20/08/18

 人と映画を観ることが、最近私の趣味になりつつある。映画はいい。映画を観ると、人は自ずと(たとえ他の誰かと観ていても)映画と二人きりになる瞬間を一度は持つこととなる。それは、一時的であれ孤独に向き合う瞬間にもなるということだ。孤独になれば、人は自己を省みて、自分で物事を考える時間を持つようになる。孤独への恐れとは、考えることへの恐れと同じである。

 が、そうでありながら、やはり隣には誰かがいる。見終わった後には意見と感想を言い合ったり、それから得た刺激から別の話をしたりすることも出来る。こうして孤独にもなれるし、お互いを刺激し合うことも可能になる。

 かねてから、私は読書会とか勉強会とか、そういったものを開きたいと考えていた。人といるからこそ、普段はしないようなことをしたり、普段なら気がつかないようなことに気がつく。そのような相互作用を、常日頃から求めていた。がしかし、書物となると集まる人が限られる。相互作用は、互いに違うものを持ち合わせた人間が出会う時にこそ発生しやすい。人が愛し惹かれるものとは、いつだって自分に似たところを持ちながらも、自分にないものを持っている存在に対してである。

 だから映画はいいわけだ。映画なら容易に他の人と観ることができるし、そうでありながらも内省するきっかけを得ることも出来る。人と一緒にいながらも、(いい意味で)孤独になれる。でも映画を観た後には、その場にいる誰かと意見交換をすることも出来る。誰かと映画を観ることによって得られる収穫は非常に大きいのである。

 あとは、単に私の家に大きなモニターがないから、どうせならでっかい画面で映画を観たいというのもある。というか、それが主要な理由かもしれない。


 私の近所には、ある一組のインド人の夫妻が住んでいる。白く美しい二階建ての家に住んでいて、夫妻は二人の娘と共に暮らしている。一人はまだ五歳前後の幼い妹で、もう一人はもう十二になるくらいの少女である。私はよく、彼らの住む家の前を通り過ぎる。だから度々近くの道路で遊んでいる二人の褐色の少女に出くわす。最初は何事もなく通り過ぎていたが、やがて顔を合わせる頻度が増えるにつれて、その度に二人に対して微笑みかけるようになった。すると、姉妹も私に笑顔を見せてくれるのである(または、彼女達の方から私に微笑んでくれる時もある)。

 今日も私は姉の方に偶然出会い、通りすがりに彼女に笑顔で挨拶をした。すると、彼女もまた私にはにかんでくれた。夫妻が近くにいる時は、夫妻も優しい顔で挨拶をしてくれる。

 私がよくコーヒーを買うコンビニには、仲のいい店員が二人いる。どちらももうおばちゃんで、レジに行くだけで、何も言わなくともコーヒーカップを用意してくれる。毎日私がコーヒーを買いに来るので、顔を覚えてくれたのである。やがて世間話も交わすようになって、タメ口で話すようにもなった。

 私はよく公共料金の支払いを忘れる。今朝も二月と三月分の水道代を払っていないとして、水道局に務める老人が私の部屋を訪ねに来た。で、払い忘れる度にこの老人がやって来るので、お互いすっかり顔なじみになってしまった。この前はマンションの前で偶然出くわして、少しばかりの他愛もない話をしたほどである。老人は、私がまだ払っていない四月と五月分の、そして六月と七月分の水道代について、「そのどちらかを次の給料日にでも払ってくれ」とだけ言って去っていった。中々人のいい老人である。

 これらの事を思い浮かべると、私の日常も悪くないもののように思えてくる。


 ここ二、三日で、ようやく過去の思い出に諦めをつける気持ちになれた。長い間、私は短くはあるが幸福であったかつての友情の日々をやり直したいと願っていた。しかし、結局それが無理であるということに気がついた。私達は上手くいかなかった。たとえまた以前のように仲良くなれたとしても、きっとまた以前と同じようなことに悩んで終わりだろう。

 私なりに努力はしたつもりである。ああ、どれほど彼女を愛したことか。そして、何故彼女はそれを理解してくれなかったのか。


 今日は比較的に過ごしやすい日であった。ぼんやりするには丁度いい一日である。夏の昼下がり、生暖かい空気の中で、優しい風が愛撫するように私の全身を包んでくる。それがとても気持ちよかった。こういう時に、自分が生きているのを実感する。夏はいい。私の一番好きな季節だ。

 去年の夏によく聴いていた音楽に再び耳を澄ますと、ふと突然、以前は聴こえなかった音色が聴こえ始める。そうか、ここで、その箇所で、あの楽器はこういう作用を持っていたのか、といったふうに。それと同時に、当時の感動も再び蘇ってくる。似ているものの繰り返しには、常に同一なものとして回収され得ない差異が存在している。反復に見出される差異。それは常に 新しさとして 私達に現前する。そして新しさはいつも私達を未来へと連れ去ってくれる……ドゥルーズベルクソン哲学の中に見出したことである。

 ああしかし、何故音楽はこんなにもいいのだろう。聴いてて不思議になるほどだ。


 往々にして他ジャンルに原作を持つ映画に言えることだが、どうしても原作の二番煎じといった印象を受けるものが多い。しかし同時に、時に原作と同じかそれ以上の面白さを持つと思われるものもある。この現象は何故起こるのか。

 たとえば小説の場合、小説の面白さは、物語の筋書き以上に作者の文章にある。優れた小説は、常に物語の余剰にその魅力が隠されている。いかなる場合であれ、読者を惹きつける書物とは、その内容以上に筆者の書き方が優れているのである(優れた思想家とは、常に優れた文筆家である……)。

 これは漫画においても言えることだ。非現実的ながらに現実を感じさせる絵の運動によって漫画は成立する。それは漫画の面白さが、その物語の構成よりかは描かれ方に、つまりは作者の描写と表現の中にあるということでもあるのだ。

 たとえば先日、『存在の耐えられない軽さ』の映画版を観た時のことである。なるほど、随所に見られるヤナーチェクの音楽の効果的な使用や、映像的な演出の巧みさなど、見所は多々あれど、どうしても原作のダイジェストという印象が拭えないまま映画は終わりを迎えた。これは私が原作のファンであるからというのもあるだろう。というのも小説の方の『存在の耐えられない軽さ』の面白さは、物語の筋書きよりかは、作者クンデラによる文章の書き方にあるからだ。何より、原作の方では、バラバラになった時系列によって、パズルが組み合わさるかのように物語が進行していったのに対して、映画の方は時系列を順々に追うことによって物語を進行させていた。結果として、悪い出来ではないのだが、物足りなさが否めない代物になってしまったように思われる。

 トーマス・マンの『ヴェニスに死す』も、同様に物語の筋書きよりかは、作者による物語の書き方が面白い小説である。しかし、ヴィスコンティが映画化したそれは、決して上のような消化不良を私に与えなかった。前述の通り、小説の面白さは作者によるその書き方に、つまりはその文章にある。言葉でしか描くことの出来ない美しさを、そのまま映像で表すことは不可能である。言い換えるならば、映像でしか表現し得ない美しさを、文章によって表現することもまた出来ないというわけだ。だからヴィスコンティは、原作を題材にしながら、主人公の設定を文学者ではなく音楽家に置き換え、更には小説における思索的な部分を補うために、原作には出てこないキャラクターを登場させた。こうして、彼は小説を原案としながら、小説とは全く別の作品を仕立て上げることで、小説に勝るとも劣らぬ映像作品を作り上げたのである。

 シェイクスピアが完全なオリジナルで書いた戯曲は二つしかなくて、それ以外は皆他に原案がある、という話は有名である。『ハムレット』にせよ『リア王』にせよ、元々他にオリジナルがあって、その設定を借りることで、彼は原案以上の作品を作り出したのである。では、他のものをパロディしながら、それと同等以上のものを生み出すために必要なものとは何か。それは、パロディするものに忠実になるのではなく、むしろパロディするものを借りて自分自身を表現しようとすることである。結局、何を語るにせよ、人は自分自身のことしか語りえないのである。