20/07/08-09

 歳の若い人間として当たり前なことではあるが、私には経験していないことが沢山ある。中には、敢えて避けてきた経験もある。それは私が真面目だからなのか、それとも単に臆病だからなのか。恐らく、後者が真実なのだろう。私は人一倍臆病な性格をしているから、いつも踏みとどまって、迫られた経験を避けてしまう。そういう意味では、私は敢えて経験していないというよりかは、経験できないというのが正しいのだろう。

 「来るべきものは、遅かれ早かれ必ず来る」とは、シェイクスピアが『ハムレット』の中で残した言葉だ。だからこそ、現実の生をふるいにかけ、現実を加速させることで、来るべきものをいち早く呼び出そうとする。加速主義だ。この考えは、今の私には正しいように見えている……

 しかし、時折考える。私は何かを経験しようとし、(若者らしい性急さで)未知なものを知ろうと必死になる。しかし、これは自分が投げやりになっているだけなのではないだろうか。自暴自棄になって、こだわりがなくなり、何にでも手を伸ばそうとしている。それを活動的だと勘違いしているだけなのではないか?

 そのような考えに囚われる度に、私はふと、自分を引き留めてもらいたいという気持ちを強く覚える。このような考えも、またこうした独白も、どちらも私の弱さの表れであるに違いない。


 顔のないものへの憧れが、私にはある。未知なもの、不可解なもの、知りえないもの、掴みどころのないものへの憧れが。決して誰かを信頼していないというわけではない。ただ、自分がそういった顔のないものとして見られた方が、安心するのである。私と関わっている友人達が、皆私に掴みどころのない、顔なしのような印象を受けてくれれば、幸いである。

 生とは一つの秘密に満ちたもの、語り得ないもの、プライベートなものである……私自身、そう考えているのもあって、何か大っぴらげに自分自身をさらけ出すことに、品の無さにも近いものを感じる(かといって、他者がそうすることに嫌悪を抱くことはない。ただ、自分はそうはしたくないというだけの話だ)。

 恐らく、自分にはその気がなくとも、私は心のどこかで自分を恥じているのだろう。もとい、冷笑的な人間は皆そうだ。自分を恥じているからこそ、他人にも恥じるべき所が沢山あるように見える。そして冷笑することで、そのような恥から自分を守ろうとするわけだ。冷笑的な人間とは、総じて皆臆病な人間のことである。

 人が仮面を被るのは、自分を守るためだ。しかし、リルケも『マルテの手記』の中で近い指摘をしていたが、仮面を被るにつれて、人は元々あった自分の顔を失っていくのである。そして失われた私達の顔は、未来において取り戻されるものとなるわけだ。

 ドゥルーズが書いていた、「ニーチェにおいては一切がマスクである」と。ニーチェは自分に纏わるもの全てを自らの仮面として生きた。そんなニーチェの孤独に対して、彼の書物を初めて読んだ十代の日から今日に至るまで、私は憧れの混じった共感を寄せてきた。自分の内にある顔のないものへの憧れは、単なるニーチェからの悪影響なのかもしれない。


 最近、久しぶりにビデオのレンタルショップに出向いた。先日登録したストリーミングサービスのおかげで、あるレンタルショップでのDVDの借り出しが無料になったからだ。それで映画の棚をぼんやり眺めていると、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を、フランシス・コッポラが携わって映画化したものを見つけた。ディカプリオが主演を務めた方は知っていたが、コッポラが映画化していたとは、映画にはあまり明るくないため知らなかった。『グレート・ギャツビー』は私のお気に入りの小説であった。コッポラもまた『ゴッドファーザー』シリーズを見て以来、気になりつつある存在であった。つまり、私には借りる以外の選択肢が見つからないわけだ。

 それで今日、私は借りたその映画を観た。映画は私の期待を裏切らなかった。そして、映像化されたギャツビーの姿に感動すると同時に、あの物語に触れた当時のことも思い出した。禁酒法時代のアメリカ。語り手の近くにはギャツビーという謎の若者が暮らしていた。彼は若くして大豪邸を建てるほどの大金持ちで、人を殺したとか、オクスフォード大学を出ているとか、ドイツ皇帝の親族だとか、信じ難い様々な噂が飛び交っているような男であった。月に何度か自宅で大規模なバーティを開き、そこには著名人も多く集まった。しかし、何故彼が豪邸を建て、悪趣味なパーティを頻繁に開き、また何故多くの信じ難い噂が飛び交うのか。それは謎に包まれたままであった。しかし、物語が進むにつれて、その訳は明らかになっていく。彼の近くには、彼の昔の恋人が住んでいた。彼はその女性を振り向かせたかったのである。貧しい軍人時代 、彼は女性に婚約を申し込むが、彼女はそれを彼の貧しさのために断った。だから彼は戦後、酒の密売や麻薬の取引など、違法な手段に手を染めてまでして大金を儲け、謎の噂が飛び交うほどの、全く新しい人物に生まれ変わって、彼女を迎えに行こうとするのである。彼が語り手に近づき、親交を結んだ理由も、その語り手が女性の親戚であったからである。彼は言う、「全てを元通りにする」と。しかし、物語はそう上手く進行してくれないのである。

 恐らくは多くの文学青年と同じく、私はギャツビーにある種の誠実さを、いびつなまでに一徹な誠実さを、ほとんど執着心とも言える誠実さを見出した。そして、それに魅せられた。自分にはそんな要素が一つもないのに、何故か自分とギャツビーを重ねたりした(『グレート・ギャツビー』に夢中になる若者の大半は、「ギャツビーは自分だ」と思うようになる)。しかし、あらゆる物語に熱中した後と同様に、程なくして私は、自分がギャツビーではないということに、またギャツビーのようにはなることも出来ないということに気づいたのであった。

 映画を観ていると、その当時の思いが再び私の胸の内に蘇った。映画のワンシーンワンシーンさ、まるで絵画のように美しかった。映画が終わる頃には、夏の終わりの夕暮れを眺める時にギャツビーも感じたであろう、美しくも物悲しい余韻を感じながら、私はエンドロールを眺めていた。


 事件、それは自分と自分以外のものとの間で起きるものであり、現実を切り裂くナイフである。

 人が生きる空間には、常に今は生きられない余白があり、過剰がある。事件とは不意に訪れるもの、突き刺すもの、予想外なものだ。そこには常に不可解な、理解し得ない何かがある。そして人は、その悪い癖として、いつも自分の知らないものを、自分の知っているもので説明付けようとする。未知なもの、不可解なもの、理解し得ないもの、自分の価値感と経験から得られる言説によって埋め合わせしようとするわけだ。

 しかし、事件とはまさにそういったものを切り裂くもの、つまり不意に訪れるナイフである。知覚される現実は、いつだって感覚の錯誤と実際の現象の入り乱れたもの、不純で濁ったものであることしか出来ない。だからこそそこには私達の知識から逃れるものがあるわけだが、そんな主体から逃れる自分以外の自分、そこにこそ私達の舞台が存在する。私達のパーソナルな世界から逃れて、インパーソナルな世界に内在する、一つの異なった生が存在するのだ。

 事件に直面した時、私達はそういったインパーソナルなものの存在を知ることとなる。これまでに信じられていた現実が切り裂かれ、新しい現実が介入してくる。説明のつかないものが突きつけられる。映画を観る時、たとえその結末を知っていようとも、それを初めて観た後には、常に観る前には思いもしなかった、予想外の印象が私達を付き纏う。よって、映画を観るとは一つの事件だと言える。それは映画と私の間で起こる事件だ。読書するとは一つの事件である。誰かを愛するとは一つの事件である。何であれ、何かに出会い、何かに触れるということは、これまでの私達を切り裂き、別の自分を裂け目から溢れ出させる、ひとつの事件であり続ける。その時、私達は自分が今いる所から滑り落ち、信じられていた自己同一性から抜け出して、全く新しい、思いもよらなかった世界、別の可能性に満ちた世界を生きることになる。それが吉と出るか凶と出るかはわからない。ただ、それが生の必然なのである。だからこそ生とは一つの実験であり、賭け事であるわけだ。

 生とは一つの実験である……ヒュームも指摘している通り、私達とはこれまで自分が経験したものの集合体なわけだが、自分が何を経験したのか、それを私達は死ぬまで知ることが出来ない。何故なら経験とは何処までも感覚的なものであり、私達自身のものでありながら、絶えずこの手から滑り落ちるもの、不明瞭なもの、非人称な部分を含むものであり続けるからだ。

 そんな生を生きるとは、まさに一つの実験であらざるを得ない。自分を知ろうとすることは、自分自身をふるいにかける、一つの賭けであることしか出来ない。主体的に生きようということ、それは常に自分の主体から抜け出すもの、自分が感覚が把握し切れないものを把握しようとすることであり、信じられていた自分自身、そうであると思われていた自己同一性を進んで壊す、そんな賭けであらざるを得ないのだ。


 悲劇について考える時、人はよく次のことを見落としている。つまり、あらゆる英雄は陽気だということだ。悲劇的な思考の根本にあるのは、悲劇への肯定、その陽気さである。

 内省とはナルシズムの文化だ。ある程度の自己愛がなければ、人は自らを省みたりなどしない。

 新しいものは、いつだって既存のものの仮面を被ってしか現れない。自らが受け入れられ、生き残り、語り継がれるために、力は常に仮面を被るのである。というのも、自分を表すということは、たとえこちらにその気がなくとも、不特定の人間を傷つけることであるからだ。表現という行為は、それがどんなものであれ、加害としての側面を負わざるを得ない。加害されたものは、自らもまた加害することを願う(自分が、自分以外の存在のどちらかに)。新しい力は、自らを守るために、仮面を被らざるを得ないのだ。


 夏の夜にはラヴェルが似合う。夏が来ると、私はラヴェルが聴きたくなる……あの生あたたかい、官能的な湿り気、夏の夜のいじらしい匂い。それら私に、同じように艶めかしく、しかし何処かに陰鬱な悲しみが漂う、ラヴェルの音楽の切なさを思わせる。

 今私が聴いているのは、彼の遺作ヴァイオリンソナタだ。ラヴェル室内楽曲はどれも傑作揃いだが、その中でも弦楽四重奏曲ピアノ三重奏曲、そしてこの遺作ヴァイオリンソナタがとりわけ好きだ。静謐な響き、瞑想的で物憂げな音色。こちらを夏の夜の彼方に閉じ込めてしまうような、誘惑に満ちた音の戯れ……やがて水面に揺れる月光のような盛り上がりが訪れる。ああ、なんて美しい瞬間だろう。そのあまりに物悲しい響きに誘われて、私は何処でもない何処かを見つめる。まるでその先に終わらない夏の夜があるかのように。そして、そこに閉じ込めらる夢見心地に酔うのである。