20/07/18-19

 私達には始まりもなければ終わりもない。それは丁度、生まれた意味がはじめから与えられたものではなく、むしろ後から見出されるのと同様である。私達の「始まり」は、私達が生きていく過程で、後から見出される。見出されるもの、それは発明されたものでもある。人は真実を発見するのではなく、むしろ真実を発明するのである。

  想像力の問題。虚構に魅せられれば、人は虚構を演じる。そして、その演じる人に影響を受け、また新たな虚構が発生する。このように、人間の本性とは、理性でもなければ性欲でもなく、想像力である。私達は現実によって変えられると同時に、想像力によって現実を転覆するのだ。

 人は知らないものに直面した時、程度の差はあれ、次のような態度を取らざるを得ない。つまり、自分の知らないものを、自分の知っているもので埋め合わせようとするのである。人は常に経験に基づいて憶測するが、同時に経験を飛び越えながら思考を重ねる。経験とは、常に経験それ自体を超越するものなのである。

 過剰。生きることには常に過剰が付きまとう。それは生きる現在においても同様だ。私には今、経験しながらも、経験しきれないものが存在している。例えば昨日、私は十ページ程度の短い論文を読んだが、それは強い感銘を与えてくれた。しかし、同時にそこには、今の自分にはまだ上手く把握し切れていないものがある。わかるのだがわからない、見えるのだが上手く見えない。これまでも、そしてこれからも、我々はそれらの過剰を後から回収する事によって生きている。昨日読んだ論文について、私はそれを読み切れたが、完全に読めたとは言えなかった。そして、これまでと同様に、私はその理解を後から回収していくのである。

 余白。この現象は余白とも言い換えることが出来るのではないか。生きることが出来ない経験の過剰とは、同時に今は生きられない世界の余白である。それは自分という感覚を通して知覚されながらも、まだはっきりと経験されることのないもの、「私」から滑り落ちる非人称な生、自分自身に属さない自分のことである。そして、生きている限り、それは無限に産出される。何故なら経験とは常に過剰なものであり、どの瞬間にも私達には把握しきれない世界の余白があるから。そして私達は、それを常に遅れて生きるのだ。

 死の両儀性。死とは常に、私達がやがて体験するものであるが、しかしそれは、同時に体験し得ないものでもある。何故なら、死に直面する際、私達の意識は既に無いため、死を認識することなど出来ないからだ。よって、死とは内在するものではなく、外在するものだとも言える。我々は自分の終わりを認識出来ない。それは、我々が自分の始まりを認識出来ないのと同様だ。我々は自分の意識がいつ始まったのかを知らない。同様にして、我々は自分の意識がいつ終わるのかを知らないのである。

 よって、もしそこに始まりがあるのだとすれば、それは再び始めるという事である。元々あった生の流れの中で、改めて「始まり」を見出すということであり、持続する過程の中に「始まり」を発明するということ、創造するということだ。

 私達が今生きているこの世界は、常に比較の対象がないもの、唯一なものである。「一度だけ起こるとは、一度も起こらなかったようなものだ」とは、正にそのとおりである。一つの存在は常に同じものとの比較によって推し量ることが出来る。一つしかないものとは、他と比較が出来ない故に、存在を確かに把握することが出来ない。それは常に偶発的なものであり続ける。よって、この世界とは、想像力で補われるしかない問題である。偶然なものとは、いつだって想像力を掻き立てるのだ。

 だからこそ私達はこの世界に様々な解釈を与える。この世界とは一つの偶然である。そして、想像の余地があるということは、それだけ解釈の幅があるということだ。解釈とは一つの発明である。私達はこの世界を解釈する時、この世界に対して一つの発明を起こしているのだ。

 時に、人は自分の共感できない不幸に対して、羨望か軽蔑のどちらかを寄せる。共感できないものとは、常に自分の経験に基づいて考えることの出来ないものである。そしてこの時、人が他者の不幸に対して求められる態度とは、自分の知りえないものに対して敬虔になるということである。

 私達は常に、何らかの構成関係に恵まれている。肉体的に言えば筋肉や骨、脳などがそれであり、精神的にいえば、これまで経験してきた感覚の結晶が私達自身であるわけだ。そして、これまでに経験しながらも経験しきれなかったものを再び生きているとするなれば、決して経験し得ない死、構成関係の外にあり続ける死とは、私達にとって存在しつつも存在していないものだと言える。その反対に、私達が生きることが出来るのは、いつだって他人の死だ。言い換えるならば、死を経験し得ない我々は、それを見た、聞いた、知った人達に自分の死の印象を与えることとなる。よって、死は終わりではない。死はただ、これまでの私達の構成関係を破壊して、別の構成関係へと私達を至らせる、ただそれだけの話である。

 今この場にある私の肉体は、遡れば母の胎内に戻り、母の卵子に戻り、または父の精子に戻り、さらには父の肉体に戻る。父にしても、また母にしても、この流れは同様である。それを踏まえるならば、私達のその存在は常に一つの流れの中にあり、決して独立したものだとは言えないかもしれない。しかし、それで「全ての人は繋がっている」と済ませるのはあまりにも楽天的だ。何故なら、それぞれの人の意識は分離し、独立しており、私達は常に孤独を感じながら生きざるを得ないからだ。孤独は人間の変わらざる真実である。私達は、一つの生の流れの中に居ながら、常に全体からの疎外の先で自分を見出す生き物だ。

 よって、私達には始まりもなければ終わりもない。私達はいつだって、自らの意識によって自分というものを見出し、他と区別し、自と他の差異を認識することによって、私達自身の「始まり」を見出すのである。始まりとは、常に二度あることなのだ。


 人は皆、それぞれがそれぞれ、違った形で大人になれていない。ただ、それが目に見えるか見えないかの違いがあるだけだ。

 私にしてもそうだ。時折、(お世辞か本音かはさておき) 歳の割に落ち着いているとか、大人びているという意見をいただく。ありがたい話だ。しかし、それはただ、自分の子供っぽいところを好んで人目に晒そうとしていないだけのことである (実際、ある人から見れば私はとても子供っぽく映るのだろう)。で、私は見栄っ張りだから、自分のそういった所を努めて人目に晒そうとしいない。もとい、大抵の大人はそうなのだろう。誰もが大人の振りをしているだけで、大抵は大人になりきれていない。ただ何処が子供のままなのか、それが人によって違うだけだ。

 プライベートな思索家。ニーチェドゥルーズのことを考える時、そのような形容が思い浮かぶ。私自身、プライベートな人間であるのを好むが、それもそのためなのかもしれない。

 私は日記を公開する。日記は常に自分のために書かれるものだ。しかし、もしそれが人に読まれることを前提とするなれば、多かれ少なかれ、それは人目を意識することになる。結果として、人に読まれるものとして、自分の文章をまとめる訳だが、おかげで自分の心情を言語化することがこの日記を書き始める前よりかは上手くなった気がする。

 が、そんな事はどうでもいい。とにかく、一見するなれば、私はここで赤裸々に物事を語っているように見える。しかし、実際はそんなことはない。語られたものよりも、語られていないものの中の方に、いつだって真実は隠されている。私は人目を気にしてこれを書いている。だから、赤裸々に書けないことがあるのは当たり前だ。結局、どんな正直者も、意識的であれ無意識的であれ、何らかの秘密を抱えているのである。正直者、それはいつだって無意識的な嘘つきだ。とはいっても、私は自分が正直者だと言うつもりはないが。

 さて、もし優れた知力が何かを発明するものだとすれば、知力とはまさに何かをでっちあげる能力の事を指す。言い換えるならば、知的であるとは、それだけ上品に、巧みな嘘をつくということである。人間の本性は、理性でも性欲でもなく、想像力である。どれだけ見事な虚構を発明するか、それがその人がどれだけ優れているかを証明することとなる。

 で、話を本筋に戻すが、前述の通り、私はプライベートなものを好む人間だ。言い換えるならば、自分自身がプライベートであることを好む。沈黙で覆われ、秘密に隠されていた方が、物事はいつだって魅力的だ。もとい、何らかの秘密を持つこと、沈黙する時間を持つこと、それこそが生を豊かに保つ秘訣だと思われる。昼が訪れるためには、夜を待たなければならない。

 暗闇……今私は、狭い部屋の中でひとり、暗闇の中にいる。暗闇はいい。暗闇は永遠を感じさせる。永遠、それは無限に続くもの、変わらずに、際限なく広がるものである。しかし、ドラマとは常に変化の中で生じる。よって、言い換えるなれば、永遠とは虚無なのである。永遠を感じたいなれば、暗闇の中に身を置けばいい。すると、次第に闇の中に自分が溶けていくような心地がする。それがどうしようもなく快い。私は今、暗闇の中で一人、孤独を感じている。これは自分を癒すための時間だ……


 フォーレの繊細で、触れれば壊れてしまいそうなまでに脆く、儚げな和声。彼独特のあの美しさは、一体何処から来ているのだろう。時に華麗であり、また可憐である。しかし時には不穏なものがあり、陰鬱さが一帯を占めている。そして、それら全てが一つの曲の中に詰まっている。恐るべき事だ。彼の音楽の美しさは、あの内省的でうつむきがちな旋律にもあるだろうが、しかしアルペジオの細密な戯れにもあると思われる。ショパン、リスト、メンデルスゾーン。それに後期ブラームスピアノ曲にも似た所もあるかもしれない。が、彼の音楽の魅力は、やはり何処までも彼自身のものであり、彼独特のものであり、そこにはどんな作曲家にも(ドビュッシーラヴェルにさえも)含まれていない差異が存在している。その自然で、しかも独創的な差異化プログラム。フォーレの音楽に感動する度に、私達はその中に彼の天才を見出すこととなる。

 毎年、何かの節に、ふとフォーレの音楽が聴きたくなる。それまでは存在さえも忘れていることだってあるのに、ある日突然フォーレのことを思い出して、毎日一定の時間を、彼の音楽に割くようになる。初期から一貫して、まるで遺言状のような忘却と追憶に満ちた音楽を書いたフォーレ。彼の音楽を聴く度に、私は孤独と内省に捉えられる。そしてぼんやり、今日までのことを思い浮かべながら、今目の前に広がる景色を見つめるのである。ああ、あれは元気にしているだろうか、とか。また夏がやってくるな、とか。そんな事を考えながら。