20/08/03

 現代、それはSNSの時代である。私達の世代にとって、インターネットとは第二の現実だと言えよう。しかし、それがとても恐ろしい事のように思えることがある。

 たとえば朝起きて、ふと自分の枕の横を眺めると、そこには私のスマートフォンがある。画面の上には点滅するライトがあり、それを開けば、誰々からのメッセージがあり、何々にまつわる内容が届いている。SNSにログインすれば、今自分がそれを眺めていることが確認される。で、今や私の日課の一つとして、一日の内に何度もメッセージを確認し、他者のSNSの更新を確認することが挙げられるようになった。

 こうして気がつくことが一つある。それは、私達が少しづつ、自分の孤独を、自分だけの孤独を失いつつある、ということである。しかも、孤独を失い、他者との接触が容易になればなるほど、我々は益々日常に寂しさを見出しているのである(というのも、孤独の問題、疎外感の問題は、人との接触が容易になった現代に固有の問題であるからだ)。一体何故こんなにも他人の存在に縛られなければならないのか、一体私のプライベートは何処に存在するのか?

 今やかつて提言されたことのある管理社会の問題が実現されつつある。私達は、常に他者の眼差しを感じながら生き、それを踏まえた上で、自分自身を管理しているのだ。つまり、常に自分を抑制するか、または必要以上に誇張した自分を表現しようとしている。で、そう振る舞っているうちに、最初は感じていなかったこと(誇張されていたこと)までもを、本当に感じるようになっている。私達は常に自分をパロディしながら生きているのだ。我々は今、ありのままの自分であるという自由を失いつつあるのである(孤独であるとは自由であるということでもあるから)。

 さて、否定的なことを先に書いたが、SNSが私達に多大な恩恵を与えてくれたこと(そして今も尚与えてくれていること)もまた事実である。

 たとえばSNSは、普段は出会わないような出会いを可能にする。学校であれ会社であれ、何であれ私達が普段から属する世界は、社交の場であって、完全に本心を分かち合うような場所ではない。で、自我が発達する程に、私達は自と他の違いを認識し、意識の差異を感じ取ることで、孤独を感じやすくなるように出来ている。元々神のように自分を理解してくれると思っていたはずの両親が、やがて自分のことを完全に理解しているわけではないと気づくのもこの頃である。そうなると、元々所属していた共同体、家族のような共同体でさえ、最早自分の居場所ではなくなるのである。

 SNSは、そういった者たちにとっての空間を作るきっかけを与えてくれる。「絶対的な孤独からこそ、どんな出会いも可能になる」とは、まさにその通りである。匿名性の世界、元々あった自分の名前を剥ぎ落として、無名な者として、自分以外の存在と一対一で向き合える場所。SNSはそれを提供してくれる。顔も知らない相手と、現実の友人よりも深い関係を築くことが可能になるのはそのためである。もとい私達は、数世紀前の異国の音楽家に夢中になることからもわかるように、自分に実際に近いかどうかが、友情を抱くかどうかを決めるわけではないのだ。むしろ、心理的に近いと感じられるかどうか、パトス(情念)が相手にまで届くかどうかが、私達の友情の発生を決定づけるのである。


 概念。人は常に概念に突き動かされて生きるものだ。「我々は仕草の道具であり、操り人形であり、化身である」というクンデラの言葉は、まことに的を得ている。私達はいつも、自分の知っているものに対して、自分自身を寄せるのである。「仕草の方が個人そのものより個性的」なわけだ。

 で、この高度に情報が発達した社会では、至る所で概念( = 仕草)が溢れかえっている。漫画やアニメ、ドラマや映画など、そこに登場する好きなキャラクターの動作を真似たり、好きな舞台上のミュージシャンの仕草を意識したり、そんなことは誰にでも見に覚えがあるはずだ。で、それに影響を受けて、また別の人がその仕草を真似る。私達の生きる現実とは、常にパロディの連続である。

 これは、言い換えるならば私達の個性が、常に私達の摂取する情報によって形成されているということでもある。そして、もし社会が一定の価値観に基づいて情報の流通を成り立たせているのだとしたら、それこそ悲劇である。私達は常に欲望が制約され(欲望とは何かを知ることによって発生するから)、一定のレールの上でもがき苦しむこととなる。ただ唯一、そこから抜け出す方法がある。それは内省する時間を持つこと、社会の情報の喧騒から逃れ、自らの手で情報を選択する時間を持つことである。そのために孤独が必要であることは言うまでもない。「繋がりすぎ」の現代において、必要なのは他者との更なる接触というよりかは、むしろそれぞれが孤独になる時間を持つことである。

 そして、もしこの社会で個人の幸福を獲得したいと願うならば、私達は自ずとこの社会の欲望消費から逃れなければならない。何故なら、資本主義社会においては、常にあらゆる欲望を一定のレールの上で制約するからである。本来、欲望とは多様多種に変身する能力を備えている。 外部の世界で見聞したものは、そのまま内部の欲望へと変身する。だから、蜘蛛は蜘蛛の生き方しか出来ないし、蛾は蛾の生き方しか出来ないが、人間は蜘蛛にも蛾にもなれるわけだ。私達は狼を見て狼男を生み出すような存在なのだ。

 しかし、限られた情報の中では、私達は常に一定の欲望しか抱くことが出来ない。そうなると、目の前で実現されるのは、いつだって一定の舞台、陳腐で、もう何度も繰り返されたような退屈なストーリーである。ありきたりな恋愛、腐った友情、むなしいファミリードリーム。自分だけの幸福が欲しいなら、こんな糞程どうでもいい現実から抜け出さなければならない。そのために必要なのは、内省する時間を持ち、孤独になり、現代の喧騒から滑り落ちる瞬間を持たなければならない。そうでもしない、人は自分だけの舞台を、自分のストーリーを見出しえない。

 一般的な欲望消費からの逃走すること。そうでもしなければ、私達は自分だけの幸福を見いだせない。見いだせるはずがないのである。