20/09/15

 物語の終わり、それは常に物語の中盤に内在している。しかし、私達を魅せる物語とは、いつだってその終わりを予測させないものである。

 それは感動の作用というものが、いつも不意に訪れ、後ろから突き刺すようにこちらを襲うものだからでもある。たとえばある人が幸福を夢想していたとして、やがてその幸福が、自分の夢見たとおりに実現したとする。その時、きっとその夢想家は、現実に対してかすかな失望を抱くだろう。何故なら、夢への思い入れが強いほど、夢と現実の微細な違いに悩まされるからだ。

 よってあらゆる幸福とは、常にこちらの予想を多かれ少なかれ裏切らなければ訪れないものだと言える。それと同様に、「これは一体どうやって終わるんだ」と思わせる物語でないなら、それは物語として優れていないのである。


 人生はよく物語に例えられる。実際、人は自分の人生をまるで物語のように語ることもある。ただ、一つのものの定義とは、常に同じものとの比較によってしか成り立たない。そして、あらゆる生命の特徴は、それがたった一度きりのものであるということにある。ただの一度しか起こらないものとは、実際、一度も起こらなかったようなものである。一度しかない人生とは、常に定義出来ず、不確定で、答えの出ない虚構であり続ける。

 人生の本質は、このように、人生そのものの虚構性にあると言える。

 また人は、よく物語を意識しながら物事を考えようとする。ことに恋愛においてはそうだ。ニーチェディオニュソスアリアドネの関係を意識して女性に求愛していたろうし、『存在の耐えられない軽さ』のテレザは自分と同じトルストイの読者であるとしてトマーシュに惹かれた。トマーシュにしても、自分のもとに来たテレザの姿に『出エジプト記』の冒頭を連想した。小説的な性格をした人なら、きっと自分の現状と最近読んだ小説の内容を照らし合わせて、そちらに合わせるように行動するだろう。

 ただ、物語は世界の新しい見方を教えてくれはすれど、実際の人生が自分のよく知る物語のように進行することは稀である。それは、どれだけ自分に似ていると思った主人公にしてもそうだ。この私にしても、今日まで読んできた本の主役と、よく自分自身を重ね合わせたものだ。かつて、私はツァラトゥストラであったし、マルテ・ラウリツ・ブリッゲであったし、ジャン・クリストフであった。ジュリアン・ソレルであったことも、ハンス・カストルプであったこともある。一度は三四郎であった気がしなくもない。

 が、結局はその誰でもなかったのである。私の読んだ物語の主人公と実際の私の間には、経験した内容の差異があり、生きている時間の差異がある。となると、どれだけ自分の知っている物語のように生きようとも、そこにあるのはただの欺瞞だけとなる。

 こうして考えを巡らせると、ふと、物語を見出すことと問題を設定することが似ている、ということに気がつく。

 前述の通り、物語というものは、常に結末を内側に含みながらも、その結末が予測できないものであり続けるものだ。言い換えるならば、予測可能な結末に物語を収拾させようとするものは、既にその時点で物語として失格なのである。時に、問題設定というものは、常に実際の出来事に照らし合わせることで発明される。物語もこれと同様で、物語というものは、常に現実の出来事からの影響をなくして考えることが出来ない。それは丁度、現実に即して夢という発明品が生まれるのと同様である。

 問題設定にしても物語にしても、重要なのはいかにして創造的な発明をするかということである。人は自分の知っているものにあわせて物事を考える。逆に言えば、もし新しい知識を編み出すことが出来たならば、人の考える内容にも新たな局面が見えてくるわけだ。優れた問題設定が、新しい物事への見方を与え、これまで見過ごされていた側面に焦点を当てるように、優れた物語の発見は、常にこれまでは見過ごされていた、生きられなかった世界の発見へと繋がり、実存することの意義を与えてくれるのではないか。私が言いたいのはその事なのである。


 受け入れてもらえると思ったものが受け入れてもらえない。恐らくこの気づきにこそ、多くの人の出発点があるに違いない。自己の発見とは、いつだって他人には理解され得ないものを見出すことである。

 影響を受けるということは、その影響を脱した後になって初めてその真価が理解できるようになる。何かから学ぶことは、同時に何かより脱することでもある。


 コインランドリー。私の部屋には洗濯機がない。だからよくコインランドリーを利用する。

 最寄りのコインランドリーは家から歩いて五分前後の所にある。が、わざわざそこまで行くのが面倒で、よくよく行くのを延期してしまう。だから結果として、いつも物凄く洗濯物が溜まる。

 今回にしてもそうだ。数日前から、そろそろコインランドリーに行こう、コインランドリーに行こうと思いながら、行くのが面倒で、結局今日までそれが伸びてしまった。今日にしても、「行かないと」と思いながらも、気分が憂鬱で、どうにも行くつもりになれなかったが、ついに重い腰をあげていったのである。

 世の人々を見ていると、よく疑問に思う。どうすればそう生きることの隅々にまで気を使えるのだろう?言い換えるならば、どうすれば自分の情熱をそこまで拡張し、拡大することが出来るのか?

 そしてこの問いは、同時にまた次の問題提起にも繋がる。つまり、いかにして理性 = 自意識の王国から抜け出すかということ。