20/10/15

 「長い間太陽の運動について思い違いをしてきたように、人々は今なお、来るべきものの運動について思い違いをしています。未来はじっとして動かないのです、カプス君。しかし私達こそ無限の空間を動いているのです。」

 クローン羊のドリーを覚えているだろうか。二〇〇三年に、普通の羊の半分くらいの寿命で死んだ、世界初のクローン動物である(ちなみにドリーが死んだ年齢と、ドリーのクローン元となった羊の年齢は同じ六歳だったらしい)。と言っても、私もその存在をリアルタイムで知った世代ではない (二〇〇三年頃の私と言えば、そんな事に考えを及ばせる程の頭もなかった) 。ただ、中高生の頃に受験勉強の一環でその存在を知って、以来印象に残っているのである。恐らくドリーの寿命は、彼女がクローンとして生まれた時から、既に定められていたのだろう。

 さて、リルケは手紙の中で次のようなことを書き残していた、「未来とはじっとして動かないもののことだ」と。これは一体どういうことなのか。そう、まさにドリーの寿命が生まれた時から既に六歳であったと決められていたように、私達の未来は、ある程度は私達の今日までの存在によって決定づけられているのである。問題は、ドリーも、またドリーを生み出した科学者達も、ドリーが六歳で死ぬことを知らなかったように、私達もまた自分の未来がどうなるかを知らないことにある。たとえば数年前の自分を思ってみよう。あの頃の自分が、今のような生活を送っているなどとは、どうして想像できただろうか。未来とは、既に決定づけられているものであると同時に、不確定なもの、不意に訪れるものなのである。だから、私達の実存には、いつもある種の賭け事が、「未来に対しサイコロを振る」とでも言うべき賭け事が付き纏うこととなる。

 そもそも、一体何故「未来とはじっとして動かないもの」なのか。それは、存在しているものとはかつて存在していたもののことを指すからだ。過去は一つの原因であり、原因は一つの運動を生み、それがまた別の原因を生む。そしてそれが連続している、何故なら人は時間の経過と共に心身の変化を強いられるからだ。今この瞬間にも、私達は表情筋の運動や、意識の流れの経過など、様々な変化を経験している。そうなると、自ずと私達の未来とは決定づけられたものとして現前することとなる。

 しかし、前述の通り、私達は自分の未来をどう足掻いても知ることが出来ないのである。予測というものは、常にある程度の誤差が出ることを前提にして行われる。そして、その誤差が新しさとして私達に対し現前するのである。それは、頭で思い描いていた通りの幸福がそのまま目の前に実現しても、その人がその現実に対して予想していたものとは違った感情を抱くのと同様である。理想の中での幸福と、実現された幸福との些細な違いから、満足を覚えられない人がいる。これはその誤差のためなのだ。または、頭で考えていた時には想像もできなかった幸福が訪れて、予想以上に楽しくなることがあるとすれば、それもまたこの誤差のためなのだ。

 私達の存在は、いつもこの「誤差」に賭けられたものだと言っていい。理想と現実の差異、予測と実際の差異、過去と未来の差異。差異は常に新しさとして現前する。たとえば、ギャグ漫画などを読んでいると、前のページで使われていたコマが、次のページでもコピーされ、ペーストされることで使われている、なんて事がよく見受けられる (漫☆画太郎がよくやっていることだ)。しかし、このコピーアンドペーストの作業が行われるまでに、漫画の中では多少なりとも話の動きがある。だから、同じコマが再び現れても、私達は前に見た時と同じ印象をそれに抱かないのだ。

 これと近い現象は、私達の生きる現実にも見られる。つまり、私達はよくかつてにも見たような、経験したような出来事に直面するのであるが、それは必ずしもかつてと同じ結果をもたらすわけではないのである。繰り返しには常に差異が含まれているからだ。問題は、似たような出来事の繰り返しの中で、似ている部分を見るか、似ていない部分を見るか、そのどちらかであるという事だ。つまり、「また同じようなことを繰り返している」と考えるか、「いや、ここの違いに可能性が含まれている」と考えるか、というわけだ。

 永劫回帰……私はここで永劫回帰の事を思い起こす。全ての喜びは永遠を欲する。言い換えるならば、喜びに反するものが繰り返されるのを、人は求めないということだ。そして、これは永劫回帰の原則でもある。永劫回帰は、一切が再び繰り返されることを求める運動である。だから、永劫回帰を意識する限り、人は繰り返されたくない出来事を排除しようとするのである。全ての喜びは永遠を欲する。そして、繰り返される出来事には、常に差異が含まれている。差異は新しさとして現前し、私達の過去からの予測を覆す、思いもよらないもの、不意に訪れる未来をおびき寄せるのである。


 リルケ。最近はリルケを再読している。とりわけ私の心を惹き付けるのは『ドゥイノの悲歌』だ。さて、第一の悲歌の冒頭に、私がとても好きな詩句が書かれている。少し長いが、それをここで引用しようと思う。「そうだ、年々の春はお前をたのみにしていたのではないか。あまたの星は/お前に感じ取られることを求めたのだ。/過去の日のおおなみがお前に寄せてきたではないか。または、/開かれた窓のほとりを過ぎた時、/提琴[ヴァイオリン]の音色がお前に身を委ねてきたではないか。それらは全て委託だったのだ。」

 では、それは何の「委託」だったのか。その答えは、同悲歌の終盤で明らかになる。「彼らは何を私に望むのか。彼らをつつむ悲観の外観を/ひそやかに剥ぎ取る事だ。」悲しみは喜びよりも一層真実に近い。事実を見いだした時、人がよくそれに感じるのは美しさよりも醜さである。しかし、悲観は事実を歪める傾向にある。被害妄想が必要以上に物事を悪く捉えるのと同様だ。だから、悲しみに囚われずに何かを「言う」ことは、それ自体対象をより正しく捉えることに繋がる。このようにして事物をかつての状態から解き放つこと、それをリルケは「委託」と呼んでいるのである。『ドゥイノの悲歌』の第九の悲歌でも、彼は次のように書いている。「だから、多分我々が地上に存在するのは、言うためなのだ (……) しかし理解せよ、そう言うのは、/物たち自身も決して自分がそうであるとは/突き詰めて思っていなかったそのように言うためなのだ。」

(このように、『ドゥイノの悲歌』には一種の変奏曲(ヴァリエーション)としての性格がある。第一の悲歌でその主題が提示され、それが変奏を伴いそれぞれの中で展開されていくのである。言い換えるならば、悲歌の全ては既に第一の内に含まれているのだ。)

 ここで見られるのは一つの相互作用である。つまり、人が能動的になるのは、常に何かに対して受動的であってからだということだ。一つのものから触発されて、それを感受し、発散することで、別のものへと変化する。この受動と能動の関係は、私にリルケと病気の関係を、またはニーチェと病気の関係を思わせる。

 天才とはひとつの病気である。もとい、病気が人を天才的にさせるとも言っていい。何かの病苦に苛まれなければ、人は内省的になったり、思索的になったりはしないからだ。だからニーチェはこう考えることさえあった、「病気が私を深くしてくれた」と……リルケにしても、手紙の中で次のように書いていた。「医者はむしろ、私達[病気と私]の統一の慣れ親しんだ組織の中へ打ち込まれた楔のように思えてくるのでした。」

 ルサンチマン……リルケニーチェの例は、私にルサンチマンとの付き合い方についてを考えさせる。リルケにしてもニーチェにしても、自分に何か病的な所があると思いはすれど、決して自分のことをただの病人だとは思わないだろう。そして実際、少なくともニーチェは、自分のことを「健康な人間」と称してはばからなかった。彼はそれを強がりから言っているのではない、心からそう言っているのだ。

 実際、私達は皆、それぞれがそれぞれ、何らかの形で欠陥を抱えている。そういう意味では、全ての人が病人であり、人間であることの定義は病んでいるということにあるとも言える。が、話はそれだけで済まない。このように考えたのならば、では病気であることが前提となった人間において「健康」は何を意味するのかと問わなければならない。そう、健康とは何か。それは、病気や狂気、そして自殺さえも生を豊かにする手段として用いている者に見られる状態のことを指す。リルケニーチェがそのいい例だ。リルケはトラウマや精神疾患に長く苛まれ、そしてニーチェはその病苦に耐えきれず発狂した。しかし、彼らは二人とも、自分の病( = 生を苦しめ、ルサンチマンを生み出すもの) を、生を豊かにする手段として用いた。つまり、彼らにとって、病気を受け入れることは、実存するための、健康に生きるための一つの選択だったのである。

 ルサンチマンとは一つの病気であり、それは人が生涯治すことの出来ない病気である。しかし、ルサンチマンがなければ、人間はここまで深いものにはならなかった。よって問題はルサンチマンとの向き合い方にある。私達はルサンチマンとどう向き合うべきか。そのヒントは、恐らく、ルサンチマンを健康に生きるための一つの手段として用いる点にあるのだろう。


 私はいつもベートーヴェンの音楽を好んでいたという訳ではない。ただ、彼のピアノソナタ第三十二番に関しては、十代の頃から度々好んで聴いている。私は何度も、何度もそれを繰り返して聴いていた。最近も毎日それを聴いている。ベートーヴェンピアノソナタ第三十二番は音楽の最終形態である。そして、それは私の人生の音楽でもあるのだ。この曲を聴いていると、まるで私は、ここに自分の人生の全てが詰まっているような気さえしてくる。

 思うに音楽の偉大な点は、まさにここにあるのではないか。当たり前であるが、私がピアノソナタ第三十二番を聴いた時に感じる感動と、ベートーヴェンが実際に第三十二番を書いた時に感じていた感情は全く異なるものである。にも関わらず、私はそれを聴いて「これは俺のために書かれた音楽だ!」と考え、また錯覚する。そう、錯覚だ。音楽の偉大な点は、まさに人が感じていないものまでをも感じさせ、経験してないことまでをも経験したように錯覚させるという、その点にある。音楽的なものとは、常に人々に経験を超越させるものなのだ。

 この点において、私はペソアが書き残したある断章を思い出す。「詩人はふりをする/そのふりが完璧すぎて/本当に感じている/苦痛のふりまでしてしまう」


 ドゥルーズはかつて、プラトンが何故イデアという概念を発明したかについてを語ったことがある。「イデア」とは、純粋にそれ自体のもの、普遍的にして不変なものを指す。で、それが生まれた経緯について話す時、ドゥルーズは当時のギリシア社会のことを先ず指摘する。古代ギリシアと言えば競争社会であり、当時のギリシア人は訴訟をするのが好きだった。イデアという概念は、当時のギリシア社会において、偽の主張をする人間から、真なるものを選抜するために考え出されたのだ。ドゥルーズはそう語る。

 話は転じて、彼はここから「何故哲学が生まれ、また何故哲学が必要なのか」をも語り始める。上記の例からもわかるように、哲学とは一つの問題設定である。現状を見て、いかにして問題を設定するか。そのために哲学が必要なわけだ。そして、その問題の解答を見出すためには、丁度プラトンイデアという概念を見出したように、概念の発明が必要なのだ。概念によって、考え方を手助けし、提起された問題を解決に導く。言い換えるならば、私達が何らかの思想を必要とするのは、まさに私達が感じながらも、上手く言葉で言い表せない問題に直面した時である。その時、いかにして問題を見出し、概念を発明するかが必要となってくる。彼はそう考えるわけだ。


 全ての革命は裏切られるために存在していると言っていい。そして、これは決して言葉遊びの意味ではない。それは言葉通りの意味なのだ。

 何であれ、社会革命とはマイノリティであったものをマジョリティに適応させようとする運動のことめある。そして、周知の通り、マジョリティとは虚構であることしか出来ない。それは、一般性が個々の差異を押しつぶした上でしか成り立たないことからも明らかだ。だから、マイノリティであった頃(一部の人のものであった頃)には真実であったものが、マジョリティになった途端に欺瞞になる、ということはよく見受けれる。マイノリティがマジョリティになろうとしている時点で、既に革命の失敗は運命づけられているのである。

 では、真に成功した革命とは不可能なものなのか。否。社会革命は常に失敗に終わるが、それよりも大切なものがあると言える。それは、そもそも人々が革命的であろうとすることなのだ。そう、永久革命だ。人はそれぞれ何らかの違いを生きている。で、その人の持つ違いを全体に押し付ければ、それが虚構になるのは当然のことである。ならば、革命とは社会の場というよりかは個人の実存の中で起こるものだと考えなればならない。

 永久革命。そう呼んでいいものが存在するならば、それは絶えず革命的であろうとする人の連続、革命的であろうとする瞬間のリレーであり、その時々に宿るものだと言っていいだろう。そして、マジョリティに回収されることなきこれらの革命は、だからこそ永続するのである。革命的な瞬間を迎えた人(またはもの)に触発されて、別の人が何か革命的な瞬間を迎える。そして、それが繰り返される。この世に真の革命があるなら、それはこのように、非社会的であり、マジョリティを解体するものだと言える。それは決してマジョリティへの変革ではないのだ。