさなのだということに気がついた。自分には誰かの支えが必要で、誰かの助けが必要なのだということをも知った。それはずっと自分が拒んでいるものでもあった。そして実際、私はそれをかつて拒んだのである。もう遅いのかもしれない。しかし、自分以外の存在が背中を押してくれなければ、私は自分の人生に積極的に取り組むことが出来ない。恥ずかしい話だが、それが正直な気持ちである。


 今、私はぼんやり夢想に耽りながら、それらのことを考えている。薄暗い部屋でひとり、外の雨音に耳をすませながら。作品を鑑賞した後の余韻が、まだ胸の内に残っている。先程観た映画と、先程聴いた音楽の余韻だ。音楽はいい。好きな音楽を聴いている時だけ、自分が人生の主人公であるような気がしてくる。

 美しい音楽は私を疲れさせる。そして、この疲労を私は感動と呼んでいる。