20/07/11

 過去を振り返るには二つのやり方がある。一つは過去を過去形(過去そのもの)として振り返ることで、もう一つは過去を現在形で(現在の出来事として)考えることだ。

 私達の人生には、説明のつくことよりも、説明のつかないことの方が遥かに多い。しかし、それでは人は安心出来ない。素晴らしい人生とは、素晴らしい死に恵まれているということだ。過去を過去形で振り返るのは、これまでの人生が充実したもので、説明のつけられるものであると望んでいることを意味する。過去を望ましいものと思えないなら、死んでも死にきれないというものだ。

 しかし、過去を現在形で生きるとしたら、そうもいかない。現在とは常にまとまりのないもの、収集のつかないもの、説明できないものの集合体であるからだ。

 パスカルはまことに見事に物事の本質を見抜いていた。「習慣は第二の本性である、と言われる。では、なぜ本性もまた古き習慣ではないのだろうか?」とは、まさにその通りである。


 ヘッドホンで音楽を聴く習慣がついたのは、確か私が中学生の頃からである。以来、十年近く、私はヘッドホンと共に生活してきた。それにもやはり理由がある。両耳がヘッドホンで覆われていて、そこから音楽が流れ出す。すると、両耳から音に包まれていくかのような心地がして、安心する。この感覚はイヤホンでは決して味わえない。様々な音が、立体的な感覚を伴って、双方の違う箇所が溢れ出す。それが閉じた自分の両耳の中で行われる。精神の安らぎと静かな高揚、孤独とその喜び、または感動。自分しかいない水族館で、永遠に水槽を眺めているような気分。

 陶酔……私には表現の大袈裟なところがある。自己陶酔の表れだろう。そう、ヘッドホンのいい所は、自分の世界にこもれて、手軽に何かに包まれている安心感が得られることにある。だから自己陶酔も捗るというわけだ。

 先程、ラヴェル弦楽四重奏曲を聴いていた。それで改めて思ったのだが、それまでの夢見心地な微睡みを壊すかのような第四楽章の始まり方には、やはり素晴らしいものがある。不気味な、破裂するような音のぶつかり合いから始まり、性急な、しかし何処か第三楽章までの静謐さを残したような、混沌とした情熱に、思わず息を飲む。夜想的な第一楽章が始まった時に感じたものとは違う陶酔を感じる。そう、陶酔……私が音楽に第一に求めるもの。


 午前四時頃、夜が明けようとする時刻。私はベランダに立って、遠くの空が燃えているのを眺めていた。夜空が薄紫へと溶け始め、朝焼けが地平線の彼方で燃えていた。丁度その時、聴いていたブルックナー交響曲は緩徐楽章に突入した。瞑想的で、祈りを織り成すような楽想は、展開が高まるにつれて、何かが開けて、光出すような感覚を私に与えてくれた。それは向こうの夜空から朝焼けが訪れる感覚に似ていた。こうして二つの印象が重なり合うことで、私は不可思議な感動にとらわれていた。それは何かを悟るような感動であった。ブルックナーの音楽は不思議だ。改めてそう思った瞬間であった。


 孤独になると、独り言が増える。恐らく、私は人といる時と同じくらい(またはそれ以上に)、一人でいる時にも笑ったりしている。面白いことを思いついたり、夢想に耽ったりしていると、時々ついにやけてしまうことがある。街中でもそれは同様である。孤独に慣れると、ある程度人目を気にしなくなる。


 時に、人は悲しみを競争させる。不幸な人達の会話を見ると、よくよくどちらがより不幸かということで競い合っているのがわかる。しかし、自殺した人の悲しみと、戦死した人の悲しみは違う。同様に、たとえ同じ事柄であれ、人の悲しみはそれぞれ違うのであり、比べるのがそもそも間違っているのだ。悲しみとは現象であり、比較の出来る物質ではない。

 現代人はよく人との繋がりを強調する。しかし、私達に必要なのは、他者とのつながりよりもむしろ孤独であるように思われる。技術の進歩のおかげで、今や一秒あれば遠く離れた他者とも繋がることができる。この感覚は、実際の他者が遠くにいることを忘れさせ、まるでその人が今も尚すぐ近くにいるような錯覚を与える。しかし、それは間違いである。我々はそれぞれがそれぞれ、違う時間を生き、違う世界を生きている。孤独とは人間の本性であり、私達が他者に触れられるのは、お互いの孤独から手を伸ばしてのみである。

 が、テクノロジーの進歩のおかげで、呑気にも人はその事を忘れがちである。だからこそ一層強く孤独を感じる。寂しさとは、その場にあると思っていたものが実はその場になかったと気づくからこそ感じる。寂寥感は夢から覚めた後に訪れる。よって私達が認めるべきなのは、一つにはなれても、同じ存在には慣れないという、分裂的な人間の本性であり、その認識から出発することである。


 久しぶりに大きな本屋に出向いた。取り寄せた本を受け取るためだ。それで、その置いてある本の多さに驚いた。気になる本棚を眺めていると、こんな本もあるのか、あんな本もあるのか、という気づきを得て、また手を出したいものが増えてしまった。欲望は知識と共に生じる。欲望とは自分の知ったことの反映である。

 それで、沢山の本に囲まれながら、この中にどれほど多く自分の読んでいない本があるかを考えた。また、自分が一生かかってもこれらの本を読み切ることが出来ないということをも考えた。そして思わず、「人間ってすごい」という、あまりにも素朴で単純な、しかし決して否定出来ない感想を抱いた。


 二〇〇〇年にボノが死んでいれば、U2はきっと伝説のバンドになれた。U2の諸作品を聴いていると、時折そんな事を考える。

 レディオヘッドはその活動の中盤まで、U2からの影響を公言しているバンドの一つであった。恐らく彼らは、『Achtung Baby』から始まったU2電子音楽( = 非ロック)への接近を意識したことがあるに違いない。実際、ギターロックからその方へとアプローチするところを含め、共通点は多い。『Ok Computer』は『Achtung Baby』を、『Kid A』は『Pop』を意識していると考えられなくもない気がする。トム・ヨーク自身も同時期に、かつてボノがかけているような変なサングラスをつけていたことがあるし、ポップ・マート・ツアーの頃のボノのような、坊主よりもやや髪が伸びた(芋臭いとも言える)髪型にしていたこともある。

 違いといえば、レディオヘッドが徹底してスター性を排除しようとしたにも関わらず、U2(もといボノ)は結局どこまでいってもスターであり、俳優であった、ということにあるだろう。そして、それがこの二つのバンドの決定的な差異を成しているのである。『Achtung Baby』はナイーブで、『Zooropa』は不気味で、『Pop』は退廃的である。しかし、それらはどれも過剰さが付きまとい、歌詞の内容も大袈裟なまでに暗い (ロマンチックなものの大半は大袈裟である。ロマンチストは皆、常に何かを演じるように振る舞う)。

 だからボノは何処までいってもロック・スターであることしか出来ない。対してトム・ヨークは、どれだけ影響力を有する存在になろうとも、決してロック・スターになることが出来ない。もとい、きっと本人も意図的にスターであるのを拒んでいるに違いない。U2が好きでもレディオヘッドが好きになれない(またはレディオヘッドが好きでU2が好きになれない)人がいるのは、だから容易に理解出来る。不幸な人間は、自分の不幸を誇張して捉えるか、または自分の不幸(そして他人の不幸)に対して冷笑的になる。どちらがそうであるとは言わないが、私には、ボノが前者に見えて、トム・ヨークが後者に見える。

 しかし、ボノの書く歌詞にはやはり素晴らしいものがある。『Please』のような歌詞を、一体どうやって思いついたのだろう。So love is hard /And love is tough / But love is not /What you're thinking of (愛は困難で / 愛は厳しい /ただ、愛はお前が考えているようなものじゃない)とは、名文句としか言いようがない。