20/08/14

 「スピノザは希望も、勇気さえも信じていなかった。彼は喜びしか、洞察する視力しか信じなかった。他の人々が彼の生き方に構わないでいてくれれば、彼は他の人々の生き方に構わなかった。ただ霊感を与え、目を覚まさせ、物が視えるようにさせてくれること、それしか彼は望まなかった。」

 私は他人にあまり興味が無い。もとい、以前はそうは思わなかったが、周囲に幾度かそう言われてから、なるほどそうかもしれないと思うようになってきた。恐らく、私が他人に興味がない。そしてその理由は、私自身が他人に興味を持たれたくないからだ。否、その言い方は語弊があるかもしれない。

 たとえば今日まで日記に書いてきたことの中で、興味を持って欲しいことは沢山書いてきた。が、私は自分自身について、あまり知られたくない事がある。だから他人に深入りすることが出来ない、というわけだ。自分に知られたくないことがあるからこそ、他人にもそれがあるのではないかと躊躇してしまう。もしくは、他人を知りすぎることで、自分の知られたくないところまで知られてしまうのを恐れているのか、他人の知りたくないところを知るのを恐れているか、そのどちらかである。

 恐らく、私は臆病な人間なのだろう。昔から、気分が乱れることが嫌で仕方ない。緊張すると、足の爪先から血がどくどくと逆流してくるような感覚に陥る。それが本当に不愉快な印象を与えるのである。学生時代、裸の異性を目の前にして、何もしなかったという経験がある。性的興奮は覚えたが、それ以上に、生身の人間に向き合うのが怖かったのかもしれない。似たようなところは今でもあるのだろう。私は緊張しやすく、人よりも羞恥心が強い。それに恐れているものも多い。目先の快楽よりも、下手に動いて平常心が乱されたり、余計な苦しみを負うことの方を恐れている。楽しいというよりも苦しいという気持ちの方が先に立つ。全ての人がそうであるように、私にも向き不向きというものがある。

 先日、私がSNSに投稿した写真に、普段よりも多くの反応が寄せられる、ということがあった。人から注目を浴びることに慣れてないから、普段以上にSNSの確認をしてしまう。心の平常が乱れる。すると他のことに手がつかなくなる。私は人を愛している。しかし、それ以上に気分を乱されることに慣れていない。だからSNSは(好きではあるが)苦手でもある。

 ドゥルーズはかつてこう述べたことがある、「一個の人間であることへの恥が、芸術や思想を創作するモチーフとなる」と。自分はこの言葉が本当に好きで、何かにつけて、度々それを思い出すのである。批判という行為には、時に創造的な意味合いが含まれることがある。人が何かを批判する時、その根底にある価値観と観点が間違っていて、つまり問題の設定の仕方が間違っていて、だからこそ物事が上手く進まないのだ、という意図を含める場合があるからだ。だから根源的な批判とは、同時に根源的な創造でもある。

 「一個の人間であることの恥」とは、何も「人間は悪だ」とか「我々は皆醜い存在だ」とか、そういう意味合いでは決してない。それは今の自分( = 今の人間である自分)を恥じて否定( = 批判)し、全く新しい自分を創造しようと、恥ずべき環境から生を解放しようとする試みなのだ。だから人は芸術や思想を発明するのである。

 私は自分自身であることを恥じている。だから隠し事もするし、知られたくないこともある。多少なりともある哲学趣味の裏にも、やはり「一個の人間であることへの恥」が潜んでいる。で、こんな風に自分を恥を覚えながらも、恥を抱くことの出来る自分自身に誇りを抱いている。それでは生きづらいとか、幸せになれないとか、そんな事を言われたことはある。しかし、そんな事はどうだっていい。知ったことじゃない。人は幸せになるために生きているのではない、ただ生きるために生きているのだ。

 そうだ、別の話をしよう。『罪と罰』の終盤で、ラスコーリニコフはソーニャと結ばれ、新しく生まれ変わり、これからの人生の展望へと希望を抱く。しかし、その感動的なラストのおかげで、時に人はラスコーリニコフに見られる奇妙な心理を見落としそうになるのである。彼は二人の人間を殺し、その末に牢獄へと向かった。そのために苦しんだりもした。が、しかしそれ以上に、結局彼は自分のした事の何が間違っていたのかがわからないのである。そして、わからないまま物語は終わりを迎える。

 そういう意味では、私もラスコーリニコフと同じだ。上のような性格のために、失ったものも多いし、嫌な思いも沢山した。しかし未だに、私は自分の信念が間違っているとは思えないのだ。これからも同じ信念に生きるつもりだし、こんな自分を受け入れてくれと、そう願うことしか出来ないのである。

 ただ、私にもやはり後悔していることがある。たとえばかつて愛した友達の私生活に、私は好んで深入りすることを拒んでいた。それは、やはり知りすぎることを恐れていたからである。

 今なら違う。今ならもっと相手のことを知ろうと願うのに。最近は、よくそんな事を考えている。


 かつて、とても仲のいい異性の友人がいた時のことである。ある日、彼女が私の前から立ち去ろうとして、私は初めて彼女に好意があることを告白した、ということがある。私は変わらない日常を求めていた。これまで日常の一部であったものが欠けることを恐れていた。だから相手を必死に引き留めようとしたのである。

 今考えると、私は相手にとても酷いことをした。相手が留まってくれることがわかると、私は以前のように、自分の関心事(読書や音楽)ばかりに熱中して、相手を日常の一部以上の存在としてしか扱わなかった。それは距離を置きながら依存していたとも言える態度であった。当たり前であるが、私は愛想を尽かされた。しかも、この態度がおかしいということに、かなり時間が経った後にやっと気づいたのである。それこそ最近になるまで、私にはわからなかった。一体自分の何が変だったのか、それはある日ふと内省している際に気がついた。なるほど、私は変わらない日常を求めていた。そして、変わらない日常のために、私は何と傲慢な態度を取っていたことだろう。


 誰かといるからする、ということは多い。たとえば以前、終電である駅に友人達と集合して、その近くにある廃墟を夜通しで探索をする、ということをしたことがある(結局、この探索はその日の昼頃まで続いた)。これは友人と一緒でなければ死ぬまでしなかっただろう。少なくとも私ひとりでは、それをするつもりには更々なれない。かつて仲の良かった友人がコンセプト・カフェで働いていたから、そこに遊びに行ったということもある。私もその手の店で(短い間であるが)働いたことはあるが、正直に言うなれば、少し苦手である。店の空気が自分の身に合わないような気がして、行くたびに多少の居づらさを感じる。それでもよくあの場に足を運んだのは、やはりそこに私の友達がいたからである。

 他者の介入、または他者への介入は、常に何らかの事件を生じさせる、とは言えないだろうか。事件とは複数以上のものの間で生じるものだ。私達の個性とは、いつだって私達自身の体験した事件によって形成される。良くも悪くも、人といるからこそひとりではしない事をするのである。それが人間というものだ。それは作品との出会いにおいても言える。何かとの出会いが、常に私達を未知の方向へと導く。それは一つのものと別のものとの掛け算である。

 しかし、それは物事を、過去を美化して語りすぎていることだろうか。否、きっとそうなのだろう。


 「あなたは正しさを押し付けている」と言う時、人はそんな自分の意見の正しさを確信している。それは丁度、「万物は流転する」と宣ったヘラクレイトスが、その真理だけは決して変わらない(流転しない)と確信していたのと同様である。この事から分かるように、多様性とは、本来その反対にあるもの、つまり「一なるもの」を前提としなければ成り立たない。

 多であると同時に一である。多様化するものとは、常に一つなるものへと回収されることを前提に存在しているとは言えないだろうか。多様性の実現は、まさにそれぞれが分裂し、己の差異を自認した上で、結合し、一なるもの(共通する意識や信条)へと回収されることによって成立する。

 世界とは一つの大きな虚構である。一つのものの定義とは、それに類似する他のものとの比較によって成り立つ。言い換えるならば、唯一なもの、偶発的なもの、例外なものとは、他との関連が成り立たないため、既存のいかなる知識によっても理解され得ないもの、推定できないものであり続ける。よって、この世界とは定義し得ないもの、把握し切れないもの、つまりは一つの大きな虚構である。この世界とは知性の対象ではなく、想像力の対象なのだ。

 しかしそれでも人は真なるものを、正しさを、誠実さを求める。何故か。それは程度の低い嘘に私達が悩まされているからだ。この虚構としての世界において、真実的なものとは一体何か。それは、敢えて言葉を選ばずに言えば、下劣でなく、愚劣でないもの、程度の低い虚構を排除したもののことである。

 本質とはそもそも存在せず、むしろ何かが本質になることによって生じる。よって、「本質である」ものはなく「本質になる」ものだけが存在するとも言えるわけだが、これを言い換えるならば、私達は自分が想像力で発見したものを、真実的なものにまで高めるのである。こうして真実は発見され、発明される。その過程で、真実的でないとして排除されるものは、程度の低い虚構、つまりは妥協に満ちた欺瞞である。

 否定は常に肯定の次にある。 何か肯定したいものがまず初めにあり、そのために否定したいものが生じるわけだ。しかし、ルサンチマンに支配された時、人は常に否定を肯定よりも先に置く。自分を傷つけるものを見出した時、人はその正反対にあるもの(傷つけてくるものを否定するもの)を真実として肯定しようとするのだ。

 否定は無を意志する。生の本質は変化することにあるが、変化は出来事を生み出し、生を過剰なものとするからだ。過剰なものは常に他者を傷つける可能性を含む。よって、傷つけられた人は、常に過剰さとは正反対な無を意志するのである。

 しかし、過剰なものとは創造力の豊かなもののことでもある。強さの本質はその過剰さにある。何かを求める動きとは、自分に欠けているものがあると感じるからこそ生じる。故に、何かを求め、奪おうとすることは弱さを表れである。強さとは、むしろ自分から溢れ出るものであり、無作為に、そして無条件に贈り与えるもの、噴水のように自己を表出させるもののことである。ここに創造( = 創作)の本質がある。創造するということは、何かを求めるから生じるのではなく、むしろ自ら溢れ出るから生じるのだ。そして、この創造的な強さの本質によって、この世界が今日まで成り立ってきたとしたら、強さに反対する弱さ、無を意志する否定の運動( = ルサンチマン)は、本来的に私達人間の敵である。

 この世に正しい人間は存在せず、ただ正しくあろうとする人間だけが存在する。誠実な人とは、誠実であろうとする人のことを指す。妥協なき人生は存在しない。生きることは選択する事であり、諦めや喪失が伴わなければ、人は成長することも出来ないからだ。しかし、妥協に満ちた人生では、そもそも生きていないのと同じだ。


 スピノザの文章のいい所は、それが閉じているところにある。何処かで読んだ気がするが、デカルトの書く文章には、なにか人を説得させるような節があるが、スピノザはいつも自分にだけ言い聞かせているような印象を受ける。

 他人がどう見ているかなど、基本気にするべきものではない。ただ、自分が興味のある内容よりも、自分の興味を持たないものの方に関心を持たれることは、いつだって悲しいものだ。

 時の流れと共に変化したものに対して、「昔の方がよかった」と感じるものは多い。しかし傍から見れば、私にしてもそれは同じなのかもしれない。