20/07/16

 気流と気流がぶつかり合うことで、また新しい風の流れが生じる。このように、この世界の根底にあるのは、力と力とのぶつかり合いであり、力の、力との関係である。

 あらゆる力は、他の力との比較、差異の中にしか存在しない。よって、一つの力とは、常に自己同一性(特定の自己)を持たないものとして存在している。そしてこの一つの力もまた、自分の内側にある様々な力の複合体として存在している(丁度風の流れが様々な空気を包み込んで流れているように)。よって、力とは本質的に複数であり、多数化する存在である。

 この流動的にして不定形な力のざわめき、それが他の無数の力とぶつかり合い、関係し合うことによって、この世界は成り立っている。それは、あらゆる人間社会にしても同様のことだ。

 さて、資本主義社会とは、そのシステムの根底からして人間の不平等を前提としている。人間というものは、本性上にそれぞれが差異を抱えた存在であり、いくら社会的な条件が整えられようとも、そこには、ある観点から見れば持つものと、ある観点から見れば持たざるものが存在せざるを得ないように出来ている。よって資本主義の成立と発展は必然だと言える。だから資本主義の不平等性それ自体は問題でない。問題なのは、資本主義がある種のファシズムに基づかなければ成り立たないということにある。

 資本主義経済の発展は、無数の人々を同一のレールに従属させなければ成立し得ない。しかし、前述の通り、この世界のあらゆるものは力と力のぶつかり合いである。一人の人間の在り方とは、常にその人の持つ力の表出である。そして、力とは別の力との比較、関係の中でしか存在しえない。存在するということは、常に他者との差異を産出するという事でもある。よって人間とは、常にそれぞれが根底に差異とマイノリティ性を抱えている、とも言えるだろう。資本主義はそれらを押し潰した上でしか成り立たない。現代社会とは、その始まりからして既に問題を抱えている。だからそれは未来において解決されなければならない。

 時に、一般的な道徳的価値観は、常に徹底されれば崩壊するように出来ている。と言うのも、道徳的価値観の提示する一般性は(丁度国民的アニメに見られる家族を現実に探しても見つからないように)本質的に存在しないからだ。何より、モデルに自分を当てはめようとすることは、自分とモデルとの間にある差異を押し潰すことに繋がる。よって、一般道徳を体現する人間とは、常に道徳を演じる人間であることしか出来ない。何故なら道徳のモデルに自らを当てはめることは、それ自体不条理であり、一種の自己欺瞞であるから。

 これに無理が生じるのは当然である。一般道徳の徹底は、常にその価値観が水漏れを起こすことに繋がる。もし真に一般道徳を体現して生きている人物がいるとすれば、それはそもそも道徳的であることを意識していない人のことである。ヴァレリーは書いた、「天才は他人事である」と。もしその個性がその人の本質に基づくものであるならば、それはその人にとって当たり前であるから、他人事であることしか出来ないのだ。

 さて、話が少し逸れたが、本筋に戻ることにしよう。こうして書くのは三度目であるが、人間社会とは、常に異なった力と力が関係し合うことによって成立する。その存在からして、互いに差異を抱えているものが、一つの方向に統合されたとすれば、そこに問題が起こり、全体から水漏れが起こるのは当然である。だから道徳的価値観において見られたことが、資本主義においても見られるようになるのは、容易に想像出来る。あらゆる一般性は、徹底すればボロが出るように出来ているのだ(そして実際、資本主義はその始まりから今日に至るまで、数え切れないほどの問題を引き起こしてきた。国際的にも、またはもっと小さな世界においてもそうだ)。

 多様性の主張は、この資本主義=ファシズムから起きた水漏れの一つだと言っていい。人間社会とは力の、力との関係であるわけだが、それは本性的に差異を抱えるそれぞれの存在が、一定の場所に固定し得ないということでもある。多様性、それは同じレールに回収し切れないもの達の主張でなければならない。多様性の発展は信じられていた既存の一般性の崩壊を意味する。既存の価値観の崩壊は、その価値観の転覆に繋がる。そして、価値観の転覆は、それによる価値転換へと繋がるのである。よって、多様性の主張が実現されるためには、全体の崩壊、一般社会 = 大多数の解体が引き起こされなければならない。資本主義を徹底した先にあるのは、資本主義の解体なのだ。

 古代ギリシアにおいては、ポリスという小さな共同体が、それぞれ独立し、自分たちのルールを守りながら、他のポリス(共同体)と関係し合うことで成立し合っていた。思うに、資本主義が解体した先に向かうべきであるものも、これに近いものであるように思われる。それぞれのマイノリティが、互いの仲間と団結し合い、独立し、他のマイノリティと対立しながらも関係し合うことで、小さな共同体が無数に繋がり合う一つの大きなネットワークを築く。もし流動的であり、生成し、変化し続けることが人間の本質であるとするならば、私達にはある種の緊張が、闘争にも似た厳しい緊張が生じることが必然的なものであり続ける。問題は、それを大規模な戦争で解消するのではなく、別の方向で解消することだ。つまり、大多数が分解され、分裂し、より根源的な力と力の関係が実現され、それぞれが闘争としての生を生きるのならば、それに越したことはないのである。


 孤独を感じたい、と思うことがある。心を鎮めて、いらないものを胸の内から洗い落としたいとも、冷静になりたいとも言うことが出来るだろう。深夜に一人、部屋で何もせず、ただぼんやりと手を組んで、向かいの壁を見つめながら過ごす時間。疲れた時には、よくそんな風に時間を過ごす。ふと、確かこんな場面が、『悪霊』の何処かにあったのを思い出す。スダヴローギンが一人、部屋で何もせずにじっとしている。あの時の彼は、こんな感覚を抱いていたのだろうか。

 しかし、自分は何故こうも心を虚しくしたいのだろう?もうずっと前から、それこそ数年前から、私にはこういった習慣がある。そう、それは恐らく、自分を守るため、自我を保つため、沈むように考える時間が欲しいからなのかもしれない。

 私の部屋には物が少ない。以前よりかは増えたが、それでもやはり少ない。生活用品と言えばベッドとトイレットペーパーくらいだ。あまり生活感がない部屋だとも言える。そして、そんな自分の部屋に微かな誇りを抱いている。部屋に何も無いおかげで、いらない欲望を覚えることがない。読書をするか、物書きをするか、音楽に触れるか、マスターベーションに耽るか。する事といえばそれくらいである。強いて言うなら、他にトレーニングと映画鑑賞もするかもしれない。

 禁欲的な人間とは、自らの禁欲的な生き方に誇りと満足を覚えるからこそ禁欲的であろうとする。私にしても、物がない生活を送ろうとする理由は、低次の快楽を抑制することで、高次の快楽を得たいと願っているからだ。ジッドが『背徳者』の中で、メナルクに「節制の方が更に強い陶酔だ」と語らせていたが、それはまさにその通りだ。生を高める禁欲というものがある。縛られ、制約されることによって、力強くなる欲望というものがある。しかし、私にはまだ欲が足りない……


 フォーレの音楽が聴きたくなるのは、夏の夜か、秋の夕暮れか、そのどちらかである。内省的で、憂鬱な、一日の終わりのような音楽である。今、私は彼のピアノ曲全集(ジャン=フィリップ・コラールが演奏したもの)をシャッフル再生しながら聴いている。夜想曲三番から舟歌六番へ、舟歌六番から即興曲二番へ。やや邪道な聴き方かもしれないが、おかげで面白い時間を過ごすことが出来ている。永遠に続く日暮れと黎明の間をさまよっているかのような気分になる。

 それから私は、バーンスタインが後年に指揮した、マーラーの九番の第四楽章を再生する。マーラー……マーラーの音楽を聴いている時だけ、自分が人生の主人公であるような気がしてくる。

 自分自身に後ろめたさを感じることのない人間になりたい。そうすれば、今よりもずっと多くのことが出来るのに。最近はそう思うことが多い。今もまた、そんな事を考えている。ここ数日、何かを書こうと思っても、上手く物が書けないことが多い。それは恐らく、ずっと自分が、何かもっと大事なことを避けながら生きているからだ。それが何であるのか、それについては、あえて書きたいとは思わないが。