20/09/09

 食事を摂るのは何故こんなにも面倒なのか。毎朝、目が覚める度にそう思う。

 私は基本料理をしない。誰かといる時ならするかもしれないが、一人でいる時は絶対にしない。普段の食事は買って済ませている。菓子パン、コンビニのおにぎり、カップ麺。この四年間で、どれだけそれらに世話なったかは知らない。お気に入りのカップ麺は『どん兵衛』シリーズで、新作が出る度にそれを買っている。おにぎりなら、ファミリーマートから売り出されている『卵かけご飯ふう』が好ましい。

 このような自分の食生活に、不満を覚えることも殆どない。むしろ悪くないと思ってきたから今日まで続けているのである。健康なんか知ったことか。健康に気を使うあまり神経質になる方が、遥かに不健康な話ではないか。

 部屋に食糧がないから、いつも何処かに買い出ししに行かねばならない。時には事前に買っておいたスナック菓子で食事を済ませることもある。で、これが結構悪くないのである。


 子供の頃は、脂分の強い料理を食べるのが苦手であった。しかし家族は私と反対にそういった料理が好きであった。だからよくよく苦労もした。ご飯を食べたふりをして吐き出す、ということもよくしたものだ。で、それが後になって知られて、怒られたこともあった。

 昔ほどではないが、今でも時折「脂への嫌悪」を覚えることがある。今日も気まぐれで入ったラーメン屋のスープがあまりにも濃くて、食べた後に吐き出してしまった。やはり、あまり慣れないことはするべきではない。


 ミヒャエル・ハネケの一連の作品には、共通して一つの特徴が見受けられる。それは一般性への告発である。彼の映画にはよく、一般性を代表したような中流家庭、裕福で、一見すると恵まれているようにさえ思われる家庭、または人物が登場する。そして、その一般性というものが、果たしてどれだけ秘密をおしつぶすことによって成り立つかということが、恐らく彼の全作品に通ずるテーマの一つである。

 たとえばであるが、私達先進諸国の一般的な生活は、後進国の犠牲なしでは成り立たない。資本主義の発展にしても、その輝かしい進歩の裏には常に犠牲がつきまとう。ヘーゲルは「ナポレオンが歴史を前進させるためには、道中の花を踏み潰すのは仕方の無いことだ」と語ったが、そのナポレオンの功績を語られることは多かれど、ナポレオンの影響でどれだけ多くの死者が出たかはあまり語られない。規模の大きな話になるが、これが私達の現実である。美しい表面は、いつだってその裏にあるものを押し潰した先に成り立たない。

 それで、私達は後進国や、これまでの歴史で犠牲となった国や人を踏み台にして毎日を生きている訳だが、果たしてそんな私達の中で、どれだけの人が胸を張って「私は幸せだ」と言えるだろうか。間違いなく少数だ。これだけの犠牲を払って、これだけの恵まれた生活( = 一般性)を獲得したのにも関わらず、誰も、何も楽しそうな顔をしていない。これは明らかにおかしい。それは子供にだってわかる事だ。では、誰かがこの現状を変えなければならないはずだ。

 しかし誰もその事を口にしない。何故か。そうする事で一般性が壊れるのを恐れ、一般性から外れるのを恐れているからだ。トルストイの小説「イワン・イリイチの死」の冒頭場面が、まさにその事を上手く説明してくれる。イワン・イリイチの友人がイワンの死について考えている時、彼はふと自分も彼と同じように苦しんで死ぬのではないかと思い、恐ろしくなるのである。が、次の瞬間にはその恐れも消えている。何故なら、それはイワンに起こったことであり、自分に起こったのではないとして、見て見ぬふりをしたからである。私達の生活とは、このように、何か自分を不安にさせるものを押し潰さなければ成り立たないのである。

 こんな生活の中で、私達の性根が腐るのは当たり前だと言える。一般性を徹底した先にあるのは、常に一般性の腐敗か、またはその崩壊なのである。ハネケはそれについてを上手く書いている。彼の代表作とも言える『ピアニスト』は、ある女流ピアノ教師が主人公である。母親からの厳しい道徳的な教育( = 一般性の押しつけ)と共に育ち、未だに束縛の強い母と共に生活をしている彼女は、恋愛経験が殆どなく、中年になっても尚男性との付き合い方がわからない。だからある日、目の前に彼女に求愛する若い美青年が現れても、それにどう対応すればいいかもわからない。母の束縛のためにむしろ性癖の歪んだ彼女は、ある日「私を殴って」とお願いをする。しかし実際に彼に殴られると、彼女は痛くて泣き出す。いつも見ているアダルトビデオのように振舞おうとしても、理想と現実があまりにも違うので、ただ恥を晒すだけで終わるのである。

 何故一般性は悪なのか。それは、一般性が虚構であることしか出来ないという点にある。物理学の法則というものは、ある一定の状況下を想定して、その場合に起こる事を前提として発見される。これと同様に、一般的なものとは、常にある一定のものを想定されて見出されるものだが、言い換えるならば、人は常に一般的なものに類似していることはあれど完全に当てはまることはないのである。何故なら、人間存在とはそれぞれが根源的な差異を抱えたものだからだ。

 それぞれの存在には、それぞれが発生した環境、時間に、どれだけ似通ったものの間同士でも違いがある。だから、一般的なものを自らに体現するとしたら、それは一般的なものに当てはまらない自分自身の差異を押しつぶすこととなる。『クレヨンしんちゃん』の野原一家は一般的だろうが、野原一家に似てはいても、完全に当てはまる家庭など一つとして存在しない。で、この一般的なものと自分を比較して、似ていないところを見つけると、「どうして自分は普通になれないのだ」と悲嘆する。しかし待って欲しい。一般性とは、そもそも虚構であって、存在しないのである。

 それだけではない。こうして一般性と自己との間に生じる葛藤は「悲しみの運動」へと繋がる。人は自分が与えられたことのあるものしか他人に与えることが出来ない。言い換えるならば、これは悲しみを与えられた人は、他人にも悲しみを与えたいと願うということなのである。不幸とは伝染病だ。ルサンチマンとは伝染するのである。

 最近観た映画に『WAVES』というものがあるが、それもまたこのいい例だと言える。筋書きだけを見るとありきたりな青春映画に思われる作品だが、この映画の独創性は、アメリカの比較的裕福な黒人家庭に焦点が当てられているという点にある。黒人で豊かな中流家庭を築ける人が増えたのは、本当に最近の話だと思われる。だから家庭内における子供に対して、父親が「俺達の世代はお前達よりも苦労した」と辛く当たるのは容易に想像できる話だ。前述の通り、ルサンチマンは伝染する。子よりも強く迫害を受けた父は、子に厳しくあたる事で自らの苦しみのツケを支払おうとするのである (話は逸れるが、これがマッチョイズムの非難される理由の一つでもある。マッチョイズムとはルサンチマンによる虚構である。「俺も頑張ったからお前も頑張れ」の裏にあるのは、「俺はこんなに苦しんだのだからお前もこれくらい苦しむべきだ」という漠然とした他者への復讐心の表れである) 。

 再びハネケの話に戻るが、こうして彼の作品に共通する、あるもう一つのテーマが、すなわち「有罪性の問題」が浮かび上がってくる。

 罪。罪とは何か。ドゥルーズによれば、無私( = 無償)の邪悪さとは存在せず、あらゆる「悪」は、利益を求め、償いを求める運動だという。では、それは何のための利益か、何のための償いか。そう、悲しみの、である。ここにもまた、「悲しみの運動」が、ルサンチマンの発作が見受けられる。

 一方で、ハネケも指摘している通り、私達の犯す「罪」とは、意識的というよりかは、気が付かないうちに犯したものの方が遥かに多い。先程書いた『WAVES』の話に、少しだけ戻ろう。黒人として差別されて育った父は、当然のように裕福な生活を送る息子に厳しく当たる。その反動もあってか、息子は作中で非常に大きな罪を犯すのだが、それは重要ではない。重要なのは、このように、不幸が伝染し、連鎖しているという事である。父からすれば、息子の罪は息子の責任である。しかし、よりよく見るならば、父の厳しさが息子の過ちに繋がったのは否定出来ない。しかし、その父にしても、遡れば黒人として強く差別された歴史を持つのである。

 罪の根源はルサンチマンにある。そして、私達人間の存在とは、常にルサンチマンと切り離して考えることが出来ない。これもあってか、それともキリスト教的価値観に基づいてか、ハネケはこう断言する。「私たち人間は本来罪深いものである」と。なるほど、それは否定出来ない。では私達はどう罪に向き合って生きていくかということになる。

 文化への傾倒は、恐らくこのルサンチマンから逃れる方法の一つだと言っていい。私達の内で、何らかの作品に感動したことがある人ならば、誰でも一度は「凄い、これを作った人はまるで神様みたいだ」と思ったことがあるに違いない。私にしてもそうだ。たとえばキース・ジャレットの『ケルン・コンサート』を初めて聴いた時、私には彼が永遠のヒーローのように思われた。このように、何かに感嘆するということは、自分の感嘆した何かの持つ可能性を信じるということでもある。文化への傾倒とは、それを生み出した人間の偉大さを信じるということだ。

 しかし、文化は人を孤立させる。そうでなくとも、文明の発達とはメディア(媒体)の発達であるわけだが、それは人を益々孤独にさせるものなのだ。これもまた、ハネケの指摘していることである。すなわち、メディア(媒体)が豊富になり、それに囲まれるほど、私達は生きた心地を、現実を生きている実感を失っていくのである。

 夏目漱石は、恐らくいち早くこの問題を指摘した作家だと言える。彼の後期作品には、常にある一定の人物が登場する。それは、ニヒリズムに苛まれる文化人の姿である。哲学にも芸術にも素養があり、教養高い文化人、だがいつも心のどこかで虚しさに苛まれ、身近な誰かさえ信じることが出来ないでいる。『行人』の主人公などまさにその典型である。そう、文化は人を孤立させる。そして、孤立するほど、人は虚しさに苛まれ、何をするのも億劫になる。

 ではこの孤立の問題を解決するものとは何かとなれば、それはより深い他者との関係の回復である。


 ヴィスコンティの映画に『家族の肖像』というものがある。「家族」を描いた絵画に囲まれて過ごす孤独な老教授のもとに、ある日風変わりな家族が押しかけてくる。半ば無理やり教授のもとに居座る彼らに、何やかんやと言いながら、教授は彼らと同居し続けるのである。

 初め観た時は、映画の善し悪しはさておき、教授の心情にあまり感情移入をすることが出来なかった。裕福で、自らの知的好奇心を満たすだけのものも揃っていて、孤独に、自由に生きることの出来る環境を持っている。レコードプレーヤーから流れる美しい音楽、寝る前にベッドの上でする楽しい読書、目を上げれば絵画の住人達が微笑んでいる。で、そんな孤独な生活をかき乱すような人間と共に生活する。あまりにも理解できない話だ。

 がしかし、最近になって、私はこの教授の気持ちがわかるような気がしてきた。そう、孤独に生きるには、人生はあまりにも長い。何より、私はまだ若い。情熱も有り余っている。そして、私にはこの情熱をぶつける相手が必要だ。まあ、そう簡単にそういった相手と出会えるものでもないのだろうが。


 電車に揺られながら、ふと外に映る景色を眺めた。時刻は既に夕暮れの訪れを告げていた。淡い青紫の空に、燃えるような夕陽が差し、入り交じっていた。で、それをふちどるように、雲が大海の波のように、またはなにか大きな生命のように入り乱れ、動いていた。それはあまりにも美しい光景であった。私はまるで絵画の中にいるような心地がした。昔から、このような景色を前にすると、私はまるで神の前に立たされているような気がしてきたものである。きっと天の上には神の国があると信じていた古来の人々の気持ちが、わかるような気がしてくるのである。

 それから目の前は真っ暗になって、電車がトンネルの中に入ったのを知る。それまでの雄大な空模様に代わって、私の顔が大きく映し出された。昔に比べて、少し顔が丸くなったかもしれない。