20/10/05

 私にはいつか、ある特殊な自伝を書いてみたいという気持ちがある。つまり、私の体験した出来事とか、自分と誰かとの過去の思い出とかを書くのではなく、私が今日までに出会った作品、または私が今日までに愛したことのある作品についての自伝を書きたいのである。

 作品との出会いには、常に何らかの思い出が付きまとう。深い感銘を与える人との出会いは稀であるが、自分の生涯に大きな影響を与える作品との出会いは、人生においてそう珍しいことではない。数百年前の、どこか遠い異国に生きたある作家の作品が、今現在の私の胸に、ある日突然訴えかけてくる。なんという事だろう。私は遠い昔や遥か彼方の国に沢山の友達を持っているのである。あの作品との出会いは、私にこのような感動を与えた。この作品との出会いは、まさに私がこれこれの苦しみを通過していた時だった……など。まるで夜空を眺めながら、星座を一つ一つ指さすように、私は自分の愛する作品達との思い出を物語るのである。で、一人でいる時には、まるで自分にそれを言い聞かせるように、私の愛するそれらの作品達との思い出に心を馳せる。とりわけ夜道を散歩している時にそんな空想をする。で、その度に思うのである。「ああ、人生はこんなにも豊かだ」と。

 さて、私の愛する映画『ルードヴィヒ』の冒頭には、次のようなシーンがある。ワーグナーに熱をあげるルードヴィヒ二世が、エリザベートに『トリスタンとイゾルデ』の話をする。彼は彼女に是非それを観て欲しいという。そうすれば自分の気持ちがわかるから、と。私がこの場面に共感を覚えたのは言うまでもない。


 高校時代の話になるが、当時私の住んでいた街の近くにあったパン屋で、とても可愛らしい女性が働いていた。私より二つほど歳が上なのだが、全体的に大人しくて、しかし垢の抜けた感じのある人だった。当時の私は、彼女の見た目の可愛さから、きっと性格もいいに違いないと思い込んだ。そして何かしらの形で話しかけて、仲良くなりたいと思い始めた。でもなんと言えばいいかわからなかった。だから作戦を立てることにした。そしてその作戦は、私がこのパン屋を訪れてから四回目の時に行われた。

 そのパン屋はケーキの類も置いてあった。だからその日、店内に入ると、私は彼女のもとに向かい「何か安くて誕生日プレゼントに良さそうなケーキはないか」と聞いた。ついでに理由として「妹が今日誕生日だけど、何か用意するのを忘れた」とも付け加えた。しかし、実を言えば、実際の私の妹の誕生日はその日でなかった。それに、当時の私達はそれぞれ別の住まいで暮らしていたし、そもそも誕生日だからと言って何かプレゼントを贈るほど親しくもなかった。ただその店員と話す口実が欲しかった。だからそのような嘘をついたわけだ。

 さて、話の最中に、突然店員の女性は私に「今日はカレーパンは買わないんですか」と質問してきた。これは一体どういうことか。そう、この日に至るまで、私はこのパン屋に通う度に、印象づけとして必ずカレーパンを買ったのである。こうして私の作戦の全貌があらわになった。先ず何度か通って、毎回必ず同じものを買う。それからある日、直接相手に話しかける。妹の誕生日なり何なり、適当な口実を作って話しかける。で、そのまま世間話に持ち込む……私の思惑通り、私達は仲良くなった。我ながら当時の自分の行動力には驚かされる。無論、私は有頂天でその店を去り、一人で買ったケーキを食べた。

 がしかし、結局それから私達の間には何も起こらなかった。もとい、私は次に何をすればいいのかわからなかったのである。仲良くなりたいとは思った。がしかし、それ以上のことは考えていなかった。考えたくなかったとも言っていい。それ以上の関係性についてを考えると、私は変に気が重くなって、恐ろしくなった。でもせっかく仲良くなれたのに、このまま何もなく、ただの世間話も交える間柄というのも寂しかった。私は彼女と友達になりたかったのである。

 こうして悶々とした日々が続いた。で、私は彼女の店の前で行ったり来たりすることが多くなった。傍から見れば、私は明らかに不審者であった。そのことに気がつくと、私はパン屋にも行かなくなった。そして自分の軽率な行いを後悔し始めた。

 思い込みが激しく自分勝手。独りよがりで、傲慢なほど神経質。自分の内にあると思われるこれらの性質を、私自身、どれだけ憎んできたか知らない。時にそれは趣味の問題にまで反映した。たとえば、私はマーラーレディオヘッドの音楽を、どちらも十代の頃から愛しているが、一時はそれらを好んで聴くことをも拒んでいた。理由は、その両者の音楽が、私の気難しさとか、過剰な自意識とかを助長しているように思われたからだ。ニーチェも同様の理由で嫌悪していたことがある。結果として、今はそのどれをも再び好んでいるのだが、その理由も、一旦自分のそういった性質を認めてからの方が、遥かに上手い立ち回りができるのではないかと思ったからだ。実際、あの頃に比べれば、私の態度はだいぶマシになったと思われる……もとい、今は違うと、そう信じたい。

 さて、突然こんな話を書く理由は、先日、ふとその時のことを思い出すような話を聞いたからである。私には、ある一人の、素晴らしい、尊敬すべき悪友いる。何故彼を尊敬しているかとなれば、彼には自分にはないものがあると思われるからだ。つまり、その恐るべき行動力と、勘の鋭さである。

 ある日の夜、私のある異性の友人と、その悪友の彼が知り合った。二人は互いに存在は知っていたが、まだ明確に知り合っていなかったのである。そして以前、私が彼にその女友達の話をした時の反応を見て、彼が彼女を気に入っているのだろうということを何となく察した。だからその後の展開はある程度予想ができたのかもしれないが、しかしそれは私の予想を遥かに上回ったものであった。つまり、彼らが知り合った次の日、私が例の悪友と会うと、彼は自分とその女友達が付き合うかもしれないと話し始めたのである(この時、彼はとてもいい笑顔をしていた)。で、実際に彼らは付き合い始めた。恐るべきスピードである。本当に、心の底から驚いた。実際、凄い男だと思う。白状するが、私は学生時代、こういう人間になりたかったのである。

 しかし、こうしてかつてのことを回想すると、私は学生時代からあまり変わっていないのかもしれない。


 認識というものには幾つかの側面があるが、その内の一つとして「未知なものを既知で説明する」というのがあるのは間違いのないことだろう。つまり、説明できないものを、自分の知っている世界の範囲で説明しようと試みるということである。その一方で、生きるということは、常に知と未知の境界線を綱渡りするように歩くことに他ならない。未知の深淵にこそ、まさに私達の実存の可能性が潜在しているからだ。

 では、何故人は未知なものを既知で説明しようとするのか。それは恐怖や不安、または恥などの感情から、自らを再びそのようなものに晒す危険から守るために、自己反省を行うからである。要するに、既知であり、客観的に見ておかしくないものと自己を照らし合わせることで、自分自身のおかしな所を正そうとするわけだ。なるほど、それはいい心がけだと言えよう。しかし、その結果として、よくよく次の現象が起こることとなる。つまり、自意識の肥大化である。

 私達が一番知らないものとは、いつだって私達自身にまつわることである。だから、客観的な自己批判は、いつだって誤った論理に基づかなければ成り立たない。結果として、意識の一般化は、常に自意識の肥大化に繋がる。言い換えるならば、私達の意識と無意識には、常に一般と客観に還元し切れないもの、既知のものでは語りきれないものがあるということだ。見慣れたものの中にこそ、常に判断するに難しいものがある。意識の一般化は、なるほどその人の神経を繊細にして、より多くのことに気づくきっかけを与えてくれる。しかし、誤った論理に基づいた自己批判は、ひたすらに自己をさらに誤った論理の迷宮へと導く事となる。こうして私達に必要になってくるのは、つまり次のことである。そう、それは確実なものと不確実なものの間を渡り歩き、知と同時に未知を生きるという、冒険である。

 さて、認識の話に戻るが、前述の通り、認識にはやはり「未知なものを既知で説明する」とは別の側面がある。それは目の前にある問題を指し示し、それを認めるということである。

 自由意志は有無の話は、よくよく哲学史の間で話題になる事のように思われる。なるほど、確かに人のとる行動は常に何らかの原因に突き動かされている。で、そのとった行動がまた別の、次の行動の原因をもつくるのだとしたら、私達にそもそも意志決定の自由などないのかもしれない。しかし、もしそのような自由意志の問題を認識する前と認識した後では、人の考え方に何らかの違いが生じるのは必然だと思われる。何かを知るということは、常にそれを知らなかったころの自分を失うことなのだ。問題の解決のためには、先ず問題それ自体を認識する必要がある。私達の自由とは、いかに自分が不自由であるかを知る所から始まるのである。


 この世に進歩はなく、あるのはただ変化だけである。歴史は繰り返されるのではなく、常に横にズレるのである。

 『白いリボン』という映画には、村の大人達から酷い目に遭う子供たちが、自分よりもさらに弱いもの達(動物や白痴の子供)に残酷な仕打ちをすることで腹いせをする、という構図が登場する。このように、人が与えるものは、いつだってかつて与えられたことのあるもののみである。しかし、この「与える - 与えられる」の関係には、必ず一つのズレが生じる。例えば、私達がよかれと思ってしたことが、実はされた側からあまりよく思われてなかった、なんて事は、日常生活の至る所に見出されるだろう。よって、私達が「与える - 与えられる」ものとは、いつだって私達の知らないものなのだと言える。または、自分がかつて何かを「与えた - 与えられた」という意識が、それ以後の自分の行動に繋がるのもある。

 こうして、私達は似たような出来事を繰り返しはすれど、常に過去の同じようなものからズレていく。繰り返しの内には常に差異が潜在している。だから、繰り返しが重なる内に、差異の方が大きくなって、元々の比較対象であった「似たような出来事」とは、まるで似てない出来事が起こるようになるのである。

 これは私に再生産の問題をも思い起こさせてくれる。たとえば、中学時代にあまり目立たなかった生徒が、誰も自分のことを知らない地方の学校へと進学し、敵がいないそこで、かつて中学時代の自分が見た「人気者」のように振る舞う、という現象が起きたとしよう。この時、この生徒は、自分がかつてクラスで観た出来事を再生産していると言える。では、その彼の観た「人気者」はどうかと言えば、彼もまた、親なり兄なり、自分に影響を与えた人間の振る舞いを再生産しているだけなのではないか。そしてその影響を与えた側もまた、別の誰かの振る舞いを再生産しているのだとしたら、どうだろう。

 もしそうだとすれば、これはいかにも虚しい現象だと言える。最近はよく、人の性格を「陰」と「陽」で分けるスラングがネット上で流行っているが、それも実に下らないことだと言える。本物の陰も本物の陽もなく、あるのはただ再生産とその流れだけである。さて、このような文章の流れで、突然誠実さについて語るのは変かもしれないが、もしこの世に誠実な生き方があるのだとしたら、それはこの再生産の流れから抜け出して、より深い次元で生きようとすることなのだろう。つまり、一般的な問題設定から抜け出して、より個人の問題を生きようとすることである。そう、強度としての生を生きることだ。


 本質の特徴はその単純さにある。だからあらゆる本質は常に短い言葉によって表すことも出来る。が、それには本質というものが常に断片にしか現れないからというがあるのは間違いないだろう。

 私達が生きられるのは、常に断片であり、全体ではない。そして、断片の一つ一つは、一見すると相反するように見える場合が殆どである。だから、もし誠実に何かを言い表そうと(または書き表そうと)するならば、人は自ずと複雑な、多様な事柄に言及せざるを得なくなる。単純な本質は、むしろそれ自体でいえば、すぐに別の(自分を否定するような)本質に出会い、自己矛盾に悩まざるを得ない。で、どちらが正しいかで思い苦しむようになる。しかし実際は、どちらが正しいも糞もないのである。

 大切なのは、性急な判断を下さないことだ。人はよく、自分の知っている断片からことの全体を想像しようとする。しかし、それが酷い思い違いことも少なくないということを、どういうわけかいつも忘れてしまうのである。