20/07/24-25

 私達はそれぞれがそれぞれ、自分の生きるべき場所を探している。若い内は特にそうだ。自分の生き場所を探し、時には既にそれを見つけているかのように振る舞う。しかし、本当に自分の行き場を見出している人間は極小数で、大抵はそうであるかのように見せかけているに過ぎない。そういった人は、結局いつまでもかつての自分の影から抜け出せない。こうして生涯を費やしていく。やがてある日、突然自分自身にまつわる事実を突きつけられる時が来る。で、途方に暮れるのである。

 俺は一体これからどうすればいいのだろう。一人でいる時、そんな漠然とした、しかし途方もなく大きい問題を思い浮かべて、ため息をつく。私は遠くを見る。気を逸らすくらいしか、今の私にはやることがない。


 ジル・ドゥルーズロマン・ロラン。最近はもっぱらその二人ばかりを読んでいる。特にドゥルーズは、これまで読んできた著述家の中でも特に難解な部類に入るので、読むのに骨が折れる。が、困難なものの中にこそ、私達を惹き付けてやまないものがある。彼の本を色々読み漁っている内に、その思想を理解するために必要なのは、ニーチェスピノザよりかは、むしろベルクソンとヒュームであるという事に気がついた。実際、彼のニーチェ理解など、ベルクソンを経由しなければ決して成り立たないように思われる。

  かつて、彼は『ディアローグ』の中で次のように語ったことがある。自分が好む哲学者はルクレティウススピノザ、ヒューム、ベルクソンニーチェで、(スピノザニーチェを除いて) 彼らには何の繋がりがないように思われるが、自分としては何か一貫したものがあるように思われる、と。で、実際に彼のベルクソン論やヒューム論を読んでみると、なるほど彼の言いたいことが分かってくる。まるでパズルが組み合わさっていくかのように、彼の思想の骨格が浮き彫りになっていく。秘密が紐解かれて、徐々に覆われていたものが明らかになる。それは星座を見つける感覚にも近い。星の一つ一つをすくい上げて、それを在るべき夜空へと返していく。すると、一つの星座が天体の中で浮かび上がっていく。私は探偵のように、または天文学者のように、彼の本を読み、その一つ一つの欠片を拾い集める。その先にある全体像を見出そうとする。なんて美しい読書体験だろう。

 こうして何かの作業に没頭している時が、一番生きている心地がする。何かに熱中している時、それは他のことを考えなくてもいい時間のことでもある。問題を解くことの素晴らしさはそこにある。埋もれていて、上手く見えなかったものが明瞭になっていく。その単純で美しい過程が、ただひたすらに楽しいのである。


 肉体的な接触は、頭で考えるよりもずっと直接的な訴え掛けを持つ。それは丁度、悲しげな音楽を聴いて「この音楽を書いた人は、きっと悲しみながらこれを書いたんだ」と信じ込むのに似ている。人は理性や感情よりも、むしろ想像力で生きるものである。人の抱える根源的な寂寥を手っ取り早く埋める方法、それは恐らく、何も考えなくなることであり、何も考えずに誰かと交わろうとすることである。

 私にはそういった経験がない。がしかし、そういった事をする人の気持ちがわからないでもない。肉体的な接触は、頭で考えるよりもずっと直接的に、「自分は一人じゃない」という錯覚を与えてくれる。余計なことを考えずに、直接的な信頼を与えてくれる。この欺瞞にも似た作用を求めて、人は肉体的な接触を求めているのではないか。

 恐らく、私は人よりも肉体的なものを嫌悪しているのだろう。そのつもりはないが、潜在的に肉体を嫌悪してしている。が、そんな事はどうでもいい話だ。

 ドストエフスキーが小説の中で書いていた。「自分は恋人に対して、暴君のように振る舞うか、奴隷のようにひざまずくことしかできなち出来ない 」と(もっとも、これはマゾッホも書いていたことかもしれないが)。奇を衒った言い方をするなれば、恋愛は一つの権力闘争だ。そこでは一方が支配する側となり、他方が支配される側となる。それはどんな恋愛の場合でも必ず起こる。二者の平和は、この主従関係に基づかなければ成り立たない。もし対等な関係が成り立つ時があるとすれば、それは二者が対等に対立し合っている時のみである。

 もとい、だからこそ人は恋愛を求めるとさえ言っていい。それは、恋愛における争いが刺激を産むだけではない。人は皆、自分だけの所有物を見つけるか、自分だけを所有してくれるものを見つけるかによって、自分の生き場所を見出そうとする。とりわけ若い間、多くの人は不安定な自己に苛まれ、それとは対照的に確固とした自己を持つ存在に憧れることが多い。よって、男女を問わず、若者の多くが求めているのは、自由というよりかは服従である。自由は我の強さが求めるものであるが、服従は我の弱さが自らを満たすために求めるものだ。服従の本質は、服従することによって相手の行動の制約し、支配することにある。刺激と安息、この相反するはずの二つを求めて、人は恋愛をしようとする。


 知識は得るというよりかは、むしろ深めるものである。情報過多な現代は、同時に情報が容易になった時代でもある。今ならネット検索をかければすぐに情報が手に入る。何かを知ることが容易になった現代は、同時に何かを知ることの価値が下がった時代でもある。今の私達には、どれだけ知識を持つかではなく、いかに知識を使うかが求められている。

 エスプリ。数学の公式を暗記したからと言って、必ずしもその公式に当てはまる問題が解けるわけではない。数学の問題を解くためには、覚えた公式をいかに用いるかが肝心となってくる。それに必要なのは知性の閃きであり、頭脳の美しい回転であり、つまりはエスプリである。答えとは所有するというよりも、むしろ編み出すものなのだ。

 

 歌詞のある曲において、なるほど詩の内容は大切である。が、それが全てではない。実際、歌の流れで聞けば感動的であるが、文章だけを読むと実に平凡である、なんてものはいくらでもある。これはつまり、音楽が効果的に働くなれば、どんな文才のない人間でも文豪になれる、ということでもある。歌詞に深い意味を持たせるのは、作者による言葉選びよりも、むしろ歌手の歌い方と、それに合わさる演奏の効果である。音と音が上手く作用するなれば、どんな言葉も劇的な意味合いを持つようになる。

 U2の『One』には Have you come here for forgiveness? / Have you come to raise the dead?(お前は贖罪を求めてここに来たのか / 死人を甦らせるためにここに来たのか) という歌詞が登場する。そしてボノがそれを歌う前から、ある哀愁漂うキーボードの音色(ブライアン・イーノが弾いたもの)が鳴り始める。それは決して派手ではないが、しかし楽曲に深みを与えてくれるものである。そして、ボノの歌詞はそれ自体よさはあるが、このキーボードの音色によってそれ以上に価値のあるもののように思えてくる。そう、ここでは相乗効果が働いているのだ。

 『One』自体、決して複雑でもなければ劇的でもない。コード進行は至って単純であり、演奏も非常にシンプルで、ミニマルなものである。にも関わらず、『One』がU2の全楽曲の中でもとりわけ美しいものになっているのは、その音楽の広がり方にある。ボノの歌声が盛り上がりと共に、憂愁なキーボードの美しい音色が広がってゆき、単純な骨格で作られているこの楽曲が、非常にドラマチックなもののように思えてくる。And I can't be holding on to what you got / When all you got is hurt (俺には耐えられない、何故ならお前の得たものは / どれも苦しみばかりだからだ) と歌う頃には、静かに、淡い広がりを持っていたキーボードが、非常に勇壮なものへと変化している。これは恐ろしいことだ。何の複雑さもないこの曲が、恐るべき深みを持ったもののように思えてくる。この幻惑の仕方にこそ、音楽の偉大さが、その恐ろしさがある。だから私は音楽を愛してやまないわけだが。


 昨晩、私はサウナに向かった。それで、サウナで限界まで身体を熱した後に冷水を浴びるのがあまりにも気持ちよくて(本当に気持ちよかった)、それを何度も繰り返してしまった。が、九〇分制だったため、あまり長居は出来なかった。もとい、それでよかったのかもしれない。家に帰る頃には十二時を過ぎていた。私は部屋に着くとすぐベッドに横たわった。サウナは素晴らしかったが、普段は感じ得ないまでの疲労を私に与えた。ベッドに横たわると、 私は十五時間ほど眠り続けた。

 こうしてこのまま日々が過ぎていくことに不安がある。もっと生きることにこだわりを持ちたい。しかし、本心をいえば、今の私には、自分が何のために生きればいいのかがわからない。ロマン・ロランも書いていたが、一番よいことは、ただ生きるために生きることだ。生それ自体が喜ばしいものに思えるため、生きることを肯定する。それが出来たら何よりなのだが。

 現状から立ち直りたい。無作為に毎日を過ごしているくせに、生への執着心は人一倍強い。このまま死ぬことだけは絶対にしたくない。だからここから抜け出したいと願っている。なら、俺はこれからどうすればいいのか?わからない。時折、知人や友人の話を聞いて、「全てがあるべき所におさまっていく」という感覚を覚えることがある。それぞれがそれぞれ、自分の生きる場所を、自分のおさまるべき場所を見出していく。なら私はどうだ。私はいつになれば、自分の生き場所を見出すことが出来る。わからない、何も。ただ近づく死と、終わりつつある若さを感じながら、それを誤魔化すように生きている。このままでいたくない。しかし、ここから抜け出すために何をすればいいのかがわからない。

 と、少し大袈裟に書いたが、こうして今日も一日が終わる。悲しみや焦りよりも、「人生なんて案外こんなものなのかもしれない」という諦めと幻滅の方を感じている。しかし、これも大袈裟な言い方なのかもしれない。