20/10/22

 喜びにも幾つか側面があるだろうが、その内の一つとして、自分の持てるものを満たすことの喜びがあるのは間違いないことだろう。たとえば散歩。私は歩くのが好きで、よく深夜に宛もなく街を徘徊したりするのだが、この時に私が感じている喜びは、自分の身体を一定のテンポで動かすことへの喜び、つまりは自分の身体が持つ機能 = 力能を満たすことへの喜びだ。散歩の際は、よく音楽を流しながらそれをするのだが、そのために一層歩くのがリズミカルになる。もう殆ど踊っているような気持ちになることさえある。丁度同じテンポで続く曲が徐々に展開していくように、私の散歩にも一つの展開があるわけだ。

 このように、喜びには自分の持つ機能 = 力能をよく活用することによって得られる点があるが、それは同時にその機能 = 力能によって何かを征服するということでもある。音楽を例に挙げてみよう。優れた音楽家には、皆独自な和声感覚や、メロディの才能があったりする。言い換えるならば、天才的な楽曲には、どれもその作曲者にしかない特徴が見られるわけだが、これもまた、自分の音楽への力能によって、自分だけの音色を獲得 = 征服したからだと言える。丁度優れた絵画の中にはその画家だけの色彩配置があるように、優れた音楽の中にも、その音楽家だけの音の配置が存在するわけだ。恋愛にしてもそうだ。恋愛の喜びは、恐らく意中の相手を獲得するというよりかは、相手によって自分の求めていたものが実現される点にある。プルーストの言う通り、「私は彼女を欲しているのではなく、彼女が内包する風景をも欲している」のである。

 では、喜びの一つが定義付けられた今、悲しみとは何かをも問わなければならないように思われる。悲しみとは何か。それにもまた幾つかの面があるだろうが、その一つとして、喜びの実現を阻止するものがあるのは間違いないだろう。つまり、悲しみからルサンチマンへの転化である。

 悲しみは自分の味わえない喜びを他人が味わっているのを許さない。悲しみは時に悪意に変化するのである。あらゆる悪意は他人の喜び = 力能の実現を阻止したいと願う。フィクションにはよく誰かを苦しめることで喜びを味わう悪役が登場するが、それはまさに悪意を通して自分の悲しみを清算したいと願っているキャラクターだと言える。どんな場合であれ、他人の邪魔をする喜びとは、悲しみの喜びである。

 時折、実際以上に自分を弱く見せようとする人がいるのはそのためである。ドゥルーズ曰く、古代ギリシアソクラテス以前の哲学者は、生き残るために聖職者の仮面をつけたという。禁欲的、宗教的な人間のふりをすることで、自らの危険な思想を外敵から守ったのだ。これと同様のことが、現代でも起こっている。たとえば容姿の美しい人の中には、よくよく謙虚で、慎ましく、社交的な人が多かったりする。それは、まさにそうすることで自らを守るためだと言っていいだろう。「いえいえ、自分は大したことがありません」と振る舞い、他人に無闇に憎まれるのを逃れているのである (で、そうしてお世辞を言い続けているうちに、本当に自分が大したことない人間のように思えてくるのである) 。この世の支配者は悲しみである。だから世の中には他人の喜びを嫌う人間が大勢いるわけだ。

 では、次に何故悲しみが生じるのかという疑問が生じてくる。さて、人が悲しみを見出すのは、自分がもっと違った人間である場合を想定した時である。何であれ、他者は自身の鏡だ。だからよく、他人の中にあったかもしれない別の人生の可能性を見る。「自分があの時こうだったら」とか「もっと自分がああだったら」とか、そんな事を考えてしまう。その可能性を潰すかのように、悲しみは他人に復讐したいと願う。悲しみが求めるのは、他人が自分と同じように悲しむことだからだ。

 一方で、世の中には違った形の悲しみもある。それは自分自身であることへの悲しみ、つまりは嘆きだ。一見すると最初の悲しみと同じように思えるが、よく見ると違う。人によっては、嘆きによって自分の人生が始まる場合がある。嘆きは自己の発見に伴って生じる場合があるわけだ。「自分はどうしてこうなのか」「自分は何故存在するのか」という嘆きがまさにそれだ。これは、人が自分の持つ力能に苛まれているからこそ生じると言える。だから、嘆く人は他人を羨むことはあれど復讐することはない。内心何かを思うことはあれど、結局自分に向かうことしか出来ないのである (無論、そこから「もし自分がああだったら」という悲しみに繋がることも多いのだが)。

 さて、私はここで、何となしにルクレティウスのことを思い出す。ルクレティウスはこう考えた。人はこの世界全体を妄想する。丁度なんらかの自然災害に襲われたりすると、人は「何故こうなったのか」と原因を探るようになる。この時、私達の心の中では「魂のトラブル」とも言うべき現象が生じる。つまり、今の苦しみは自分があの時罪を犯したからだとか、こんな風に災害に遭うのは人間が愚かで神の怒りを買ったからだとか、本来何の関係もない二つのものを一つのものにするのである。人は説明のつかない恐怖や不安に苦しめられると、この世界全体を妄想し、自分の苦しみの原因をそこに求め始める。この苦しみはあれのせいだ、自分のせいだ、神々の怒りを買ったからだ……といった感じで。そう、これこそまさに魂のトラブルである。

 悲劇の残酷さとは、一体何処から来るのだろう?悲劇的な物語だけではない、古代の神話などを眺めてみても、そこには恐るべき残酷さと道徳の欠如が見られたりする。たとえばユダヤ人達は、「人間には無限の負債がある、償いきれない罪がある」と考えて、その儀式においてよく生け贄を捧げた。だから旧約聖書レビ記には、多数の牛なり山羊なりを屠殺し、その血を祭壇に注ぎかけるといったシーンがよく登場する。それ程までにかつてのユダヤ人達は自らを (そして人類を) 罪深いものとして見ていたのである。上のルクレティウスの例のように、自分達の理解不能な不幸 = 悲しみを皆、自分達の罪深さに結びつけたわけだ。

 これは実に面白いことである。悲しみは残酷さを求める。そして、これと似たようなことは、現代の私達の日常の中でも見受けられるのだ。私達は常に好きこのんで残酷な、悲劇的な物語に触れる。それは、日常的に私達が悲しみの償いを求めているからではないか。現実での苦しみを昇華するために、私達は悲劇の残酷さを求めるのである。そして、そのために発展した文化が、この世には沢山ある。旧約聖書だってそうだし、言ってしまえばルクレティウスの発見にしてもそうだ。喜びが昼の輝きならば、悲しみは夜の闇である。そして、夜がこの世界を深くしている。闇夜にあれば、人は星雲の煌めきと月光の清らかさに驚かされる。悲しみの芸術的な多様性は、まさに人間が人間たる所以である。


 確かカントは『判断力批判』の中で、無関心を普通より高次な感情として定義づけていた。はじめ読んだ時には大分エキセントリックな意見だと思ったが、今ならその言いたいことの意味が理解できる気がする(共感できるかどうかはさておき)。

 さて、無関心とは何か。もし特定の執着を抱かず、素朴に相手を眺めることも「無関心」と呼んでいいならば、素朴に、あるがままに相手を見ることによって得られる相手への理解や、執着していた頃には見えなかった相手の美点なども見えてくるのではないか。そして、このように素朴に誰かを愛するという事も、可能なのではないか。もしそうだとするならば、無関心は必ずしも悪いものでない。

 とは言っても、私は何も「他人に無関心でありたい」というわけではない。本心をいえばその逆だ。もっと他人と関係したい。ただそれ以上に、私は素朴な人間でいたいのである。私はこの時代の誰よりも素朴でありたい。クレイジーな人には、確かにその人にしかない面白さがあり、愉快さがある。ただ、私は何よりも物事を明晰に捉えられる人間になりたい。常識を壊すためには、それだけ常識を知り、常識的である必要がある。

 リルケの詩の美しさは、彼のその感性の素朴さにあるように思われる。そして、素朴だからこそ自然に人に刺さる言葉が生まれてくる、というのもあるのではないか。私自身、何度リルケの詩に驚かされたか知らない。ここで彼の詩を一つ引いてみようと思う。

 「ゆりかごのように/悲しく僕を疲れさせるお前だが/しかし僕は一晩中/寝床で涙していたと/お前に告げはしない/お前も僕のせいで/夜に眠れなかったと言いはしない/この極端な美しさを/互いに黙って/いつまでもじっと耐えてみたら どうだろう/…… 世の恋人たちを見るがよい/やっと告白がはじまると/もう彼らは嘘を強いられている」


 最近よく思うことは、「駄目になってはならない」ということだ。皮肉屋であるのが悪いとまでは言わないが、「どうせ自分は駄目な奴だ」と考えるのは間違っているように思われる。なるほど、確かに私には駄目な所がある。しかし、私達は常に自分の限界を知ることが出来ないのである。言い換えるならば、人は自分がどれだけ駄目になれるか、その限度をも知らないというわけだ。それは自分の理性の限界がどこにあるのかわからないのと同様だ。どんな人にも限界があるが、しかし誰も自分の限界を知らない。この逆説にこそ、私達が「自分は駄目な奴だ」と思い込んではならない理由がある。

 私にはどこか自暴自棄な所がある。今日までの素行を振り返ると、その事に気がつく。でも、それではいけないのだ。投げやりになって、自分に諦めをつけてはならない。こうして「自分は駄目な奴だ」と考え続けるのは愚劣そのものだということに気がついたのだ。それこそ、まさに悲しみの復讐にうち負けてしまうことである。

 いかなる時でも、喜びを信じなければならない。