20/09/21

 人は過去の奴隷なのか。時折、そんな疑問が頭に浮かぶような場面に直面する。なるほど、それはそうかもしれない。しかし恐らく、過去のくびきから逃れる方法が、ただ一つだけ存在しているのではないか。

 それはつまり、過去を内省するということである。過去というものは、向き合わなければ逃れることも出来ないものなのだ。


 昔から、私は度々突発的な不安に襲われることがある。いつもそうではないが、時折そういう症状に苛まれるのである。で、そういう時は、不安で本が読めないことも少なくない。まるで何を考えたり、感じたりするようこちらを強いるものを、無意識的に避けているかのようである。これ以上考え事が増えて、悩み事が増えることを恐れているのである。

 だから考えなくてもいいものや、自分の不安を紛らわすようなものを、手探りで求めるようになる。意味もなくSNSを開いたり、必要のない調べ物をしたり、とにかく毒にも薬にもならないような情報を見ることで、今ある苦しみから目をそらそうとするのである。しかし、そうなると、今日もまた何もしなかった、無意味な時間を過ごしてしまった、という後悔が日に日に募るようになる。時に、人が不眠症を患う理由はいくつかあるが、その内の一つとして、終わる一日に満足が出来ないからというのがあるのは間違いないことだろう。要するに、無駄にしてしまった時間を悔いたり、本当はもっと実のあることをしたいと思っている分、過ぎていく一日に満足ができず、日に日に眠れなくなっていくのである。

 こうなるとどうしようもない。結局、数十ページ集中して本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、楽器を弾いたり、自分が避けていた「不安にさせるようなもの」に向き合った方が、遥かにマシな結果に繋がる。要するに、過ぎる一日に満足も覚えられるし、不眠に苛まれる時間も減る。実際、どれだけ不安を覚えていたとしても、何かを始められればこちらのものなのである。問題は、始めるまでに時間がかかるという、まさにその点にある。


 かつて、今よりもずっと苦しい時期のことである。当時、私はよく「どうしてこんな事が起きねばならんのだ」とか「何故こんなに苦しまなければならんのだ」とか、そんな事を考えたりした。それもあって、以来私はよく次のような事を考えるようになった。つまり、 いかにして苦痛を最小限に抑えて、喜びを最大限に味わうかということ。

 がしかし、やがて私はそれが無理なのだということに気がついた。プラトンを含む多くの人が古来から書いていることだが、苦痛と快楽というものは、正反対なようなものに見えて、まさに一つのものなのである。ある人の感じる苦しみの度合いとは、まさにそのある人の感じる喜びの度合いでもあるのだ。苦しみが多くなるほど、人は些細なことにも感動するようになるし、喜びが少ないならば、そもそも苦しみさえもあまり感じないのである。

 時に、私達は皆幸福を求める生きる存在だ。だから何があっても喜びを得ようとする。が、喜びを得る程、人は苦痛を感じやすくなる。よって、人は幸福を求める生き物であるが、同時に決して幸福になれない生き物でもあるわけだ。思うに、この逆説的な点にこそ、私達人間の本質があるのではないか。


 「自分は唯一無二の存在ではない」という言葉をよく思い浮かべる。それは、一見すると否定的なものに思われるかもしれない。が、肯定的な側面もそこにはあるのではないか。というのも、言い換えれば、それはどんな人にも必ず同類がいるという事だからだ。もし私が唯一無二でないならば、きっと何処かに私と同じような人間がいるはずだ。そして私達は、だからこそ、自分と同じ人間を求め、半身を求め、片割れを求めさまよい歩く存在なのではないだろうか。

 ニーチェの思想の中では、運命愛と無神論という、一見すると相容れないような二者が同時に存在している。これは一体どういう事なのか。ニーチェ無神論の意義とは、まさに人間という存在の目的のなさを指摘した点にある。つまり、一切は偶然の戯れであり、ただ私達がそこに何らかの解釈を与えているに過ぎないのだということ。人生に意味はなく、ただ私達自身がそこに意味を見出しているのだということ。

 しかし、ここからが重要なのだが、もし人生に意味がなく、一切が偶然の戯れであるならば、同時に全てのことは必然であり、運命的なものであるという事でもあるわけだ。何故なら、一つの偶然は常に他の偶然の原因となるからだ。あらゆる出来事は連鎖的、連続的なものであって、ひとつの流れから区別して語ることが難しいのである。だからこそ、全てが偶然ならば、全ては必然だということでもある。つまり、偶然というものは、常に一つの運命なのだ。こうして、無神論と運命愛という、一見すると正反対のように見える二つの思想が、ニーチェ哲学の中で一つのカップリングをなすこととなる。運命愛とは、まさに無神論的な世界観の肯定と求愛を意味する。


 全ての喜びは永遠を欲する。人は何らかの幸福を覚えた時、同じ幸福が再び繰り返されることを求める。が、人間とは直線的な存在であるから、一度何かを経験してしまったら、それを踏まえた上でなければ生きることが出来ない。要するに、「同じ幸福」を求めている時点で、既に私達はかつてと同じような幸福を味わうことが出来ないのである。

 経験の本質は繰り返される事にある。どんな場合であれ、かつての出来事や思い出を想起させるような現在に直面せずに生きてきた人などいないであろう。しかし、丁度かつて全体主義で失敗したことのある国が、再び全体主義が台頭した際に「かつて」を踏まえたような批判が多く出てくるのと同様に、「かつて」と似たような出来事は起これど、「かつて」と全く同じ出来事が繰り返されることは決してないのである。前述の通り、経験の本質は繰り返されることにあるが、同時に経験とはどんなものでも常に一度きりのもの、かつてには存在しなかったものなのである。

 永劫回帰……この事は私に永劫回帰を思わせる。同じような出来事の繰り返しと、その内に見出される「新しさ」の連続。何かが繰り返される度に、私達はそこにかつてにはなかったものを見出す。それを新しさと見るか、変化と見るか、悲劇と見るかは人によるだろう。ただ、全ての喜びは永遠を欲するのである。言い換えるならば、人は望ましくないものが繰り返されるのを排除しようとするわけだ。永劫回帰は常に新しいものを産出し続け、同時に「喜び」に反するものを排除し続けようとする。そしてそのループが永遠に繰り返される。そう考えると、永劫回帰の思想はいかにも壮大で、私はまるで目の前に宇宙を広げているような気持ちになるのだ。


 日記を読み返していて度々思うことだが、我ながら誤字脱字が酷い。本当に酷い。以前から気をつけていることではあるが、中々直らないでいる。あと、所々読んでいて恥ずかしくなる節がある。よく正気でこんな事を書けたなと、書いている時の自分に対して思うことも少なくない。きっと、今日も日記もいつか読み返した時に、また似たような感想を抱くのだろう (出来れば避けたいことではあるのだが)。

 その人の書く言葉には、常に何かしらの形でその人の性格が表出しているものなのかもしれない。最近、ある友人の書いた文章を読んで、そう思ったのである。じゃあ、改めて自分の文章を読んでみると、なんというか、実に辛気臭い印象を受ける。皮肉屋で、神経質なところがあるが、いつも肝心なことが抜けていて、しまらない。ズボラだ。おまけに冷笑的なところがあるくせに、感傷癖が酷い。自己愛も大いに強いと来ている。とにかく、耐え難いものがあるのは間違いのない事だ。

 しかし、こうして考えていると、少し頭が痛くなってきた。この話はここでやめようと思う。


 人生の本質とは人生そのものの虚構性にある。あらゆるものの定義とは、他の同類との比較によって成り立つが、あらゆる人生とはたった一度きりのものであるから、比較が成り立たず、それ故に正解も糞もない、というわけだ。

 にも関わらず、人はよく今とは違った場合の人生のことを考える。それは人が、常に他人の中に自分の面影を見出すからだろう。それは同時に、あったかもしれない人生の可能性を見出したということでもあるからだ。

 私達はいつも、自分が酔える自分の姿を追い求めているのではないか。それは、どれだけ自己否定的な人についても言えることだ。私達は常に、自分の愛せる自分であろうとする。それは、自分自身をドラマ化したいがためではないか。私達は皆、自分が主役になれる場所を、自分自身をドラマ化できる舞台を探し求めているのである。


 かつてハネケは次のように語ったことがある、「芸術作品には、常に別の世界への希求がある」と。彼によれば、たとえそれがどれだけ残酷で、冷酷なものを描いているとしても、そこには常に、そのような現実のグロテスクを告発することで、よりよい現実への希求が含まれている、というのである。そして、私が思うに、それは芸術に限った話ではないのである。

 人が何かを生み出す時、たとえ生み出されたものがどれだけ悲嘆に満ちたものであろうとも、そこには常にその嘆きの解消された世界への祈りが含まれている。人によっては、嘆くという行為によって自らを始める場合さえあるからだ。嘆きには常に希求が含まれている。祈りが含まれている。だから、それは今ある世界を覆そうとする意志でもあるわけだ。