20/10/08

 「……しかも、こうした追憶を持つだけなら、一向なんの足しにもならぬのだ。追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することが出来ねばならぬだろう」

 プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭において、語り手が紅茶にひたしたマドレーヌを口にすることによって、彼は自らの内に潜在していた過去が(忘れられていた記憶が)蘇るのを感じる。この有名なシーンには、二つの側面があると言える。つまり、主人公は過去を思い出すことによって過去を再び生きているのだが、同時に彼は、今現在の観点から(成長し、大人になった現在の観点から)過去を捉え直すことで、過去を新しく生きているのである。

 これと似たような現象は、リルケの『マルテの手記』にもよく見られる。『手記』の語り手であるマルテは、パリでの孤独な生活を通して、自分の過去の様々な出来事を思い出す。この時、彼は自分の過去を生々しく思い描くと同時に、かつての自分ではわからなかったことをも理解するようになる。この語り手もまた、プルーストの場合と同様に、過去を再び生きると同時に、新しく生き直しているわけだ。

 現在、知覚と記憶が交差する地点。上の二つの小説の例からもわかるように、現在には常に二面性のある。それは一方から見れば既に起きたことだが、もう一方から見れば、それは今現在に新しく起きていることなのである。また、この二つの例は、私達に次の事実をも教えてくれる。それはつまり、人が過去について語る時、その人は過去を語ることによって作り直しているということだ。

 ここで私は思うのだ、「では何故人はそのようなことをするのか」と。この問いは、言い換えれば「人は何故創作をするのか」ということでもある。プルーストは『失われた時を求めて』を書き、リルケは『マルテの手記』を書いた。で、両者共にその全てがそうだとは言わないが、作者の実体験を反映した上で執筆された。二人とも、過去を語ることで、過去を作りかえているわけだ。で、私は再び問いたい。彼らは何故そのようなことをしたのか。また、そのような創造行為、そしてそれによって生まれた芸術作品には、一体何の意義があるのか。

 さて、『失われた時を求めて』と言えば、私が真っ先に思い浮かべるのはドゥルーズによる同小説の評論である。『失われた時』についてを語る際、彼は時にその小説の語り手( = 主人公)を「蜘蛛」にたとえることがある。

 題名の通り、『失われた時を求めて』は潜在的な過去の探求の物語である。しかし、過去の探求は常に現在の観点から行われる。だからそこでは現在の人間による過去の解釈が行われている。そこで注目すべきことは、『失われた時』の語り手が、常にある一定の事柄にのみ反応しているということだ。まるで蜘蛛の巣をはった蜘蛛が、自分の巣にやってきた獲物にだけ反応するように、彼は自分の関心事のテリトリーに入ってきた過去だけを物語るのである。まるでそれ以外のことには無関心であるかのようだ。こうして、語り手は自分の過去を物語るにつれて、自分が自分の関心にしか反応できない蜘蛛であり、また今日まで書いてきたこの作品が、実は自分のはった蜘蛛の巣であったということに気がつく……思えば、『失われた時』の鍵となるべく人物は皆、何処か狂っていた。そして、それを執拗に追い、自らを投影した上で対象のキャラクターを語る彼自身こそ、まさに最も狂った人物だったのである。これがドゥルーズによる『失われた時を求めて』の解釈の一つである。

 ところで、書くという行為には、常にある二面性が伴われるように思われる。一方で、人は何かを知っているから書くわけだが、もう一方で、人は自分の知らないことをも (知っていることに基づきながら、暗闇を探るように) 書こうとする。よって「書く」という行為には、常に自己探求的な意味が付きまとうわけるが、それについては、別の観点から見てもそう言えるのである。つまり、人は書くことによって、他ならぬ書き手自身が描かれていくのである。

 口頭であれ筆記であれ、私達の「語る」行為は、常にそれによって自らを表すということが含まれている。人は経験に基づかなければ何かを語ることが出来ない。そう、まさに、語ることによって、自らが語られるのである……だから、それを見聞した相手が「あの人はこういう人なんだ」という意見を持ったり、または自分で自分の語っている内容を語りながら振り返って「自分にはこういうところがあるな」という気づきを得たりするわけだ。

 さて、ここでもう一つの過去の探求の小説、『マルテの手記』の話に戻りたい。この『手記』は、語り手が現実の出来事と交差させながら自分の過去を回想することによって話が進行する。で、話が進むにつれて、過去の回想は主人公のトラウマで満たされていくのである。しかし、中盤頃から、やがて主人公がトラウマについての話をすることが少なくなる。後半になれば、もうトラウマについては一切話さず、前半には見られない、ある種の力強い明るさが、その語り口調に現れるようになる。こうして考えてみると、『マルテの手記』は、主人公マルテが書くことを通して自己治療の過程だと見ることも出来る。では、何故マルテは書くことによって自らの苦しみから癒える事が出来たのか。それは、そのように書くことを通して、自らの知らない自分自身に出会ったからである。

 さて、今の私達には「書く」という行為の持つ、隠された第三の意味が明らかになった。つまり、「書く」とは一つの反抗なのだ。そして、それが前述の問いの一つ、「何故人は創作するのか」の答えにもなってくる。何かを生み出すということは、それ自体ひとつの反抗なのである。では、私達は何に対する反抗なのか。それは、あえて言葉を選ばずに言うなれば、あるがままに愚劣であることへの反抗である。マルローは次のように語ったという、「芸術は死に抵抗するための唯一の手段である」と。この場合、「死」とは何か。それは肉体的な死か。否、それは精神の死である。

 たとえば、ナチス・ドイツなり大日本帝国なり、かつての世紀の非道について語る時、人はよく「我々人間は皆愚かで罪深い存在だ」とか何だとか語る。芸術作品とは、恐らくそれに対抗する唯一の手段なのである。芸術であれ科学であれ哲学であれ、もし何らかの文化に好んで触れる者ならば、誰しも「これは凄い」とか「同じ人間が作ったとは思えない」とか、そういった感動を覚えたことがあるに違いない。時に、何かに感動するということは、それ自体一つの能力である。何故なら、人は感動を覚えた時、その感動した対象の中に、これまでにはみられなかった、全く新しい別のものを見出すからだ。そして、人間の生みだしたものに感動するということは、それ自体一つの抵抗なのである。何故なら、それは「我々人間は皆愚かで罪深い存在だ」という意見に対して、「いや、人間にはこのような偉大さがある。こんなに偉大なものを生み出す力がある。人間の倫理と実存には、まだこのような可能性がある」という反対意見を示すことに繋がるからだ。まさに、あるがままに愚劣であるものに対する抵抗、下劣さへの対抗、人間存在に対する誇りのための戦いが、ここでは繰り広げられている。

 さて、ここでプルーストリルケの話に戻ろう。この二人の著者による二つの小説は、どちらも語り手が書くことによって自己を模索する小説であるが、それと同時に、彼らは書くことによって (大袈裟な言い方になるが) 人間存在の誇りのために戦っているのだとも言える。何故そう言えるのか。その問いを解く前に、私達は最初の問いに戻るべきだろう。そう、人は何故創作をするのか。または、人は何故なにかを生み出すのか。そこに何かの意義はあるのか。

 然り。意義はある。人が創作し、何かを生み出すのは、まさに経験によって自分の中に何かが通過したのを感じたからだ。そして、それに基づきながら創造行為に向かう時、人は、創作によって自らの経験を超越しようとしているのだ。丁度マルテが書くことによって自らを癒したの同様に。そして同時に、そのような作品が世に問われることは、それ自体一つの反抗なのだ。

 『失われた時を求めて』の語り手は、最終章『見出された時』の中で、自分が蜘蛛であり、またこれまで紡いできた文章は皆自分の作った蜘蛛の巣であると気がつく。恐らく、私達の本性は、皆何らかの形で蜘蛛なのである。人が過去を追憶する時、そこには自分がとりわけ反応し、自分のテリトリーに引っかかるような出来事が必ずある。『失われた時』の語り手は、私達人間存在の新たなあり方を問うてくれる。そう、これもまた一つの反抗であり、または恥ずべき人間の状態からの解放であるわけだ。


 「話し言葉は不潔であり、書き言葉は清潔である」という考えが、私にはある。注意しておくが、別に人の話を聞くのが嫌いというわけでは無い。むしろ、それが私の興味を引くものならば、好んで相手の話を聞きたいと願うだろう。それが何らかの形で自分のためになるから。

 では、上の考えはどういう事なのか。要するに私は、自分から自分の話をするのがあまり好きではないのである。理由は簡単で、どんなに賢明につとめても、自分の感情を言い表そうと、必ず何処かで言い間違えをしている気がするからだ。で、自分の言いたいことが上手く言えなくて、ついついどもったり、いらない事を沢山口にしたりする。それで話すのが恥ずかしくなる。今までに、何度そのような経験をしてきたから知らない。

 それに比べれば、書き言葉は非常に清潔だ。予め言葉を選び、慎重に何かを語ることが出来るから。だから、話し言葉は不潔で、書き言葉は清潔なのである。

 人は皆、誰しも何かしらの形で生きづらさを抱えていると思う。それはやはり、私にしても同じなのかもしれない。たとえば、私は自分の冷笑的なところが嫌いだ。本当に嫌いだ。よく、周囲から「周りを見下している」とか「他人を馬鹿にしている」とか、そういった誤解を受ける。もちろん、私自身はそのつもりはない。ただ、恐らくはこの皮肉っぽい性格のせいで、そのように見られているのだろう。しかし、自分でもよく思うのである。自分は何故こうも疑り深いのか、私は何故こうもドライなのか、自分はこんなにも嫌味たらしい性格をしているのか、など。で、そういう事を考えては度々頭を抱えている。滑稽にも、私は自分で自分を苦しめようとしているのである。

 こうして文章を書くことは、そんな私にとって、一つの慰めであると同時に、一つの反抗でもある。つまり、私は自分を不愉快にするような何か(自己の冷笑的な性格の発見など)を内的に体験した。で、そこから抜け出したいから書くのである。 そう、何かを発散することは、それ自体一つの慰めであり、また反抗でもある。人は、自分の内にある悪と戦わなければ、自分の外にある悪とも戦うことができない。現実世界には、不愉快にも、私達を貶め、愚劣なものに陥れようとするものが絶えずうごめいている。だから私達は、時には自分自身を相手にしてでも、何らかの反抗を、思考のゲリラ戦を行わなければならないのである。

「哲学以外の諸力は、私達の外部だけでは満足せず、私達の内部にまで侵入してくる。だからこそ、私達ひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝を続け、自分自身を敵に回してまでしてもゲリラ戦を繰り広げることになる。それもまた哲学の効用なのである。」


 最近よく思うのだが、私には直観力が足りない。知性なき直観は空虚な思い込みであるが、直観なき知性は愚鈍である。確かカントも似たようなことを書いていたはずだ (うろ覚えだけれど)。