20/07/27

 ベルクソンは哲学的な方法の一つとして、直観に重きを置いた。が、初めてその考えに触れた時、(恐らく多くの読者がそうであったように)流石に「直観」を手段とするのはあまりにも漠然としているというか、曖昧すぎはしないかという気持ちを抱いた。しかし、もし直観を「知覚」という概念と対比したならば、なるほど彼の言いたいことも分からないでもないかもしれないのである。

 あえて言うなれば、人は時の流れを止める生き物である。有名なゼノンのパラドックスに「矢は的を得ない」というものがあるが、それがいい例だ。矢は的を得る前に、その間にある空間を通らなければならない。しかしそれを通る前にはそれまでの空間を通らなければならない。そしてそれを通る前にも……以下同様。このパラドックスは、空間を時間の流れとしてというよりかは、むしろ好き勝手に区切れる物質として捉えているから可能になる。当たり前であるが、実際は矢は的を得る。ただ人間は、この流れをぶつ切りにして、時間を止めて、その中で起きた現象を一定の場に固定させる思考を持つ生物である。だからこのようなパラドックスを発明することが出来るわけだ。

 この世のあらゆる存在は、時間の流れと共に動き、変化する。ただ、人は知覚する時、その流れの中から、知覚した対象を切り取るのである。あらゆる物理学の法則は、一定の条件下の元で起こる現象を観測した上で見出される。それはまさに、知覚した現象を実験の下で再現し、固定する事による。知性は空間を、時間の流れを、無限に分割し、細分化する。しかし、時間の流れとは、本来途切れのないもの、無限に流動し続けるもの、始まりもなければ終わりもないものである。この二つの間には避けられない矛盾が生じている。ベルクソンが直観を重要視した理由は、恐らくここにある。

 直観は経験に基づいて成り立つものである。もとい、人の思考とは、いかなるものであれ、その人自身の経験の集合体だと言える。経験は今日までの時間の流れの中で見出されたものであり、持続し連続する意識の内にあるものである。よって、直観によって得られた発見とは、常にこれまでの経験の中から再発見されたもののことを指す。知覚が自分の外部に向けられたものだとするなれば、直観は自分の内部に向けられた思索である。もしこう定義付けることが許されるなら、ベルクソンの意見も分からないでもない。

 存在しているものとは、かつて存在していたもののことでもある。現在とは過去は、分割されるというよりもむしろ共存している。こうしている今も、私達は呼吸をし、筋肉を動かし、思考の変化を体験している。一秒一秒と過ぎるごとに、過去の自分との差異を産出しているとも言っていい。しかし、その多数化する差異の連続の中で、その差異を束ね、貫いているものがある。それは私達の意識、つまりは持続する意識の流れである。その中で思考を重ねる私達は、自ずとかつて存在していたものを、今はもう存在することのないものを通して考えることとなる。現在はこの瞬間において、既に存在していない。現在は既に過ぎ去っている。私達の存在は、常に過去である。

 しかし、この経験の中には、常に今は理解されないものが潜んでいる。そして、やがてそれを理解した時、人はそれを新しい発見として見なすようになる。未来とは常に過去に内在するもの、潜在するものである。未来を意志することは、まさにかつて理解し得なかったものを、現在において再び見出すことに他ならない。よって、先程の結論には書き換えの余地がある。私達の存在に現在はなく、あるのは過去と未来のみである。


 「自分は不幸だ」と騒ぐ時、人はそう言えることの幸福を(無意識的であれ)噛み締めている。

 私にしてもそれは同じだ。自分の不幸を感じている時、それを他人事のように捉え直して、不幸な自分に誇りを見出すことがある。無論、好んで不幸であるつもりはない。しかし、孤独や虚しさを覚えた時、私は自分自身に悪意ある喜びを見出す。それは疑いようのない事実だ。自分の不幸を意識する人は、常に不幸のナルシズムを内側に抱えているのである。 


 ヒップホップは元々好きではあったが、一昨年まで意図的にその存在を避けていた節がある。理由は単純だ。多様化し、複雑化するヒップホップ・カルチャーの中で、幾多の(数えきれないまでの)注目すべき作品が発表される中、私はそれら全てに追いつこうとすることが出来なかったのである。当時は近現代のクラシックや、一九六〇年代のジャズを主に聴いていた。

 最近になって、ようやく時代の流れに追いつくことが出来た気がする。凄いとは思いながらも、心理的に追いつくことの出来なかったもの達(ヴィンス・ステイプルや、タイラー・ザ・クリエイターの近年の作品、アール・スウェットシャツなど)、それらを好んで、素直に聴けるようになった。それは私にとって、非常に嬉しいことである。

 古くから、ヒップホップ・ミュージシャン達は複数で作品を作る傾向にある。ヒップホップとジャズの比較はかつてから多く行われてきたが、とりわけ私がヒップホップとジャズの親和性を感じるのはその点においてである。ヒップホップにおいては、多くのミュージシャンが作品に参加し、集団で制作し、それぞれが混じり合い、与え合うことで、それぞれが元々持ち合わせていなかった個性までもをその場で発生させている。それはかつてのジャズ・ミューシャシャン達がしていたことに近い。

 例えばマイルス・デイヴィスは、作曲家というよりかは編曲家であり、演奏家というよりかはむしろ演出家であった。マイルスの音楽には、その初期から晩年に至るまで、何か一貫したものが存在するが、しかし彼の音楽性はその時々によって変化させていった。彼は自らの音楽性を変化させる度に、自分が演出したい音楽を制作するため、これまでとは違った人物と組んだ(または、これまでとは違った人物と共に制作することで、彼の音楽性は変化していった)。彼が一九六〇年代に組んでいたクインテットのような音楽は、他のいかなる時代にもみられない。しかし、それでありながら、作品の中には常に彼だとわかる特徴がある。それは彼の吹くトランペットの音色だけではなく、彼の統制するバンドの中でさえそうなのだ。

 ヒップホップにおいても、これと同じことが発生しうる。例えば私は最近、トラヴィス・スコットの『ASTROWORLD』というアルバムをよく聴いているが、ここには幾多の外部のミュージシャンが参加し、各楽曲にフューチャリングされている(フランク・オーシャン、ドレイク、ジェイムス・ブレイクスティービー・ワンダー、ザ・ウィークエンド、など……)。それぞれのミュージシャンがそれぞれの個性を与え合い、お互いが混ざり合い、区別がつかなくなることで、作品の中には、元々存在しなかった個性さえ表出し出している。しかし、そこにはトラヴィス・スコットのこれまでのアルバムにも見られたものが確かにみられる。客演の持つ差異を活かすことで、自らの持つ差異を徹底させている。まさにかつてのジャズが行っていた事と同様である。複数であることの強み。それは集団で一つのものを作ることによって、集団に属していたもの達が元々持っていなかったものさえも発生させるということにある。


 幻滅。幻滅を覚える度に、自分は人として成長することが出来た気がする。

 ふと、ここ数年のことを振り返ってみた。すると、色々なことがあったということに気がつく。キリスト教の洗礼を受け、やがて教会に通わなくなったこと。少なくとも三回以上住む場所を変えている点。今日までに多くの友情が得られたが、しかし同じくらい多くの友情が失われた。自分の性格上の変化、趣味の変化、考え方の変化。読んだ本の数、聴いた音楽の数。最近ではピアノよりもよくギターを弾いている。幾分、上達したと思われる。昔は家族のことでよく悩んでいたが、今はもう悩むこともなくなった。挙げればきりがないかもしれない。

 後悔している事は多い。その内の幾つかは、今も尚私の上に影を落としている。しかし、経験できて良かったと思えることもある。失敗も多くした。思い出したくないことも多い。しかし、そこからも学べることがあるはずだと、好意的に捉えているつもりである。出来る限り、前向きに生きたい。

 幻滅とは、自分の内にある夢を失うことだ。それは自分の現実に気づくということでもある。夢から覚める度に、私達は新しい現実を知ることとなるが、それでも幻滅は止まないのは、人が絶えず夢を見る生物だからだ。夢に襲われるよりも、夢を創造した方が、遥かに良い夢を見ることが出来る。幻滅することは、何も悪いことではない。

 自分は他者を必要としている。今私がこうして文章を書くことだって、この場にいない他者を想定するから出来ることなのだ。他者の世界。ここに何か今後のヒントが隠されているような気がする。が、希望や期待は、現実の悲しみを覆い隠すために発明されることが殆どだ。これまでに何度も似たような思い違いをしてきたから、はっきりとしたことはまだ言えない。

  まだ手遅れではないと信じたい。しかし結局、そう思う度に、いつも同じ問題に突き当たるのである。そう、つまり、自分は一体何処から始めればいいのか、それがわからないのである。しかしそもそも、私達には出発点も、目的地も、存在しないのかもしれない。