20/08/25

 ふと思うことだが、何やかんや言いつつも、私は家族を愛しているらしい。先日、偶然にも自分の兄についてを話す機会に恵まれた。その時、私は自分の心が多少なりとも高揚していることに気がつき、それに驚いたのである(入社一年目にして全国新人成績二位など、我が兄ながら誇らしいことである)。 父にしてもそうだ。あれだけ長い間を共にすごしたのだから、愛着が湧かない方がおかしいのかもしれない。が、愛してはいるが、どちらも会いたくはない。この意見は、傍から見れば矛盾しているように思われるだろう。しかし、むしろ会わないからこそ愛することが出来る、とさえ言っていいのではないかと思っている。

 距離を置くということ。私は家族とあまり仲が良くない。にも関わらず、こうして家族を愛することが出来ているのは、家族と距離を取っているからである。もし再び距離を詰めたならば、また以前と同じようなことに悩み、以前と同じような欠点を見出して、再びかつてと同じ問題に(今は離れることが出来た問題に)苦しめられることだろう。

 解決し、和解したつもりなのに、いつまでも同じ問題から抜け出せない。それは、そもそも問題の設定の仕方が悪いのではないか。解決したはずのものがそこにあり続けている。それは、問題に取り組む以前に、問題が上手く設定されていないからではないか。私は家族を愛している。ただ、もう二度と同じ問題に悩まないで、何も得られるもののない世界線から抜け出すためには、家族と半ば縁を切り、疎遠になるという、そういった選択肢しかなかったように思われる。家族から逃げた、と言い換えてもいい。しかし私は、今も自分の選択が間違っていたとは思っていない。

 世の中には、距離を置かないと愛せない人間がいる。実際に今日まで、私は幾度かこの現象に突き当たってきた。いくら努力しても、同じ問答の繰り返しで、いつまでもそこから抜け出すことが出来ない。そのような現実に直面した時、私はそもそもこれは解決できない問題であり、こうなるのが自然なのではないかということに気がついた。それはまさに、昼でありながら夜であるためにはどうすればいいか、と問うているようなものである。昼は昼であり、夜は夜である。私達はただ、夜明け前と夕暮れにその調和があるかのように勘違いしていたに過ぎない。そもそもそれらは別の存在なのだ。だから、永遠に続く夜明け前とか、終わらない夕暮れを求める方が間違っている。ならば、そもそもこの問題設定を取り下げて、別の方向へ向かうのがもっともなのではないか。

 このようにして、家族をはじめ、これまでにどれだけ多くの人と縁を切ったり、疎遠になったりしたかわからない。ただ確実に言えることは、私がそれらの人々を今でも愛しているということである。正確に言うなれば、その人達と過ごした記憶を、今でも愛している (何故なら情熱とは記憶の病だから)。が、だからと言ってその全ての人とまた会いたいとは思わない。大抵はむしろその逆である。何らかの後悔の残っている相手を除いて、(家族を含む)大半の疎遠になった人とは会いたくはない。二度と会いたくないとさえ言っていい。何故か。それは、距離を置かないと彼らを愛せないからだ。

 しかし、それは本当に愛していると言えるのか。そう問う人もいるだろう。しかし、これが私なりの、長い間考えた挙げ句見出した、一種の愛し方なのである。憎むよりかは愛した方が、遥かにマシではないか。


 昨晩、ベッドの下に置きっぱなしにしていた卵のパックが既に消費期限切れであるという事に気がついた。パックの中には卵が計七つあった。私はそれを捨てることにした。

 が、何を思ったのか、それを捨てる前に、私はそれらを皆空のペットボトルの中に入れることを思いついた。で、実際にそれを皆入れた後、私はぼんやりそのペットボトルを眺めた。床には白身が少し垂れていて、ベトベトしていた。指先にもそれはついていた。そして、どちらも生臭かった。私はペットボトルを眺めながら何かを考えていた。もしくは、何も考えていなかった。やる前はとても面白いことだと思ったのに、今では何が面白いのか、何故こんなことをしたのか、自分でもよくわからなかった。手と床を拭いて、私は卵の入ったペットボトルをゴミ捨て場へと持っていった。

 
 大抵の不幸とは連鎖的である。それは一種のドミノ倒しに近い。出来事は常に他の様々なことと連鎖することで発生する。言い換えるならば、一つの出来事は常に別の出来事への繋がりを含んでいるのだ。そして、それは不幸に関しても同じである。よって、私達が不幸から抜け出す方法、それはドミノ倒しの列から外れるという、ただそれだけしかない。

 人の意識とは、その人がこれまでに遭遇した数々の出来事によって形成される。だから、あまりに不幸な出来事に遭遇していると、やがて異常が日常になる。この場合、「不幸」とは何も悲劇的なこととか、悲惨なことだけではない。真に恐ろしい不幸とはその凡庸さにある。アーレントではないが、最も恐ろしいものとは凡庸な悪なのだ。快楽と苦痛の両方を舐めた上で選ぶ中庸ではなく、快楽にも走れず苦痛を受け入れることも出来ない、どっちつかずな中庸、事なかれ主義な中庸。すなわち凡庸な悪、または悪の凡庸さ。その愚劣さ、下劣さ。

 私自身、何度かそのような人に出会ったことがある。日常に違和感を覚えながらも、恐らくはその人柄の善良さから(またはその性格の弱さから)、事なかれとして日常を過ごし、そうする内に異常な日常から抜け出せなくなった人々。不幸のドミノ倒しから抜け出せなくなった人々。しかし、 私達が普段無意識的に信じていることの多くが、いかに非合理的で、不条理に満ちているかを考えてみよう。私達は元々、家族や隣人など、近親のものを大切にするよう傾向づけられている。しかし、それが何故なのかは誰もうまく説明できない。説明しようとしても、「血の繋がりがある」とか「身近な存在だから」とか、とても論理的とは言えない意見に帰着してしまう。現代に生きる私達は、常に「あれかこれか」の価値観に生きざるを得ない。つまり、既存の価値観にしがみつくか、新しい価値観を求めるライオンになるか、そのどちらかである。そして、そのどちらにも付かなければ、自ずと凡庸な悪に回収されて、なあなあな、どっちつかずな、楽しくもなければ悲しくもない、強いて言うなら虚しい日常へと回収されていく。つまり、ドミノ倒しの列を形成するドミノの一つになるのである。

 どんな場合であれ、邪悪さとは人の手によらなければ発明されない。そもそも、自然には善もなければ悪もないからだ。だから私達が善悪の価値観をその中に見出すわけだが、よってある種の邪悪さとは、常に他から悪くされたという意識に基づいて発生するのである。前述の通り、不幸とは連鎖的であり、それは一種のドミノ倒しである。傷つけられた意識は利益を求め、償いを求め、自分以外も同様にして傷つくように仕向ける。何であれ、邪悪なものとは、悲しみが自然を歪めた先に見出されたものなのだ。


 欲望の本質は、人と人を繋げると言うよりも、むしろ人を孤立させる点にある。それが個人的なものになるほど、そのような欲望を抱く自分と、それを抱かない他者との断絶を強く感じるようになる。欲深い人間の本質、それは孤独である。そして孤独は自立を促し、自足性を備えさせる。欲望は、それが個人的なものになればなるほど、自立的な、理性的なものへと変化していく。


 知識を語るという行為は一種のはったりである。ドゥルーズ哲学史についてを語る時、彼はそれを「オカマを掘る」または「処女懐胎のようなものだ」と表現したことがあるが、それはこういう意味なのだ。

 哲学史とは他人の哲学を研究することである。しかし、研究者は常に、他人の哲学の言葉を借りながら、自分の哲学を語ることとなる。子供は彼の研究する哲学者のものでありながら、同時にその子供はまるで研究対象の哲学者には似ていないという矛盾。知識を語るということは、常にこの「他人のものでありながら自分だけのものである」という矛盾が付きまとう。

 結局、人は何を語るにしても、自分についてを語ることとなる。しかも、人を感動させるような知性とは、いつもその記憶力というよりかは、その活用力にある。何かを覚えるというよりかは、何かを用いるということに知性の本質がある。暗記するのではなく、発明するということ。既存の知識を組み合わせて、新しい知識をでっち上げるということ。だから知識を語ることははったりでしかないわけだ。


 どんな人にも、青春の音楽というものがあるに違いない。無論、私にもいくつかある。で、そんな青春の音楽の中でも、今ではあまり聞かなくなったものも少なくない。しかし、その内のいくつかは、何かの節に、ふと思い返したかのように聴くことがある。

 今私が聴いているのは、リストの『巡礼の年』で、ラザール・ベルマンの演奏したものである。『巡礼の年』の中でも、私は特に『オーベルマンの谷』という曲が好きだった。幾年か前には、丁度今日のような夏の夜に、よく聴いたものである。仄暗い描写から始まって、曲全体に広がる暗闇が、次第に解決され、救済されていくような展開がとても好きだった。それを聴く度に、私は心が清められていくような感動を覚えたのである。

 そして今、私はそんな自分の青春の音楽を聞きながら、ぼんやり夢想に耽りつつ、夏の夜を過ごしている。