20/08/04

 「大抵の人にとっての知性とは、反応が鈍くて陰鬱な、油切れして操縦のしづらい機械だ。彼らは、この機械を働かせてよく考えようとすると、『真面目に考える』という言い方をする。そう、よく考えることが、彼らにとっては苦痛なのだ。愛すべき動物たる人間は、よく考えようとすると、どうやら気分が悪くなるらしい。だからその時、彼らは『真面目』になるのだ!そして、『笑いと喜びがあるところでは、思考は何の役にも立たない』この真面目な動物は、あらゆる『悦ばしき知恵』に対して、こんな偏見を抱いている。よろしい!では我々は、それが偏見に過ぎないと証明しようではないか!」

 ニーチェは正しい。知性は時に復讐の道具として発明される。しかし、最もよく知に励む人間とは、まさに最もよく知を愛する人間なのではないか。


 自分を上手く客観視出来ていない。どうやら私は、自分が思っている以上に自分のことがよく見えていないらしい。

 その事に気がつくための出来事が、最近は何度かあった。自分を知るということは、一体なんと難しいことだろう。恐らく私達は、普段から、自分の知る情報を、無意識的に(恐らくは自己保存の欲求から)制約しているのである。

 その現象は至る所に現れている。たとえば私は、子供の頃から『週刊少年ジャンプ』をよく立ち読みしているが、最近の『ジャンプ』の連載陣はどれも注目するべきものばかりだと言える。今や『ジャンプ』は第二の黄金期にあると言えよう。が、にも関わらず、私が毎週欠かさずチェックする漫画は二つくらいである。何故か。それは、この週刊雑誌から必要以上に情報を摂取したくないからである。

 私達は常に、私達の設定した問いを生きていると言える。設定された問いには、常に私達自身の価値観が反映されている。で、その問いを生きるために、私達は自ずと、ある一定のものに対して目を閉じて、盲目であり、かたくなであろうとするのである。この無意識的な情報操作が、生存のために自ずと使用されている。大抵の情報は、知らないというよりかはむしろ知ろうとしていないのである。

 で、最近自分で気づいたことの一つとして、自分が思っている以上に嘘をつくのが下手だということが挙げられる。というのも、私はこれで自分は嘘の上手い人間だと思っていたからだ。が、どうやらそんなこともないらしい。大抵の人と同じで、私も生きる過程で、嘘をつくというよりかは、むしろ嘘をつかざるを得ないような(嘘をつかされるような)場面に直面してきた(自分を守り、また周囲を守るために、仮面を被りながら生活するということは、どんな人にも身に覚えのあることだろう)。ただそれを誇張して捉えていただけなのだろう。恐らく、私は人よりも正直者である。


 さて、私がジャンプで読んでいる二つの漫画の内の一つとして『アクタージュ』が挙げられるが、その中で印象的な例え話が用いられていたのをよく覚えている。それによると、泣いている赤ん坊に同じ泣いている赤ん坊の動画を見せると、その赤ん坊は泣き止むというのである。何故か。それは自分の醜さに気がつくからだという。

 他者の内に見出すもの、それはいつだって自分自身に元々あったものでもある。私は日々、それを痛感している。他人の動作の一つ一つが、自分を省みるきっかけを与えてくれる。人と関わることの素晴らしさの一つは、やはりここにある。自分を知るということは、他人を知るということでもあるわけだ。

 で、他者の世界に足を踏み入れる程、自分が未熟で、何も知らないのだということを知るのである。最近は何かある度にその事を痛切している。思えば以前は、何かにつけてこの世界の現実に対して怒っていた。しかし、自分に至らぬ点があるものほど、他人の至らなさを指摘したくなるものだ。それに気づけただけでも、少し自分が成長したのだと、そう前向きに捉えたいように思えるが、それでもやはり私が大きな子供であるということ、それは間違いないことだ。

 私はかつて、この世界になにか大きなものを期待していた気がする。もとい、今も尚、何かを期待しているのだろう。しかし、実際の世界を知るにつれて、この世界は、私が期待していたほどマシなものではないということに気がついた。それは、自分が期待していたような人間では、大した存在ではないということに気づいた、ということでもある。この幻滅は、何か不意に、突然やってきたわけではない。あらゆる変化と同様に、後から自分が変化したということに気がついたのである。何時からかは分からないが、私は自分が静かに絶望しているということに気がついた。そしてこの幻滅を感じるまで、私は無意識的に自分を守るように動いていたのかもしれない。

 時に、キリスト教における「愛」とは、日本で普通とされたものとは違った意味合いを持つ。使徒ヨハネが「神は愛である」と手紙の中で書いていたことが、そのいい例である。西洋ではこの概念が価値観の前提として存在しているように思われる。だからであろう、いつの時代であれ、向こうの文学者や哲学者が語る愛とは、何処か宗教的な、気高い意味合いを帯びている。それは、キリスト教の洗礼を一度受けたことのある私にしても同じだ。愛することは信仰のあり方の一つであり、愛を見出すことは神を見出し、神の内に入ることに他ならない。キリスト教信仰を捨てたとは言っても、何やかんや言って、私は心の何処かで神の存在を、そして愛の存在を信じている。そして、この信仰が、何とか、今日までの私を支えてくれた気がする。

 晩年のジャン・クリストフもこんな気持ちだったのだろうかと、そんな事を想像することがある。恐らく、自分のこういった神秘主義的な、盲目な所は、死ぬまで治らないだろうと思われる。


 梅雨が明け、夏が来た。夏、生命の季節……神々も微睡むような昼下がりの空。秋の物憂げな陽だまりは、死と晩年、そして諦念の印象を与える。しかし夏の強い日差しは、私に生の躍動を思わせるのである。梅雨の間はよくヤナーチェクを聴いていたが、夏が来た今、私は再びマーラーを聴きたい気持ちになっている。

 今私が聴いているのは、かの有名な「アダージェット」だ。強く照る太陽に煽られながら、気分はさながら「ヴェニスに死す」のグフタス・アッシェンバッハである。静穏で、しかし情熱的で、私を包んでくれるような音楽。まさに神の内に、愛の内にいるような夢見心地がする。指揮はデイヴィッド・ジンマンのそれを聴いている。立体的で、効果的な演出の目立つ、素晴らしい演奏だ。今、私は静かな幸福を覚えながらこれらの事を書いている。


 ピアノソナタ交響曲など、形式的な性格を持ちながら、しかし自由な音楽表現を持つもののよさは、やはりその展開性と構築力にある。冒頭で、またはその展開の中で提示された一つの主題が、曲の終盤で再び提示される。それは丁度、ミステリー小説の中で、提示された伏線が最後で回収された時の快感に近い。一見するとバラバラに見えたはずのピースの数々が、ジグゾーパズルのように組み合わさってゆき、あるべき所へと収まっていく。わからなかったものが見えてきて、輪郭の漠然としていた全体像が明確になっていく。その過程が本当に楽しい。いくら長大な規模のものであろうとも、いくらでも聴けてしまう。

 今の私には、生きられない時間がある。「砂糖水を飲みたければ、砂糖が水に溶けるのを待たなければならない」というベルクソンの言葉を、最近は改めて考えている。世界には、いつだって今は生きることの出来ない余白がある。そして私達は、今日までその余白を後から回収することで生きてきたのではないか。

 少なくとも私は、今日までにそのようにして生きてきたように思っている。かつて出会いながらも、かつてはまだ理解し得ず、近寄ることもなかったものとの再会が、私達の現在に新しさとして出現しているのではないか。

 ドゥルーズが最晩年に発表した遺書とも言うべき文章「内在性、一つの生……」には、静謐で、瑞々しさをも感じさせるような美しさが漂っている。ドゥルーズの著作群は、まるでパズルのように出来ている。一見すると何の脈絡もなく、一つ一つが独立したもののように思われるが、それは他のものと併せて読むことで初めて読むことが出来る。たとえば私は、ドゥルーズによるヒューム論やベルクソン論を読むことで、彼のニーチェ読解への理解が更に深まったような気がする。まさに、私が初読時には理解してなかったものを、こうして後から回収しているのである。内在していながらも、今の私には所属してなかったものが、ある日出会った日常の裂け目から、突然溢れだしてくる。そうして今の私は滑り落ちて、未来の、新しい私が出現する。私の毎日は、常にこれの繰り返しである。

 こうしてドゥルーズ哲学を自分の手で、自分の流儀によって体系的に再構築出来るようになったなら、私は何か大きなものが掴めるような気がする。その事を踏まえるなら、私は他の人よりも比較的に楽しい毎日を過ごしているのかもしれない。

 本と音楽、そして自然、またはちょっとした孤独。それだけで、それなりの楽しみを生活に見出すことが出来る (酷い憂鬱に苦しめられることもあるが)。本を読むことで得られる発見、音楽と戯れることで得られる陶酔、自然を眺めることで得られる安らぎ。で、このような喜びを、隣で分け合える人がいたら、私の日々は益々悦ばしいものになるのではないかと思うのである。私は自分の事しか考えられないし、自分ためにしか生きられない。だから自分が生きるために、他の誰かがいてくれたらな、と思う。傲慢なのはわかっている。が、読書に耽り、音楽に喜び、そして誰かを愛する、または愛すべき誰かがいる。それで人生は素晴らしいものだとは言えないだろうか。

 で、話が逸れたが、こうして孤独に読書に耽っていると、また外部への働きかけが弱くなってしまう。それである日、今の私には出来ないことがあるのではないかということを考えた。そして同時に、私には待つことが、待ち望むことが必要なのではないかということも。丁度、リルケが詩の霊感の訪れを待ち、それまで彼の仕事に耽るように。「私達がよそよそしく素通りした一日が/いつかふいに私達への贈り物となる」今の私には、生きられない時間が、世界の余白が存在するのではないか。もしそうだもするなら、いつか私が砂糖水が飲めるように、砂糖が水に溶けるのを待たなければならないのではないか。

 と言っても、それも見方によっては、結局逃げの言い訳にしか聞こえないのだろう。この、自分の外に訴えかけるのが下手くそな性格を、何とかしたいと思いながら、結局今日まで治らなかった。困ったものである。

 何かどうでもいい事を長々と書いてしまって気がする。一体私は誰に言い訳をしているのだろうか?もうこの辺りで今日の記述は終わりにしよう。