20/10/12

 「ニーチェの内では、至福感と抑うつ状態が代わる代わるに現れるのだが、その間隔は次第にますます短くなり、目まぐるしくなってくる。ある時には一切がこの上なく優秀に思われる。彼の仕立て屋も、彼が食べるものも、人々が彼を迎えてくれるさまも、店内に入る時に自分が及ぼすに違いないと思われる魅力も、その全てがである。またある時には絶望感が優位を占める。読者がいないこと、死の印象、背信の印象。」


 欲望には関連が付き物である。欲望は総合を欲望し、文脈から、別の文脈を欲望する。しかし、この言い方では少し抽象的に聞こえるかもしれないから、ここでひとつ例え話でもしようと思う。

 たとえばそう、若い女性がいたとして、彼女が店で好みの服を見つけたとする。この時、彼女はその服を欲するわけだが、それと同時に、それを着ている自分を想像したり、または自分の服のコレクションにしたいと思っていたりする。彼女は他の欲望と複合してその服を求めているのである。

 さて、リルケの詩の一節で、実に美しいものが一つある。それは「見るもの聞くもの全てが/あたらしい恋人の予告であるかのように」というものだ。この詩の中で特筆すべきことは、リルケが自分が目にした(または耳にした)ものから、別の印象を連想しているということだ。また、プルーストにも次のような文章がある。「私は彼女を欲しているのではなく、彼女が内包している風景をも欲している」。この文章の内で、何故彼が一人の女性を欲しているのかとなれば、それは対象の女性が彼に別のものをも与えてくれるというイメージを掻き立てくれるからだ。男であれ女であれ、美しい異性が好きな人は多いだろうが、人によって好きな美形のタイプは異なる。その理由もやはり、それぞれがそれぞれ、その見た目から掻き立てられる別の印象を求めているからだ。欲望は関連する。そして、人はその関連との文脈の中で、対象を欲望するのである。

 夢には犠牲が付き物である。しかし、この言葉の意味は、何も「夢を叶えるために、人は自分の中にある何かを犠牲にしなければならない」ということではない。そうでなくて、夢が犠牲にするのは、常に自分ではなく他人なのだ。夢見がちな人は、自分の夢を実現させてくれる対象を、他人を求めている。夢はいつも、同じ夢を見ていない他人の犠牲に求めているのである。


 以前、幻覚剤を用いた時の事である。気がつくと、私はある一つの小さな惑星の上にいた。目の前には宇宙が拡がっており、限りなく続く星々の輝きが一面を埋めつくしていた。私はそれに手を伸ばした。あと少しで星の輝きに触れられるような気がした。しかし、いくら手を伸ばしても、私はあの星空に手が届かなかった。この感傷的なイメージは、今でも時折私の頭によぎることがある。

 私のいた惑星には、私以外の誰もいなかった。そして、いくら歩いても、冷たくてでこぼこした、銀色の大地が広がっているだけなのである。草木は一つも生えていなかった。少し歩けば、私は惑星を一周できた。そして頭上を眺めれば、本当に美しい星雲を眺めることが出来た。私は何度もそれに見とれた。しかしやがて気がついた。自分は永遠にあの楽しそうな星の戯れに交わることが出来ないのだと。そしていくらもがいても、自分はこの孤独な惑星の外に出ることが出来ないのだと。私に出来るのは、ただただ手の届かない銀河に手を伸ばし続け、それに見とれるだけなのだと。しかし、やがてはそれに手を伸ばすこともしなくなった。ただ目の前に広がる光景を、体育座りをして、ぼんやり眺めていた。それ以外にすることはなかった。星達は美しく、皆楽しそうだった。私はまるで、一人この惑星の上に置き去りにされたような心地がした。

 ここで私は目を覚ました。そしてこの時、私は「俺はずっとひとりだったんだ……」という恥ずかしい(本当に恥ずかしい)独り言を口にしたのを覚えている。


 時折、この世の全てが素晴らしいような気がしてくることがある。つい最近で言うなら、それは本当に些細な瞬間に訪れた。私は出かけている途中で、ギレリスの弾いたグリーグの『抒情小曲集』を聴いていた。昔はそのあまりにも素朴なグリーグの良さがわからなかっただけに、最近はよくその可憐な音色を楽しんでいるのである。それで、少し小腹がすいたから、私はそのままコンビニでおにぎりを買った。私の好きな味のおにぎりで、とても美味しかった。音楽は私の目の前の景色を彩っていた。この時、私はこの世の全てが素晴らしいような気がした。カバンの中には、私のお気に入りの本が入っていた。電車に乗れば、それを気ままに開くことも出来た。この時が永遠に続けばいいのにと、私はそう思った。まさに一瞬に永遠を感じた時であった。

 しかしまた別の時には、一切が最悪なように思われる。目の前にある全てのものが遥か遠くかなたにあるように思われて、何もかもが信じられず、先程見た幻覚と同じように、自分が宇宙の果てに一人取り残されているような気持ちになる。深い絶望が私を襲う。丁度歩いても歩いても自分の影が後ろを付きまとうように、いくらもがいても孤独の焦燥感が頭から離れない。とても苦しく、まるで自分が夜の闇に溶けていくような気がしていく。不安で胸が張り裂けそうになる。

 この時に思うのである、一体世の人はどうやってこの苦しみに耐えているのかと。皆、一体どうやって生活しているのだろう。どうやって生きることそれ自体の苦しみから逃れているのか。一体どうすれば、私は皆と同じように笑うことができるようになるのか。どうやってこの砂漠から抜け出すことが出来るのか。しかし、いくら考えても、一向にその答えは見えてこないのである。


 リルケの作品には、常に共通して一つの奇妙な性質が見受けられる。それは、彼が絶えず母性を美化して語っていたにも関わらず、生涯にわたって実際の母親を嫌悪していたということだ。同じ傾向はリルケの実生活にも認められ、高安国世などは、彼が異性の庇護や愛情を求め続けたのも、実の母との不和があったからだと考えた。

 思えば歴史上の著名人で同性愛者だった者には、マザコンが多かったように思われる。有名な話だが、ライナー・マリア・リルケの本名はルネ・リルケで、ライナー・マリアの方は彼が大人になってから名乗り始めたものである。「マリア」という女性名は、彼が幼少期に女性として母から育てられたことに由来する。だからリルケは生涯にわたり母を憎んだわけだが、だからこそか、リルケの作品には絶えず「母なきマザコン」とも言うべき性格が見られる。そうとも考えられるのではないか。つまり、母親の欠如が著しいからこそ、彼は作中で母性を美化し、異性との精神的な繋がりを意識したのではないか、というわけだ。言わば、オイディプスとは逆の現象がここでは起きているのである。

 もとい、女性として育てられ、実際に繊細な性質を備えたリルケが(ここで彼の頬のこけた、神経質そうな顔が思い浮かぶ)、何故同性愛的な傾向を持たなかったのか。それは、彼が母性の欠如を痛切し、どうしても幼少期の埋め合わせを求めざるを得なかったからではないか。プルーストなどはその逆で、むしろ異常なまでに母親を愛し、執着していたからこそ、「異性」という欲望対象が母親で満たされてしまい、同性愛に走ったという節があったように思われる。ならばリルケは、「異性」という欲望対象が根源的に欠如しているからこそ、より精神的な意味で異性を求めたのではないか。とまあ、そう考えたところで、結局真相はリルケ本人にしかわからないのだが。


 以前にひとり、とても仲のいい友達がいたことがある。私は彼女を愛していたし、恐らく、彼女もまた私を愛していた。かと言って、何か肉体的な関係にあったわけではないのだが、それでよかったのである。もとい、それがよかった。私はこの幸福な友情の日々を愛していた。きっと彼女も同じだと思っていた。しかし違った。私達の友情にはやがて終わりが訪れた。そして、私は彼女がはじめから私と同じものを見ていなかったのを知った。

 傍から見れば、何故「あと一歩」を踏み出さなかったのかと聞かれるかもしれない。相手に深入りするのが恐ろしかったのか。なるほど、それもあるかもしれない。しかし、それ以上に、私は肉体的なものよりも、精神的なものを求めていたというのがある。私の心の支えとなってくれて、私の不安を消してくれるものを、お互いに対して忠実であり、信頼し合い、喜びを共にするということを求めていた。言い換えるならば、それ以上のものは求めていなかったのである。ただ、彼女が私のわがままに付き合ってくれなかった。それだけの話なのだ。

 丁度『ジャン・クリストフ』の内に、私の愛するある美しい文章がある。それをここで引用しよう。「俺には一人の友がある!自分の遠くに、自分の近くに、常に自分の内に、一人の友達がいる。俺は友を所有し、俺は友のものである。友は俺を愛している。友は俺を所有している。溶け合って一つの魂となった我々の魂は、常に愛に所有されているのだ……」


 よく誤解されるが、ツァラトゥストラは超人を予告するものではあれど、決して超人であるわけではない。超人とはルサンチマン( = 反動的であること)の排除された存在であることを指すが、その一方で人間とは何処までも反動的な存在であり、また何かに対する反動でなければ能動的にもなりにくい存在だからだ。そして、ここにこそニーチェ思想の最大の秘密が隠されている。ルサンチマンなき人間とは、もはや人間ではない。だからそれは「超人」と呼ばれるのである。

 ニーチェは生を超越論的な価値観によって断罪するものとしてそれまでのプラトン = キリスト教的な価値観を告発した (ニーチェによれば、キリスト教とは世俗化したプラトン哲学であるという)。道徳的 = 宗教的な価値観は、それによって生を裁くものであり、ルサンチマンによって人をその本来の可能性から引き離すものである、と (何故なら道徳的 = 宗教的な考えは、常に生に傷つけられたものによって発展するからだ) 。一方で、ふと思うことなのだが、ニーチェによる「超人」の考え方もまた、生を裁き、断罪するものではないのだろうか。 「超人」もまた超越論的な価値観なのではないだろうか。その疑問に対する答えを、私はまだ出すことが出来ていない。


 直観的なひらめきに襲われた時のあの感覚は、わかる人にはきっとわかるものがあるだろう。何が異常なものが全身を駆け巡り、なんの脈絡もなく、断片的ないくつかの言葉が、まるで何か密接な関係があるかのようにまとわりつく。そして、それがずっとぐるぐる動いている。何とかしてその感覚に説明をつけたくて、何時間も部屋中を行ったり来たり歩いたりする。で、何かそれを言い表すだけのものが掴め始めると、知と未知の境界線にたちながら、それをぎゅうぎゅうに押さえつけて、一つの形にしようと表そうとする。この時の楽しさと言ったら、他では味わえない。また何時間も、まるで何かに取り憑かれたように、一つのことに没頭することとなる。