20/08/17

 『ヴェニスに死す』は概して美と道徳の相克を描いた小説だと言える。芸術的な美は、常に一般常識の皮をひん剥いた所にしか存在しない。作中に現れる青白い肌をした美青年タジオは、そのような芸術的な美の象徴とも言える存在である。対して、主人公のアッシェンバッハは、禁欲的で規律正しい、まさに一般市民の模範となるべき作家であり、また本人もそうありたいと願っている(そして、そうあろうとする自分に多少なりとも誇りを抱いている)。『ヴェニスに死す』はそのように一般道徳を愛し守ろうとする(立派な人間であろうとする)芸術家と、それに反する美青年タジオへの愛(当時からすれば同性愛は反道徳的とも言えよう)との対比を描いている。

 『ヴェニス』の著者トーマス・マンの小説には、よくよくこのような構造が登場する。クンデラはマンの小説について「時代の奥底からやってきて、私たちの歩みを遠隔操作する神話の役割を問うた」と書いていたが、それは恐らくこのような意味なのではないのだろうか。つまり、私達個人の生の裏には、常にそれを支配する道徳的価値観がある、という事である。で、私達がよりパーソナルな生を、つまり自分だけの実存を確立しようとする程、それだけ私達はその裏にある道徳的な価値観に、つまり私達を支配する「神話」に突き当たるのである。個人と神話の対立、そしてその相克。それがマンの作品主題の一つだと思われる。

 倫理なき人間とは存在せず、あるのは倫理に支配された人間か倫理を模索する人間だけである。一般的な倫理に反する人間さえも、その時点で既にその倫理に支配された人間だと言える。それは丁度、大抵の無神論が先に有神論が存在しなければ成り立たないのと同様である。否定は常に肯定の次にある。で、もしそこに否定を先立たせた末に生まれる肯定があるならば、それは否定したいものに依存した価値観なのである。

 この主題はドストエフスキーがよく扱ったそれに近いものがある。ドストエフスキーは度々「無神論者の多くは無神論という宗教を信奉している」という記述をしていたからだ。私達の意識とは常に反動的なものであり、その裏にある無意識がいかに働いているかの結果に過ぎない。ドストエフスキーの指摘は、無神論であれ共産主義であれ、一つの信条が無条件で信じられている場合は、既存の道徳的価値観の代わりにそれを置いたに過ぎない(またはその反動でそうなっているに過ぎない)から、何にせよそのような人達も宗教者と同じように盲目で宗教的である、という事である(だからこそドストエフスキーは指摘する、「完全な無神論者は有神論者より強い」と)。

 で、丁度ドストエフスキーに熱中している頃、私は同時にある教会の牧師に深い影響を受けていた。牧師の観念論めいた思想には凄まじいものがあり、その説教の中で、 人間が本来所有できるのは自分の死だけであるという、ロマン派も驚くような理論を展開したことがある。人の所有できるものは常に過ぎ去るものだ。他者との関係は常に変化するものであり、そこにあったと思えば次の瞬間には過ぎ去っている。金銭にしても、手元にあったと思ったら無くなっているの常である。人生など尚更そうだ。我々の所有するものの中で、自分自身の人生ほど思い通りにならぬものはない。このように、我々が普段所有しているものとは、常に我々の思いどおりにならないもの、所有しながらも所有出来ていないものである。よって、我々が常に所有し続けることが出来るもの、それは死である。そして、もし「死」だけが所有物である人間存在を惨めに思うなら、我々は皆神に救いを求めるしかない……脚色はあれど、大まかに言えばこんな事を牧師は語っていた。

 私が何故この説教に感銘を受けたかとなれば、丁度当時読んでいたドストエフスキーの『悪霊』に、似たような描写が存在したからである。しかし、それは牧師の理論とは反対方向に帰結を持っていた。『悪霊』の中で、キリーロフは次のようなことを語っていた。決して落ちてこない大きな岩が吊るされていれば、我々はそれが落ちてこないことを理論的に認識出来ていても、実際にその岩の下に来ると、それが落ちてこないかとびくびくするものである。このように、たとえ本当に自分の罪を罰する存在がいないのだとしても、そのような価値観が自分の頭の中にあるだけで、人は何らかの「罪」と呼ばれる行為をなした後に、自分を誰かが罰するのではないかと怯えるのである。この人間の無意識に潜む宗教的な性格、つまり個人の裏に潜む「神話」の作用(盲信的な人間存在の本性)にキリーロフは目をつける。そしてこの「神話」を超越する唯一の方法、それは何の絶望も覚えず、明晰な理性を保ったまま自殺することである……記憶が正しければ、確かそんなことが『悪霊』の冒頭に書いてあったはずだ。

 
 さて、話が大分逸れたので本筋に戻そうと思う。『ヴェニスに死す』と近い時期に書かれたマンの小説で『トニオ・クレーゲル』があるが、その中でも「個人と神話の対立」は(部分的ではあるが)扱われている。ただ、『トニオ』は『ヴェニス』よりもずっとナイーヴな性格をしており、青春小説としての側面が強い。一般的な世界に憧れを抱きながらも、それを内心何処かで軽蔑していて、冷たい目で一般世界を眺めているトニオ。しかし、心の内ではやはり一般世界の価値観を、その憧憬を捨てられずにいる。その事を仲間の女流画家リザヴェーダに打ち明けると、彼は彼女から「さまよえる俗物」であると揶揄される。やがて旅行の途中で、彼はかつて自分の愛した人達が一般世界で幸福に暮らしているのを見かける。そして彼はそれを眺め、自分のことを気にかけて欲しいと思いながら、結局声をかけることが出来ず、自分の部屋で咽び泣くことしか出来ない。そして小説は、トニオがリザヴェーダへの手紙の中で、一般世界を愛しながらも、これからも芸術家として生きることへの決意を語る、ということで終わる。

 トーマス・マンは私の青春の作家であった。マンの作品に見られる、この芸術的な美と一般性の間で引き裂かれる世界観は、恐らく『魔の山』の前半部分で一時的な解決を得る。理性的な進歩主義者セテムブリーニの忠告を無視して、謝肉祭の夜、『魔の山』の主人公ハンスはロシア人女性ショーシャに愛の告白をする。これまで内気で、消して他者に直接働きかけることをしなかったマンのかつての主人公の懊悩が解決されるのだある。私はその告白のシーンが本当に好きで、当時は何度もそれを読み返したものだ。「肉体、愛、死、コレラ三ツハ本来一ツノモノナンダ……」

 誠実な者とは、誠実であろうとする者のことだ。現代は、人間が人間としての誇りを失った時代である。よって次に来るべく時代は、新しい人間が再び誇りを獲得する時代となるわけだ。最もいけないことは、新しい倫理を求めようともしなければ、既存の倫理にも生きようとしないことであり、そのどっちつかずな態度である。習慣の無い人生は空虚だ。しかし、同じ習慣を長く続ける事もまた空虚だ。習慣は一つの場を形成する。倫理もまた一つの習慣である。そして、生きる場がなければ、人は堕落することとしか出来ない。


 「ニーチェはしばしば彼にとってむかつくような、げっとするような、吐き気を催させるような物を目の当たりにすることがあります。ところがなんと、ニーチェときたらそれらを前に笑い出し、可能とあれば楽しんでさえしまうのです。彼はこう語っています。もうひと踏ん張り、まだ大して嫌でもない。あるいは、いやだってことは素晴らしい、そいつは見事、有毒の花だ、最後には『人間は面白くなり始めた』……」


 私は変わった。ドストエフスキートーマス・マンは、かつて驚くまでに私を熱中させた。しかしいつからか、上記のような「個人と神話の対立」という題材にあまり関心を寄せなくなった(かと言って、他にも彼らの小説は読むべく点が多々あるのだが)。

 近代の価値観が崩れつつある現代を生きんとするならば、人は自ずと個人の価値観を見出そうと努めなければならない。しかし、私達の裏には、未だ神話のように既存の価値観が、私達を断罪し、罪の意識を植え付ける価値観が存在する。そして、個人として生きようとすればするほど、私達はそれと対立し、その抑圧に苛まれることとなる。私達の内には、常に相反する二者の相克がある。

 ただ、自らの苦悩を強調し、それを訴えかけるものは、そのような矛盾に苛まれている自分に少なからぬ誇りを抱いているものだ。罪の意識、自己を罰する精神は、不幸のナルシズムが反映した先にある。

 恐らく、ドストエフスキーとマンが扱った「個人と神話の対立」というテーマは、その帰結として「個人と一般性の調和」を求める動きが(小説内で)発生するよう促したように思われる。が、しかし、それは無理な話なのだ。個人と神話(または一般性)、この二者の対立はどうしようもないものだと思われる。私達は神話から抜け出そうとするか、神話に苦しめられるか(取り込まれるか)、そのどちらかしか有り得ない。人間とは潜在的に他者との差異を産出し続ける存在である。よって、全ての人が本性的にマイノリティ性を備えていると言える。特に私は、幼い頃からの過剰な自意識から、人一倍他者との差異を、自身の(一体何処にあるのかもわからない)マイノリティ性を意識しながら(あるいは意識しすぎるまでに)生きてきた。私は自分の内にある他者との差異を恥じていた。何故なら、共感されない差異とは羨望か軽蔑かしか寄せられず、それが優れていると認められないなら、他人から馬鹿にされ、恥をかかされるからだ。私は恥をかきたくなかった、何故なら人一倍羞恥心が強いから。だから半ば虚栄心から、自身の内にあるマイノリティ性と一般性の調和、つまり個人的なものと一般的な価値観の和解というものに惹かれていった。

 しかし、そんな事はありえない。この世界には和解も救済も有り得ないからだ。

 たとえばであるが、私は以前仲の良かった(非常に仲が良かった)人の中でも、今はもう疎遠になってしまった友達と、何度かまたかつてのような友情を取り戻したいと願ったことがある。しかし、そう思う度に、もし再び友人になれたとしても、私達はきっと、何故二人が疎遠になったのかを再認識して終わるだろうと、そう感じるのである。そして実際、私は以前そのような経験をしたことがある。かつて仲が良かったが、一時的に疎遠になった友人と再び仲良くし始めた時、何故私達二人が疎遠になったのかを、どうしてその友人が私から(または私がその友人から)離れていったのかを、直観的にではあるが感じ取った。一度変わってしまった関係は、その以前の状態を踏まえなければ生きることが出来ない。

 何より、(先述の通り)もし私達が潜在的に他者との差異を産出し続ける存在であるとすれば、その差異を振り払って出来た一般性と、個人の生を生きようとする人間が和解し、解決され、調和することは有り得ないのである。何故なら個人的なものとは常に自身の内にある潜在的な差異を肯定することによって発生するから。

 もしそこに和解され、解決され、調和されたように見えるものがあるとすれば、それはそのように見せかけている欺瞞に過ぎないのである。本当は分裂し、内側に問題を抱えているにもかかわらず、あたかもそれがなかったかのように振る舞う欺瞞。人間が元々邪悪であるということは決してない。そうでなくて、環境が邪悪に振舞った方が好都合であるよう私達を強いる。こうして露悪的なものは発生するのである。自然な状態が抑圧されれば、人は自分以外の存在にもこの抑圧を与えたいと願う(いたずらを楽しみたいという邪悪な欲望はここから生じる)。だからこそ、内側にあるマイノリティ性を抑圧し、一般性の中で取り繕われるということは、それ自体人間が邪悪になることを意味する。

 ただ、差異を徹底した先にあるものが分裂であり、一度分裂したものは、もう二度ともとの形に戻らないということも、やはり事実である。


 私は体面を気にする人間だ。人付き合いをそれなりに大切にするし、そのために社交的な態度をとったりもする。しかし、そんな自分に嫌気がさす事も少なくない。まるで「やり手」のような態度で誰かと話し、楽しく談笑したりする。虚栄的で、見た目と振る舞いばかりの人間。私は軽薄な人間だ。こんな自分を、心のどこかで軽蔑している。