20/07/21-22

 暗い部屋。鍵のかかった個室。狭く、誰もいなければ、窓もない。殆ど完全に外界から切り離された場所。最近のネットカフェは、そんな環境を私達に提供してくれる。そして、それは私が今、この文章を書いている場所のことでもある。

 時折、意味もないのに、ネットカフェに泊まりに行く。いや、意味ならあるかもしれない。この心地よい閉所を求めて、私はネットカフェを利用する。自室だけでは足りない。隣の部屋の住人の生活音や、俗世の物音、カーテンの隙間から零れる日差し、普段の自分の生活の匂い。それら全てが私をかき乱す。より快適なしじまを手に入れるためには、他の場所に逃れる他ない。

 孤独が私の頭を冴えさせてくれる。余計な感傷(そして感情)を取り除いて、私の頭脳を強くしてくれる。私が今日までに発見した全てのものは、どれも孤独の中で見つけたものである。他から受けた影響、触発は数え切れないほど存在する。しかし、それを再び認識し、言語化するためには、一度他者の世界から孤独の世界へと赴く必要がある。あらゆる発見は、再び見出されることで、初めて明確な形を持つこととなる。孤独、私の変わらぬ唯一の故郷。世俗の喧騒(本当にうるさくて仕方ない喧騒)から逃れ、自分がこの世界から隔離され、分離され、分断されていることを感じたいという欲求。

 そして今、私はそれを満たすために、ネットカフェにいる。


 例えば今日、空が晴れているとして、その一点の曇りもない空模様から、きっと明日も晴れるだろうと想像する人もいるだろう。または、誰か親しい友人の写真を見て、写真に映るその人のことを想起したり、さらにはそれと共通で親しい別の友人のことを思い出したりもするだろう。この時、私達は、与えられた一つの印象から、さらに別の印象、その場にはないもの、与えられていない情報までもを思い浮かべる。

 印象と関連の問題。一つの印象は別の印象を想起させるが、これは経験するという事が、それ自体には含まれないものに対してまで反映するということでもある。我々は常に、経験する度に、経験した内容を超越して、経験していないことまでをも考えるのである。

 が、当たり前であるが、今日が晴れだからと言って明日も晴れるとは限らない。言い換えるならば、今日の晴れが原因となって明日が晴れるかは立証できない。これによって次のことに言える。つまり、人はそれぞれ異なった現象に、理由と帰結を与えることで、それら独立したものを関連させているのである。

 この印象と関連性の裏の大半には、潜在的な感情とも言うべきもの、情念がひそんでいる。人は利己的というよりかはむしろ偏見的である。自分でも上手く立証することの出来ないものを信じ、それを価値観の根底に据えて、どう足掻いても証明できないそれの絶対性に基づきながら物事を考えている。これが印象と別の印象との関連を形作る。被害妄想の強いひとなれば、ある人のとった別々の動作を一つの関連の下に結びつけて、それらが非常に恐ろしい事の現れだと考えようとする。誇大妄想の強いひとなれば、同じような場合に直面した時、それらを自分にとって素晴らしいことの前触れだと考えられるような関連を、二つのそれぞれ異なった出来事の間にでっちあげる(そして被害妄想の激しい人と誇大妄想的な人、これらは表裏一体の関係にあるわけだが)。

 無論、私達自身は、何処まで行っても感覚的な経験の結晶体であるから、「真に正しい認識」なんていうものには至ることが出来ない。ただ、今よりもましな状態に至る、それならいつだって可能な話だ。もし現状の問題が解けないならば、それは問題の解き方が悪いのではなく、むしろ問題の設定の仕方が悪いのである。答えを出しているのに、いつまでも同じ問いを繰り返している。で、同じところを行ったり来たりするのから抜け出せない 。ならば、同じ問題を解こうとするよりも、むしろ問題設定の仕方を変えてしまえばいい。

 一つの仮説から別の仮説へと移るということ。それで大体の問題は解決の道に繋がる。というのも、思弁的なレベルで言えば、問題は答えが出ることを前提にして存在しているからだ。

 これらの事から、次のことが言える。私達は、今ある虚構を、別の虚構で転覆させるということが必要なのだ、と。

 人間本性は数々の印象とそれを関連付ける情念によって成り立っている。それは一つの虚構とも言うべきもので、明確な形を持たずに存在し続ける。たとえば、悲劇を観た時に、人は悲しみの中に無限の喜びを見出す。それは、虚構が私達の想像力に訴えかけて、想像力がそもそも私達に何の関係もない劇中の人物と私達自身を結びつけ、その間に一つの共感が成り立つからである。そして作品は、自分に似た悲しみを、自分が憧れるような形で昇華してくれる。だから人は悲劇を好むわけだが、この時、悲劇は私達の内にあった情念( = 偏見、潜在的な感情)を転覆させていると言える。印象と情念は形がなく、まとまりがない。だからこそ拡張し、拡大し、より異なった形へと変化させることが可能なのだ。私達の内側にある経験と偏見の塊、その虚構とも言うべき建築物は、別の虚構、つまり新しい印象をそこに反映させることによって、転覆し、転換することが出来る。そこには一つの価値転換が含まれているわけだ。


 フーコーはかつては「人間の死」を予言した。砂浜に書かれた文字のように、やがて「人間」という文字も消え去るだろう、と。これもあってか、時にフーコーは反ヒューマニストと見なされる。しかし、もし真面目に物事を見るなれば、既存の人間の価値観が死につつあるということは明らかである。「人間の死」、それはニーチェの言う超人に近い。人間から非=人間へ。ヒューマニズムの徹底の先にあるのは、ヒューマニズムの超越である。

 無名なものへの問い。新しい発見とは、いつだって歴史が見落としてきたものを再び見出すことによって成り立つ。それは無名なものへの問いである。名前を持たぬもの、名前を与えられなかったものの中にこそ、まだ見ぬ可能性が眠っている。何故ならそれは主体に回収されなかったものであるから。主体に回収されていないものとは、まだ主体が生きられていない世界のことでもある。私達は、かつて回収出来なかった世界の可能性を、後から回収することで生き長らえているのではないか。

 それはまさに非=人間的な世界線である。「人間の死」とは、新しい人間へと至るというよりかは、むしろこれまでに回収し切れなかった世界線を回収するということでもある。事実、今の我々の価値観は既に崩壊しつつある。まさに「人間」が死につつあるわけだ。やがて失われるものとは、既に失われつつあるもののことなのである。


 時折、哲学に意味があるのかという問いが発せられることがある。これは哲学への悪意のこもった質問だと捉えるべきだ。が、私はそもそも哲学者ではないので、そんなものを真面目に捉える必要もなければ、それに答える義理もない。が、もしそれでも答える権利があるのだとすれば、どうしようか。こんな風な言葉でも並べてみよう。

 自然科学が私達に与えてくれるのは、ある一定の世界への推理や結論である。それは固定したものであり、不動なもの、形のあるものだ。しかし、哲学とはまさに不定形なもの、流動するもの、場所の定まらないものへの問いなのである。そう、それは実存への問いだ。自然科学には自然科学の領域がある。それが無用であるとは決して有り得ないし、哲学と敵対させることも間違っている。ただ、哲学には哲学の領域がある。それだけの話だ。「問うべきは、何故まだ哲学があるのかであり、どの点で科学では不足なのかである」ということである。

 または、こうとも言えるかもしれない。「哲学は悲しませるのに役立つ。誰も悲しませず、誰も妨げない哲学など、哲学ではない。哲学は愚劣を防ぐのに役立ち、愚劣をある恥ずべきものにする。それは、思考の下劣さをそのあらゆる形態のもとで告発する以外の使用をもたない。その源泉と目的がいかなるものであれ、あらゆる欺瞞を批判しようとする学問が、哲学以外にあるだろうか」と。つまり、そういう事だ。


 結局、何を語るにしても、人はそれを通して自分を語ることとなる。

 生きる意味が欲しい。これからの自分についてを考えて、途方に暮れることがある。何をすればいいのか、何をするべきなのか。今の私には、それがまるでわからない。自分の未来が見えないのである。

 何か頑張るための理由が欲しい。そうでもないと、やっていけない気がする。何かをしたいとは思っている。少なくとも、そのつもりではある。でも本心を言えば、体面の問題からそうしたいと思っているだけで、本当は何もしたくないのだろうと思われる。何かしたいというよりも、何かしなければならない。そういった焦りの方が遥かに強い。でもしない。何もしたくないからだ。しても何になるという気持ちばかり湧いてくる。

 こうして日々が無為に、無作為に通り過ぎていく。それが益々私を恐ろしい気持ちにさせる。だからといって、結局何もしない。まるで何かを諦めたかのようにうなだれている。何を諦めたのか?それは未来というよりかは、楽しみが見いだせないということに対して。いや、正確に言うなれば、楽しみは見いだせている。読書なり、音楽なり、人との交わりなり、何であれ、私はいくらでも日々に楽しみを見出しているではないか。しかし、何かがいつも欠けている。あと少しで、もう一歩で、私はここから抜け出せる気がする。しかし、そのあと一歩がいつも、どうしても足りない。

 何か自分の背中を押してくれる存在が、生きる意味が欲しい。そう痛切するのは、そんな時のことである。