20/08/07

 先日、久しぶりに映画館に向かった。本当に久しぶりのことである。記憶が正しければ、最後に行ったのは『ハウルの動く城』で、だとすれば約十五年ぶりとなる。父と兄と私の三人で見にいったのを覚えている。昔から、映画が好きにも関わらず、何故か映画館で観ることだけは避けていた。が、丁度気になっていた映画の上映期間がそろそろ終了するとの事で、この際一度行ってみようという気持ちになったのである。

 映画を観た後、帰りの電車にぼんやり揺られながら、思えばこれまで一度も友人と映画館で映画を観たことがないという事に気がつく。学生時代、友達がいなかったといえば嘘になる。むしろ私はそれなりに友達がいた方であった。が、いつも、ほとんどの友人に対して、何かよそよそしいものを持っていたのかもしれない。映画を観に行く話は何度かあったし、そう誘われもした。ただ、何故かわからないが私はその手の話題を上手く避けていた。休日まで友人と遊ぶ気力がなかったのである。人と話すと、それだけ人と話したくなくなる。ただ、そういう時に話したくない相手を、果たして本当に友人と呼べるのかとなれば、それはその通りかもしれない。

 そんなこんなで、今日まで経験して来なかった事は大いにある。実はプリクラもまだ撮ったことがない。この手の話題は、あげて行けばキリがないことだろう。それで僻んだりするつもりもない。ただ、内的な気づきとはいつも新鮮な感覚を伴うもので、私達が好んで語る話題とは、いつだって普段の自分に不慣れなものなのである。


 チェーホフの短編に『犬を連れた奥さん』というものがある。不倫を題材にした小説で、読んだのも随分昔の話なのだが、その印象的な小説の終わりを、私は今でも何かの節に思い出すのである。人目を盗んで密かな会合を重ねる二人の男女。一体いつまでこんな生活が続くのか、一体どうすればこの状態から抜け出せるのか?そんな疑問が浮かぶと、ふとあと少し、あと少しできっと全てがよくなり、素晴らしい生活が待っているという、そんな淡い希望が頭に浮かんでくる。しかしそれと同時に、心のうちでは、本当の解決はまだまだ先で、二人ともまだ旅のはじめに立ったばかりなのを痛切しているのである。

 このシーンでは三つの感情(または情念)が入り交じっている。一つは「いつまでこんな生活が続くのか」という疑問であり、それはこの現状から早く抜け出したいという願望の表れでもある。もう一つは「あと少しできっと全てがよくなる」という希望であり、上の疑問に苛まれる二人を慰めるために見出された期待である。そして最後の一つは、自分達の苦しみはまだ始まったばかりであり、本当の困難はこれから始まる、この不安定な関係はまだ安定を得ることが出来ないという、直観的な気づきだ。直観の恐ろしさはまさにここにある。 言葉では上手く言えず、はっきりとは説明できないが、身体的に、強くそれを感じとってしまう。だから下手な論理よりもはるかに説得力があるのだ。

 私自身、「あと少しで何かが掴める」とか、「もう少しで欠けたピースが埋まる」とか、そんな予感に襲われることが多い。しかし、そんな時はいつも決まって、中々その「あと少し」が埋まらないのである。まさにこの『犬を連れた奥さん』と一緒だ。どうすればここから抜け出せるのか?あと少しで何かが掴めるはずなのだが……しかし、そのあと少しにいつまで経っても手が届かない。だからその先がまだまだ長いのを感じる、というわけだ。

 時に、ベルクソン哲学の面白い所は、問題設定についての思想を編み出した点にあると思われる。世の中には、正解不正解より先に、そもそも問題が上手く設定されていないことが非常に多い。丁度チェーホフの例と同じで、問いへの答えは出ているが、その問いから抜け出せないのである。するとそもそも、問題の設定の仕方が間違っているということになる。

 思弁的なレベルでいえば、問題というのは問えば必ず答えが出るようになっている (この単純さが論理のいい所だ) 。言い換えるならば、真の「正解」にたどり着くためには、そもそも優れた問題を設定し、創造する必要があるわけだ。

 私にしても『犬を連れた奥さん』にしても、恐らくはそもそもの問い方が悪いのである。観点を変えれば、条理も不条理になる。「あと少し」を埋めるための方法は、きっとこれまでの物語の筋書きからは外れた観点にしかないのである。ただ人は、「これまでの物語」を踏まえなれば、ある一つの観点に立つことも出来ないし、また「ある一つの観点」しかないように思えてしまうのである。丁度、『犬を連れた奥さん』をはじめから読んだ者が、その終わり方( = 観点)以外に世界線がないと思われるのと同様に。


 ただ、あれは本当に美しい小説であった。今日までに何冊か恋愛小説を(長いものから短いものまで)読んできたが、あれほど美しいものはそう見なかった。書いていたら、久しぶりに読みたくなってきた。にも関わらず、部屋の中を探しても、中々それが見つからない。どうやらなくしてしまったらしい。また古本屋で買い直さなければならないようだ。


 今日の夜、友人の家に何人かで集まり、餃子を作って、焼いて食べた。食べている最中、私は当然の感動に襲われて、少し泣き出しそうになったのを、今ここで白状したい。それは、なにも出来た餃子が泣くほど美味かったからではない。このように人と食卓を囲むのが随分久しぶりのように思えたからだ。

 私はよく友人の家で共に調理をするし、人の手料理を食べるのが久しぶりという訳でもない。ただ、このように、男女混合で、テーブルと椅子があって、座りながら和気あいあいと食事を共にするということは、私にかつての家庭の記憶を思い出させた。もうずっと前に忘れたはずの記憶である。懐かしいような、嬉しいような気がした。だから、何か胸に込み上げてくるものがあったし、目の上に涙が溜まりそうになった。ただ、ここで泣き出すのはあまりにも馬鹿らしいというか、滑稽なように思われた。そう、滑稽なまでに感傷的である。そして、自分の滑稽さに気がつくと、心も落ち着き、感傷的な気分も去っていった。


 自虐。人が自虐するのは、自分のある側面を見て、それを滑稽に思ったからである。ただ、全ての人がそれを滑稽に思うわけではないし、むしろ自分から見て滑稽に見えるものとは、他の人から見れば悲しげに見えるものだ。だから自虐的になるほど、人は他人と笑う観点がズレていくこととなる。そしてこのズレが、益々自虐を加速させるというわけだ。


 あらゆる芸術家はある程度の厭世家でもある。世の中が嫌いでなければ、人は芸術になど傾倒しない。

 何となしに立ち寄った古本屋で、ドストエフスキーの『白痴』の二巻と三巻(望月哲男氏の訳したもの)が、それぞれ百円で売られていた。『白痴』はドストエフスキーの小説の中でもとりわけ思い入れのあるものの一つである。初めて小説を読んでいて辛い気持ちになったものだ。特に後半はあまりの悲痛さに読むのに時間がかかった。が、それだけに思い入れのあるものである。当時は木村浩の訳で通読したが、私は望月氏のファンでもあったので、以前同じように中古で安く氏の訳した『白痴』一巻を見かけた時、それを買っておいたのである。もう一年近く前の出来事だ。こうして月日を大きくまたいで、私は望月訳の『白痴』を全巻揃えることとなった。それと同時に、それを再び(違う訳者によるもので)読むきっかけをも得たというわけだ。

 読書好きの人とはこれまでに何度か出会ったことがあるし、またそのような友人も何人かいる。ただ、それぞれがそれぞれ、違った読書の趣味を持っていて、同じ作家や本に対しても違った意見を持ち、時には意見が合わないと感じることも多い。しかし、それでいいのである。他から見れば、私もきっとそのように見えているのだろう。何であれ、自己を見出すという作業は、他には上手く理解されないものを抱くということなのだ (「人生とは、このように、小さな孤独の数々から成り立っている」と、ロラン・バルトは書いていた)。

 もとい、だからこそ私達はなお一層に本を読むのだろう。そして、これは読書に限った話ではないのではないか。本であれ音楽であれ、または絵画であれ映画であれ漫画であれ、何かの作品に触れて「これは自分だ」とか「自分のことを言っているんだ」とか、もしくは「この人は自分の言いたいことを言ってくれている」と感じさせるものがある。そして、そういったものこそ、真に私達の心を揺さぶる作用を持つ。しかも、何故このように感動するかとなれば、心の中でぼんやりと感じていたり、理解は出来れど上手く言葉で説明出来なったものを、それらの作家達が作中ではっきりと、自分の代わりに表現してくれているからである。

 読書は自分が語るべく言葉を見つけるための作業だ。しかし、それと同時に、創作行為とは、あらゆる芸術家が、他の語りえないもの達のために、彼らの代わりとして、何か大切なことを語るということなのである。よって、創作行為には常に表現が付きまとうが、それは自分と同じものを感じる仲間へ、遠くいる友へ、彼らのためにメッセージを送ることであり、私達があらゆる作品に触れるのは、このような仲間を、遠くにいる友人を見つけ、理解するために触れるのだと言っていい。


 自意識は反省する事によって生まれる。個性的な人とは、何らかの形で反省する事を知った人のことを指す。

 アリストテレスは暇(スコレー)が人間の文化を支えるために必要なものだと考えた。これは何も、文化というものが必ずしもブルジョワ趣味に基づいて成り立つということではない。そうでなくて、人間は自分の時間を持たなければ物を考えるということを学ばないことを意味している。

 人は変えられることが殆どであって、変わろうとして変われる者は稀である。


 恐らくだが、今自分が「足りない」と思っているものが埋められても、私はまた「自分には何かが欠けている」と感じることだろう。今日までの自分の人生は、結局それに尽きるように思われる。何かを追い求めて、捕まえたと思っては別の何かをまた追い求める。そして、それを繰り返している。いつも何かが欠けている気がする。自分には何かが足りない。それは、そもそも自分が根源的に何かを失っているのであり、今の自分の求め方では決してそれが埋まることはないという事なのだろう。なるほど、やはり私は問題設定が間違っているらしい。またはじめからそれを問いたださなければならない。

 確かロマン・ロランは次のように書いていたはずだ。「我々の思想はそれぞれ、我々の生涯の一瞬間に過ぎない。もし生きるということが、自らの誤謬を正し、おのれの偏見を征服し、おのれの思想と心とを日々拡大する、というためでないなら、それは我々にとって何の役にたつのか」と。

 今の私には、それよりも正しいと思える言葉を知らない。