20/09/24

 男は男で固まって、「女にろくな奴なんていない」と言う。女も女で集まって、「男にろくな奴なんていない」と言う。双方ともに大きな誤解をしている。男にも女にもろくな奴なんてそうそういない。ただ、どんな人にも必ず愛すべきところがあり、そしてだからと言って、私が「ろくな奴」だというわけでもない、ということである。

 人間愛と人間嫌いは常に表裏一体な関係にある。私は人間を愛しているが、かと言って人と関わるのが好きなわけではない。むしろその逆だ。では何故「人間を愛している」と言えるのか。それについては、ただ一言「人間を苦しめるのが同じ人間であるならば、人間を癒すのもまた同じ人間である」とだけ述べておこう。結局、人が一番興味を抱くものとは、同じ人間にまつわることなのである (だから社交の場ではいつもその場にいない人の話がもちあがるわけだが) 。


 秋、一年の間に訪れる夕暮れ。秋が来る度に、私はよくボードレールリルケの詩を思い出す。「やがて我らは冷たい闇に沈んでいく。さらば、短すぎた夏の激しい輝きよ!」「主よ、秋です。夏は偉大でした。あなたの陰影を日時計の上にお置き下さい……」


 ロマン・ロランも書いていたが、この世にはいつも二通りの人間しか存在しない。つまり、健康な人間と不健康な人間の、その二通りである。

 この場合、健康とは、何も気を病まないとか、体調を崩さないとか、決してそういう意味ではない。気を病まず、病気にもならないよう注意して生きる方が、ロマン・ロランには遥かに不健康に思われただろう。では、ロマン・ロランの考えた「健康」とは何か。それを紐解くヒントは、ロランにも影響を与えたニーチェの中にあるように思われる。

 病苦に苛まれ、激しい吐き気や、この世界で自分がたったひとりぼっちであるような感覚に襲われたとしても、ニーチェは自身を「健康な人間」と称して止まなかった。それは決して強がりで言っているのではない。彼は本気でそう信じているのだ。ニーチェには次のような指摘がある。自己保存の法則(「あらゆるものは自己を保存しようとする」というスピノザの考え)には、いつも追い詰められており、自己の拡張を忘れた人間存在の状態をしか考慮に入れていない。あらゆる存在は、豊かになれば、自らを保存するよりもむしろ自らを拡大し、溢れさせることを求めるようになる。つまり、健康な人間とは、何らかの形で自己から溢れ出ることを求める、高い強度を持った人間のことを指すのである。

 時に、ドゥルーズは自殺によって自らの生を締めくくった。それについて、彼の本を訳した宮林寛は、ドゥルーズ自身の次の言葉を引用した。「主体化こそ、線に挑み、線をまたぐ唯一の方法なのです。その結果、死や自殺に向かって歩むことになるかもしれませんが、(……) その場合、自殺は生に溢れた一つの芸術になっているのです。」

 芸術作品としての生を生きるということ。ドゥルーズにはフーコーに由来する考えの一つとして「芸術作品としての生」というものがある。そして、それは同時に「実験としての生」でもあるわけだ。

 私達それぞれを構成しているものの関係とは、やはりそれぞれによって異なっている。言い換えるならば、私達には互いに一概にすることの出来ない差異を抱えながら生きている。よって、人が豊かに生きる方法とはそれぞれ異なるわけだが、だからこそ私達は自らを実験に晒すことによってしかその最善を知り得ない。実験することが芸術作品としての生を生きることに繋がり、健康とはまさに芸術作品としての生を生きることにあるのである。ドゥルーズの自殺も、私には、生を豊かにするための一つの手段であったように思われる。彼は実験した末に、自殺が自分の生に必要であると判断したのではないか。

 では、実験とは何か。そのような問いが思い浮かんでくる。実験の本質は間違いを求める点にある。信じられていた一般性から抜け出して、別の、新たな「正しさ」ためには、人は元々信じられていた「正しさ」の道から逸れる必要があるからだ。間違いを求め、道を踏み外すことを求めるということ。そしてこれは、芸術作品としての生に必要不可欠であるのと同様に、倫理的な実存にも必要不可欠なことなのである。というのも、もし倫理的な答えを求めるならば、人は時に背徳的に思われるようなことをも、あやまちをも犯さなければならないからだ。


 部屋で一人で過ごしている時に、過去の恥ずかしい出来事や、後悔していることを思い出しては、変な奇声を上げたり、突発的な叫び声を上げることが多い。これは私の悪い所なのだが、かつて恥を感じた相手に対して、私は中々上手く目の前に立つ気になれない。だから一層それを引きずることとなる。これまでに、どれだけ沢山の恥と後悔を重ねてきたか。それは知らない。我ながら、面倒な性格をしていると思う。

 自分で言うのもなんだが、ある角度から見れば、私は非常に大人である。落ち着いた態度が取れるし、その場に応じた対応も取れる。が、また別の角度から見れば、私は非常に子供っぽい人間である。明らかに、それ相応の経験が不足している。虚栄心から、普段は「何でも知っているんだ」といった態度を取ろうとする。しかしそれも、臆病からそうしているに過ぎない。

 きっとこれからも、私はまた恥を晒すようなことをするのだろう。今の自分にしたって、未来の私からしたら恥ずかしくなるようなことを、気が付かないだけで沢山しているに違いない。考えただけで頭が痛くなってくる。しかし恐らく、今の私に必要なのは、むしろ、あえて間違えようとすること、恥をかこうとすることなのだろう。

 今日まで、私はいつも、出来る限りあやまちを犯さないように、最善な道を選ぶことを願ってきた。それは、無闇な時間を費やしたくないからというのもあるが、それ以上に苦しみを最小限に抑えたいからというのがあった。しかし、ある一定の喜びを願うならば、私達はそれ相応の危険を侵さなければならないのではないか。そう、実験の本質は間違いを求めることにある。今の私に必要なのは、道を踏み外すことだ。

 もとい、道を踏み外したい。しかし、どこに私の踏み外すべき道があるのだろう?それさえもわからないのである。


 仮面を剥がせば、また別の仮面が現れてくる。この世においては、一切は仮面である。よく「ありのままの自分」という言葉が囁かれるが、人々がよく見落としている問題は、まさに大抵の人が自分自身の「ありのまま」を知らないという点にある。私達の本性とは、いつだって仮面を通してしか現れないのである。

 それは丁度音楽に似ている。ハ長調ロ短調など、音楽にはよくそれぞれに調性が与えられたり、またはそうでないとしても、ソナタ形式交響曲など、何らかの形式を与えられることが多い。これは、そもそもそれら仮面を与えなければ、纏まった音楽作品というものが成り立ち難いという点にある。音楽家というものは、十二音の何の規則もない混沌の中に、複数の規則 = 仮面を与えることで、音楽作品というものを成り立たせる。

 この事は私達の日常生活のことを思わせる。というのも、人は自分の知っているものに(とりわけ共感できるものに)自らを寄せていくからだ。たとえば一人の子供が、液晶画面越しに観たミュージシャンの身振りの真似をするようになる、など日常生活の何処にでも溢れている出来事だが、この些細な出来事は、私達に「仕草よりも先に人があると言うよりかは、人よりも先に仕草があり、それが伝染している」ということを教えてくれる。

 もしくは、どこかの女学生が好きな小説に出てきたセリフを、そのまま自分の恋人に言ったり、または恋人の前で、あたかも自分がその小説のヒロインであるかのように振舞ったりする。この事もまた、私達が自分の知っているもの ( = 概念) に寄せることで自己を表現するということを教えてくれているように思われる。

 仮面から仮面へ。しかしこう考えてみると、一切が仮面である現実世界において、一体誠実であるとは何か、という問いが思い浮かんでくる。それは恐らく、それを踏まえてもなお、誠実であろうとすることにあるのだろう。

 人々と共に生きるということは、観客を持って生きるということでもある。他者の眼差しを意識する以上、私達はそれに合わせた振る舞いをせざるを得ない。ここでは、上に書いたものとは別の意味での「仮面」が生じる。だから、「真実に生きる」とは、観客を持たない世界を持つということ、孤独を抱くということ、隠された自己を持ち、秘密と共に生きるということでもある。それは、真実の愛が人目のつかないところにしか存在しないのと同様である。

 これは前述の「芸術作品としての生」の話にも繋がってくる。あらゆる芸術作品の魅力とは、まさにそれが何らかの秘密を有しているように思える点にある。つまり、語られたものよりも、語られないものの中にこそ真実があるということ。私達は仮面を通して自己を表すわけだが、それは同時に、元々不定形な私達の無意識があり、それを意識に表出させるために、何らかの仮面を借りる必要があるということでもある。または、自分の知っているものから自己を語ろうとするから、自ずと自らの知性によって形作ったものを「本当の自分」として語っている点にもあるだろう。どちらにせよ言えることだが、私達は常に、自らの内に潜在している語り得ないものを現働化させることで、自分自身のドラマを生きようとしているのである。

 それを言い換えるなれば、私達の生を真にドラマ化するには、今の自分には属さない自分をも生きようとする必要がある、という事でもある。つまり、今の私には語りえないもの、潜在していて、仮面の裏に隠れていて、私すらも知らない「本当の私」を生きようとすること。こうして「誠実さとは何か」の答えが徐々に明らかになってくる。つまり、生きられない自己を生き、生きられない時間を生きようとすること、それである。

 もし真実に生きたいなら、私達は何らかの形で隠されたものでなければならない。誠実であるとは、そういうことでもあるのではないか。


 最近、よくよく次の二つの文章が頭を過ぎる。この際だから、二つとも長いものではあるが、そのまま抜粋してしまおうと思う。

 「生活は厳しい。魂の凡庸さに己を委ねない人々にとっては、生活は日ごとの苦闘である。そして極めてしばしば、それは偉大さも幸福もなく、孤独と沈鬱の中に戦われている憂鬱なたたかいである。貧しさと、厳しい家事の心配と、精力がいたずらに費やされる馬鹿馬鹿しくてやりきれない仕事におしつけられて、希望もなく、よろこびの光も差さない多数の人々は、互いに孤立して生き、自分の同胞たちに手を差し伸べる慰めも持てないでいる。同胞たちは彼らを知らず、彼らもまた同胞たちを知らない。ただ自分だけを当てにするより他はないのである。そして最も強い人々と言えども、その苦悩の下に挫折するような瞬間がある。彼らは一つの救いを、一人の友を呼んでいるのである。」

 「自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのでなければ、一体どのようにして書けばいいのだろう。まさに自分の知らないことにこそ、必ずや言うべきことがあるように思われる。人は、己の知の先端でしか書かない。すなわち、私達の知と無知を分かち合いながら、しかもその二つを互いに交わらせるような、そんな極限的な先端でしか書かないのだ。そのような仕方ではじめて、人は決然として書こうとするのである。無知を埋め合わせしようとすれぱ、それは書くこと[エクリチュール]を明日に延ばすこととなる。いやむしろ、それは書くことを不可能にするのだ。」