20/08/28

 先日のことである。深夜に何故か、突然セブンイレブンのカツ丼が食べたくなった。で、住んでいる街にあるセブンイレブンを三件ほど渡り歩いた挙句、最後の一件でようやく目的の代物が手に入った。が、しかし食べ始めてみると、期待してた程にそれが美味しくないことに気がついてしまった。私はと言えば、何故自分がこんなもののために必死になっていたのかがわからなくなった。でも捨てるのも勿体ない。だからさっさとそれを食べ終えようとした。食べ終えた後は、特に何をする気にもなれなかった。だからその場で眠りに落ちた。


 あと一歩。あと一歩で、自分の欲しいものに手が入る。しかし、どうしてもその「あと一歩」が足りず、手が届かない。「もう少しのところで、僕は全てを理解し承認できるのかもしれぬ。もう一歩踏み出すことが出来れば、僕の深い苦しみは幸福に変わるだろう。しかし、その最後の一歩を、僕はどうしても踏み出せないのだ……」


 十代の頃は、よく休日に遠い街まで一人旅をしたものである。電車に揺られて、誰も私を知らない場所まで出かけたりした。が、行ってもその街のことを特に知らないのが大半で、だから宛もなくさまようことしか出来なかった。でも、それでよかった。または、それがよかった。異邦の地で、私は自由を感じていた。誰も私を知らない街、誰も私に関わらない街。それは私を孤独にする街でもある。しかし、この孤独感は、一体なんと心地よいことだろう。

 上に引用した「もう少しのところで……」の文章は、私の愛読書『マルテの手記』に収められた一節である。今日までに一体どれだけこの本を読み返したかはわからない。で、そんな『マルテの手記』は、ある印象的な小話を主人公が物語ることで終わる。ある一人の息子がいて、いつからか、彼は家族の待つ自分の家に帰るのが嫌になった。馴染みの顔が家に帰る度に自分を待っているのが耐えられなかった。だからある日、彼は家を飛び出るのである。

 数日前の日記のどこかで、私は二人のおばちゃんの話をした記憶がある。コンビニで働いているおばちゃんで、二人とも私の顔を覚えている。だからレジに向かうだけで、私がいつも頼むコーヒーを用意してくれるのである。がしかし、このように親密になるほど、私はこの二人の店員を内心で避けるようになったのである。たとえばそう、私には引越し癖がある。ここ数年の間に、少なくとも三度は引越しを経験している。で、何故こんなにも引っ越すのかとなれば、無論それには幾つかの異なる理由はあれど、その内の一つとして、あまり一つの生活に愛着を持ちたくないというのがある。

 私が上の二人の店員を避ける理由もそこにある。一日の内で、私は必ず一人で街を出歩き、考え事や夢想に耽ったりする時間を持つようにしている。そんな時に、顔馴染みの人に出会って、気分がかき乱されるのを避けたいのである。年老いるほど、どうやら人は孤独を恐れるようになるらしい。しかし同時に、人はいつも、孤独を恐れるにはあまりにも若すぎるのである。

 自由への渇望。私達には常に相反する欲望が内側にあるように思われる。で、いつもその片方を頑なに否定するか、その両方をなあなあにやり過ごすかをして、日々の生活を営むものだ。私には人一倍自由への渇望があり、自由への執着がある。それは孤独への固執と言い換えてもいい。しかし同時に、知っての通り、私は人と繋がりたくて仕方がないのである。ジャン=ジャック・ルソーではないが、私も彼と同様で、生涯変わらぬ愛情への憧れがある。一生をかけて誰かを愛したいし、一生をかけて誰かに愛されたいのである。時折、自分が軽薄な人間だと感じることがある。虚栄的で、他人にいい顔をばかりしている。私は軽薄そのもののような人間だ。だから自分のそういった所を否定したい。そのためにも、何か自分の内にある潔癖なものへの信仰を貫きたいという、身勝手な感情が内在している。

 自分が矛盾している事はわかっている。しかし、矛盾しながら生きることは、ある意味では最も誠実な生き方だと言えるのではないか。私は誠実でありたいし、誠実になりたい。では、誠実さとは何か。それは一つのものに固執することか。否。私が思うに、誠実さとは、自分の内にある愚劣さを恥じることなのだ。

 ただ時折、自分の孤独に耐えられないような気持ちになるようなことがある。そういった時に、まるで希望に縋るかのようにルソーと同じ憧れを抱く。結局、私もまた寂しい人間なのかもしれない。


 ドゥルーズの哲学には、その最初期から晩年に至るまで、自然主義的と言える傾向がある。無論、それは日本文学における「自然主義」とは決して異なる。その点で言うなれば、ドゥルーズの哲学はむしろ反自然主義的である。人間存在の現実を徹底して観察し、そこから実存についての問いを発するということ。本人が意識しているかどうかはさておき、ドゥルーズの哲学には、一貫してモラリスト的な性質が見受けられる。

 ドゥルーズの哲学に見られるもう一つの傾向して、彼が常にヘーゲルに反発し続けたというのがある。では、何故彼はヘーゲルに反抗したのか。それは、まさにヘーゲルが彼の目からすれば(敢えてこう言うなれば)「不自然」だからである。では、何を自然なものとし、何を不自然なものとするのか。そのような問いが次に思い浮かぶであろう。が、その答えは簡単である。つまり、それは自然に敵対するというよりかは自然を覆い隠そうとするもの、すなわちルサンチマンの作用である。

 この観点は、同時に哲学の、またはあらゆる文化的なものの真意を見るための一つのモチーフでもある。哲学の本質、それはヒューマニズムだ。もとい、あらゆる哲学はヒューマニズムである事しか出来ない。何であれ、哲学趣味のある人間とは、人間が今日までに発明した文化と文明を愛する。文化的なものを愛さなければ、人は思考に思考を重ねたりなどしないからだ (何故なら文化とは人間の感覚と理性の結晶だから)。では、ヒューマニズムとは何か。それは文字通りヒューマンなものを愛するということだ。何故ルサンチマンが非難されるのか。それは、ルサンチマンの本性が復讐し、自分を傷つけるものを無にしようとする作用を持つからである。しかし、自己表現とは不特定多数の存在への加害であり、創作行為とは、常に誰かの気を害する可能性のあるものを生み出すということである。よって、ルサンチマンルサンチマンとしてそのまま放っておいて、愚劣なものを愚劣なままとして、下劣なものを下劣なままとしてのさばらせたら、その復讐の作用のために、人間はより豊かな表現力を失い、より偉大な文化の創造力を失うのである。

 しかし、もし私達が他者の中にルサンチマンを見出すとしたら、それは私達の内にもルサンチマンがあるからである。他者の内に愚劣さと下劣さを見出して、それに吐き気を催すのは、私達の内にも愚劣さと下劣さが存在するからだ。何故ニーチェは「超人」という概念を発明したのか。それは、人間は何処まで行ってもルサンチマン的な存在であり、反動的で、ニヒリズムを内包した存在であるからだ。ニーチェルサンチマンなき人間の姿を目指した。しかし、ルサンチマンなき人間とは既に人間ではなく、最早それは超人(人間を超えたもの)なのである。では、ルサンチマンに諦めをつけて、あるがままに愚劣であり、下劣であることを許容するのが正解なのか。否。もしそれを許したならば、私達は最早、思考することを放棄したのと同様である。文化を愛するものならば、どうして思考を重ねずにいられようか。よって、ルサンチマンとの駆け引き、人間存在を好んで低劣なものにしようとする連中に対する戦い。それこそが哲学=ヒューマニズムの課題なのである。

 ドゥルーズの話に戻ろう。ドゥルーズ哲学には一貫して自然主義的な傾向があるが、もし人間存在をありのままに見つめるならば、彼が敵対するルサンチマンもまた自然の作用なのではないか。そういった問いも出てくることだろう。然り。ルサンチマンは私達の人間本性である。しかし、この一見して矛盾するように思える点にこそ、ドゥルーズ哲学の最もスリリングな理論が隠されているのである。そして、それを見つけるヒントを与えてくれるものが、彼のベルクソン論とヒューム論には内在しているのである。

 ベルクソンによれば、人間とは一秒ごとに差異を算出する存在である。私達は今も筋肉を動かし、頭脳を動かすことで、一秒前の自分との差異を産出している。現在の自分を見つめようとする時、私達が見つめるのは過ぎ去った「現在」までの私なのだ。しかし、このように一秒ごとに変化する私達自身を纏めるものが存在する。それが私達の意識の流れ、持続である。

 ドゥルーズは、このベルクソンの考えの中にイギリス経験論との親和性を見る。実際に、彼が最も影響を受けたイギリス経験論の思想家ヒュームは、人間を「印象の束」として捉えた。つまり、私達には明確な理性や精神といったものは存在せず、ただ感覚を通して経験した印象が束になることによって、今の私達の意識と無意識は形成される。そしてそれに基づいて私達は思考している、というわけだ。印象(または感覚的経験)は、どこまでも感覚的なものでしかないから、私達の認識には常に錯覚が伴う。男であれ女であれ、美しい異性を前にしてエロティックな妄想や、何かドラマチックな恋を期待する人は多い。しかし、「美しい異性だ」という印象と、「ドラマチックな恋をする」という現象には、本来何の関連も存在しないのである。私達は、目の前の事実から、常に目の前にないものを連想する生き物なのだ。

 こうしてドゥルーズのヒューム論は一時ベルクソンへと回帰する。もし私達が一秒ごとに差異を産出し、それらを意識の流れが束ねているのだとすれば、現在には常に生きられない余白があるのではないか。十代の頃に読んだ小説で、当時は何の場面か分からずに読み進めていたものが私にはあるが、それを後に経験を重ねることで理解することが出来たことが多い。つまり、私はかつて生きられなかった過去を回収したわけである。それは、かつて生きられたものであると同時に、全く生きられなかったものでもある。現在から未来に至る過程、それはかつて生きられなかった過去の余白を反復することによって獲得することが出来る、というわけだ。

 しかし、これらの何処にドゥルーズ自然主義によるルサンチマンへの回答があるのだろうか。もう一度ヒュームの話に戻ってみよう。人は一つの印象から、本来それとは関係のないものまでをも連想する。現実に見出したものから、現実にないものまでもを見出す。つまり、人間存在の本性は、理性でもなければ感情でもなく、その豊かな想像力にあると言える。さらに、私達は自然を観察するが、それは私達の感覚的な印象に過ぎない。あらゆる概念と同様に、私達は常に「自然とは何か」をでっち上げているのである。ドゥルーズは概念を創造することを哲学の仕事としていたが、その真意がここにある。私達は常に、想像力によってこの世界をでっち上げる。だから、新しい概念を発明することによって、今ある世界を転覆することが可能なのである。虚構を虚構によって転覆するということ。

 こうしてドゥルーズ自然主義と、哲学のヒューマニズムが手を取り合う瞬間が訪れる。確かに、ありのままの自然を眺めようとするならば、ルサンチマンは人間本性の一つと言えるかもしれない。しかし、私達は常に「自然とは何か」の正しい答えを持たない。もし人間存在を貶めるものがルサンチマンだとすれば、それを受け入れることもまた不自然と言えるのではないか。昨日までに信じられていた常識が、今日もなお正しいと信じられているかはわからない。私達は常に、常識を転覆することによって常識を更新しているのである。

 最後に、ドゥルーズ哲学のモチーフの一つとして、「プラトニズム[プラトン由来の哲学]の転倒」というニーチェ由来のものが挙げられる。が、それは言葉通りに受け取ってはならない。ドゥルーズによれば、プラトン哲学を転倒するきっかけは、既にプラトン自身が著作の中で書いているというのである。未来とは、常に生きられなかった過去の世界線を回収することで成り立つ。プラトニズムの転倒は、哲学=形而上学の否定ではなく、新しい形而上学の始まりなのである。これまでの哲学の常識とされていたものを塗り替えて、新しい哲学を始めようとすること。それが「プラトニズムの転倒」の意味である。