20/08/07

 「哲学は、絵画や音楽と同じように、創造的芸術だと、私には思われる……」

 全てのものはただ一つの実態( = 自然)の延長にあり、この世のあらゆる存在は、その唯一なる実態が無限に変化し、変容し、多様化した末に発生したものである。これがスピノザの有名な哲学原理の一つである。実際、私達の内面とは、自分以外の他の存在から影響を受けることで構成される。私達の内部とは選択された外部であり、私達の見る外部とは、内部の偏見が投影された世界に過ぎない。

 ドゥルーズの内在平面の思想を解く鍵は、恐らくここにある。彼は「内在性、一つの生……」の中で、純粋な内在とは「一つの生」であると書いた。そして、スピノザに言及しながら、内在とは、実態の中にあるというよりかは、むしろ実態が内在の中にあるのだと書いていた。一つの生に内在している私達……こうした考えを深める内に、私はそのような印象を抱くようになった。

 未来、それは過去に内在しているものでもある。たとえば私達が「現在の自分」を認識しようとする時、既に私達は、客観的に自分を見ようとしている点で、それ以前の自分との差異化の動きをしていると言える。現在を認識しようとする時、現在は既に起きたこととして、存在していた過去となるのである。このように、「私」とは絶えず重層化する存在、はじめから自分自身に対して差異を産出し続ける存在である。で、そんな無限に産出される「私」の中で、私達はいつも理解出来る自分自身だけを見てとる。それが現在の私達の姿である。よって、未来を生きるとは、かつて回収し切れなかった「私」の断片を再び見出すことに他ならない。未来とは、かつて生きられなかった世界の余白である。

 ヒュームは、人間をそれまでに経験した印象の束であるとして捉えた。知性は経験に基づいて成り立つ。そして経験は常に感覚を通して得られる物である。訴えかけられた感覚は一つの印象を生む。そして印象は関連する。私達は経験に基づいて思考しながら、経験を飛び越えて思考しようとする。一つの出来事に直面した時、似たような出来事を連想して、その出来事が何かを妄想するのである。人間の本性は、理性や感情というよりかはむしろ想像力である。

 これを言い換えるならば、人間の本性が偏見的だということでもある。私達は一つの出来事から別の出来事を連想し、今直面しているものもそれに似たようなものだと予測する。が、今日までにそのような予測が何度外れたことかはわからない。現在には、常に理解し得ない余白がある。そしてある日、現実の出来事に直面する中で、その余白を埋めるべく新しい印象が、私達の世界に入り込んでくるのだ。先述の通り、人間とはそれまでに経験した印象の束である。で、人は一秒ごとに、自分自身に対して差異化をはかる存在だと言っていい。一体どれほどの理解できないことが私達の経験に含まれている事だろう。経験とは常に過剰なものなのである。

 現在の自分から滑り落ちて、非人称な、回収され得ない「私」の断片が、この世界には内在している。ドゥルーズは、ディケンズの小説の例を用いながら、その事を説明している。誰からも疎まれていた悪人が、死に直面することで、これまで受けたことのないような手厚い介抱を受ける。熱意、尊敬、愛情。それらを感じる悪人は、昏睡の中で、何か優しいものが胸の内から込み上げてくるのを感じるのである。そう、死という出来事に直面することで、これまで悪人の「個性」に属さなかったはずの、ある特異なものが芽生え始めているのである。自我というものは、備わっているというよりかはむしろ生きて見出される。だからそれは容易に失われるものでもあるわけだ。信念にしてもそれは同じである。信念は持とうとするよりもむしろやがて見出されるものだ。だから一つの信念に執着する人間は、誠実というよりかはむしろ頑固者だと言える。私達は「何かである」というよりも、むしろ「何かになる」存在なのだ。

 人が与えられるものとは、かつて人に与えられたことのあるもののことでもある。それは印象においてもそう言えるのではないか。子供の頃の、今や何の記憶もない赤子の頃から、人はどれほど多くの印象を与えられて育ってきたことだろう。そして前述の通り、我々の内面は、常に外部の影響によって成り立つのである。今私達の見ている内部とは、選ばれた、選択された外部のことである。私達の内部を構成する関係は、常に外部との繋がりを持っているのだ。そして、その繋がりがまた、別の存在の関係の一部を成している……まるで木が枝を伸ばすように。が、こうして把握される実態も、やはり私達の印象の域を出ない。内在が実態の中にあるというよりも、内在の中に実態があるというのはこういう事なのだ。

 身体に毒が侵入すれば、既存の身体を構成する関係は崩れる。が、それによって身体はかつての構成関係を抜け出して、別の、新しい構成関係に至る。 これと同様に、死に直面すれば、人は既存の構成関係から抜け出し、全く新しい構成関係に介入すると言えなくはないだろうか。たとえば死の印象。いくら死ぬことに悩んでも、私達は死を認識することが出来ない。人は死ぬ時には既に意識が存在しないからである。代わりに、我々の死の情報は、それを知った人達が生きることとなる。人は自分の死を他人に与えるのだ。そしてそれが連続している、この内在平面の上で。主観にも客観にも属さない、非人称な主体、まさに一つの生の中に、私達はあるのではないか。

 もしこのように考えられるなら、ドゥルーズの哲学は幾分神秘的である。

 

 情熱とは記憶の病である。たとえば私達は、今日までの経験から誰かに対する印象を形作る。で、こうしてた印象が、そのまま私達にとってのその人となる。人は、誰かを愛するというよりかはむしろ誰かの印象を愛していると言える。よって、もし愛が消えるとするならば、それは愛する相手との経験の中に、新しい経験が入り込み、それがこちらを幻滅させたからであるか、もしくは更に大きな印象を与えるものに心が奪われたからである。どちらにせよ、愛が消えるという現象は、愛する相手に抱いていた印象が消えるということである。私達の存在は、常に私達の記憶にあるのだ。

 

 苦痛と快楽、それは相対的な関係にある。双方ともに大きくなるか、双方ともに小さくなるか、そのどちらかしか有り得ない。ある人の感じる苦痛の度合いとは、そのままある人の感じる(感じたことのある)快楽の度合いでもあるわけだ。よって、幸福と不幸、それらは一見正反対に見えるが、「二つでありながら頭は一つ」なのである。それは子供の戯れを見ていればわかることだ。怪我をすれば、子供は大きな声で泣きわめく。が、次の瞬間には、それと同じくらいに楽しそうな様子でしゃぎ回る。不幸を不幸として認識するということは、そもそも幸福な記憶が私達の内にあるからなせるわざなのだ。

 ただ、悲しみは持続する。何であれ、無邪気な悪意、悪意なき悪というものは存在しない。露悪的なもの、邪悪であろうとするものの裏には、必ず利益を求め、償いを求める感情が、かつての悲しみの持続が反映されている。悲しみは常に何らかの償いを求め、復讐を求める。だから自分か他人かを責めなければ生きていくことが出来ない。

 または、悲しみは停滞を求める。幸福が去れば悲しみが生まれる。だから幸福を得たならば、人はそれが変わらないでいることを(というのも、変化は自ずと喪失を生むからだ)、その中に永遠に留まり続けることを(何故なら、幸福の喪失を感じたくないからだ)、求めるようになる。しかし、それは喜びの本質に反する。何故なら喜びというものは、常に自らを増大させようとし、一度味わった幸福を、更に味わいたいと願うからだ。喜びは繰り返されることを、そして更に豊かになることを求める。喜びの本質はその傲慢さ、強欲さにある。

 だから、もし不幸な意識を突き詰めていくならば、人は先程書いたようなことに、幸福と不幸が一つであり、悲しみが嫉妬深いものであり、喜びが傲慢であるということに気がつく。すると、不幸な意識は次のことにたどり着く。つまり、何でもないことを、無であることを、消失することを意志するようになるのである。これがニーチェの言う「虚無への意志」である。「人間は全く欲しないよりは、まだしも虚無を欲するのだ……」生に傷つけられた人間は、生から逃れる。そして生から逃れるためには、不幸であり、また幸福であることからも逃れる必要があるのだ。

 リルケが手紙のどこかで書いていた。私達はいつも、自分の不幸ばかりを眺めていて、与えられている喜びに気づいていない、と。私には今、それがその通りなように思われる。人は幸福だけを見て生きていくことなど出来ない。が、しかし不幸にしがみついて生きることも出来ない。私にしても、「自分が不幸だ」という意識なしで生きていると言ったら、それは嘘になる。他の人と同様、私も愛を求めて生きている。しかし、不幸でなければ、人は愛を求めたりはしない。

 あらゆる夢は裏切られるために存在していると言えるのではないか。というのも、私達にとって夢だと言えるもの、つまり希望や期待というものは、いつだって私達の悲しみの反映であるからだ。悲しみは償いを求めるが、償いというものは、いつだって二通りしか存在しない。そう、復讐か慰めかの、そのどちらかである。では、何故夢が生まれたのかとなれば、それは夢が人の悲しみを慰めるからである。丁度かつて空を飛ぶことを夢見た人類が、やがて飛行機を発明するように、夢が実際に叶うということは有り得る。夢は現実の作用から生じるが、現実は夢の訴えかけによって変化するからだ。しかし、もし私達の夢が叶うとするならば、それは私達がかつて考えなかったような形によってなのである。かつて空を飛ぶことを夢見た古代人に、一体どうやって現代の飛行機が思いつこう。

 希望も期待も信じてはならない。ただ一つだけ信じるに値するものがある。それは喜びである。最近は、よくそんなことを考えている。