20/10/25

 ドゥルーズの生涯には「空白の八年間」とも呼ぶべき時期が存在する。その処女作であるヒューム論(『経験論と主体性』)を発表してから、その後に続く八年間、彼は一切の著作を発表せず、ただただ沈黙を保ったのである。「空白の八年間」を終えると、彼は初期の代表作である『ニーチェと哲学』を出版する。そして、それから矢継ぎ早にカント論、プルースト論、ベルクソン論を発表するのである。

 しかし結局、この八年の間に一体何があったのか、それが詳細に語られたことは一度もない。私達はただ、その頃のことを憶測する以外に考える手段を持たないわけだ。しかし、この時期に彼がニーチェを発見し、またカフカ英米文学に影響を受けたのは事実らしい。「私を窮地から救ってくれたのはずっと後になってから読んだニーチェだった……」

 さて、ニーチェとの出会いがドゥルーズを「空白の八年間」から救い出すきっかけとなったとすれば、彼はそこから偶然によって救われたということにもなる。何故なら、あらゆる出会いとは予期せぬもの、不意に訪れるもの、こちらの思いもよらないもの、偶然なるものだからだ。美しい出会いとは、だからこそこちらに新鮮な印象を与えてくれるのだが、それは同時に、人は意図的に感動的なものと出会おうとしても出会えないということをも意味している。

 では、それに対して私達に出来ることとは何か。それは、ただやがて来る出会いを待ち伏せすることくらいだろう。丁度同じ古本屋に何度も通いつめて、いい本が来てるかどうかを確認するように、良さそうなところに蜘蛛の巣を張って、そこに来る出会いを待ち伏せするわけだ。

 ドゥルーズがどうやってニーチェと出会ったか、それはわからない。しかし、彼はその出会いから「窮地から抜け出す」ようなものを見出した。ここで私が思い出すのは、『ジャン・クリストフ』の第九巻に出てくる、ある一つの場面である。精神の苦悩に苛まれ、意気消沈していたクリストフは、スイスの山奥である病院の入院患者に出会う。クリストフは既に以前彼と会ったことがあった。かつては自信家であった彼も、今では青ざめた敗残者であった。その狂人は絶えずどこかを見ていた。だからクリストフは彼に「どこを見ているのか」と聞いた。それに対して、狂人は答えた。「待っているのだ」と。「何を?」「復活を……」


 人は幸せになるというよりかは、むしろ幸せを見出すのである。何故なら、人は「幸せである」ことはあっても、「幸せになる」ことは決してないからだ。しかし、この二つの状態には、一体何の違いがあるのか。

 さて、もし「幸せになる」という言葉を長期間(または死ぬまで)幸せが続く状態とするならば、人は死んでも幸せになれないと言えるだろう。何故なら、人間とは直線的な存在であり、一度経験したものを踏まえなければ今を生きることが出来ないからだ。言い換えるならば、あらゆる幸福はただの一度しか味わえないということである。もし同じ幸福をかつてと同じように楽しもうとすれば、自ずと過去の経験が比較されるものとして存在し、かつてと同じように楽しむことを拒まれるだろう。そう、過去の幸福な思い出ほど、現在の幸福を妨げるものはないのである。

 では、そもそも幸福とは何かという疑問が頭に思い浮かんでくる。そう、幸福とは何か。それは見出されるものなのではないか。では、見出されるとはどういう事か。それは発見されるということ、発明すること、でっち上げるという事だ。何の関係もないように見える二つのものを、もし論理的に繋がりがあると説明できたならば、人はそれを発見と呼び、また発明と呼ぶだろう。それと同様に、幸せもまた発見されるものであり、発明されるものなのである。つまり、幸せとはそれぞれの認識の問題、認知の問題なのである。

 ここでひとつの例を取り上げてみよう。四六時中「私は不幸だ」と泣き喚いている女性がいたとする。泣きながら、彼女はなぜ自分が不幸なのかと考える。やがて彼女は思い至る、「私に足りないのはお金だ」と。するとここで、親族の誰かが死んで、莫大な遺産が彼女に残される。素晴らしい偶然だ。よし、これで彼女も「私は幸せだ」と考えるようになるだろう。そうかと思うと、なるほど一時的にそう思うことはあれど、暫くしたらまた「私は不幸だ」と泣き喚き始める。そして、次に「私に足りないのは美しい夫だ」と考えるようになる。そして彼女は、またもや運良く容姿端麗な夫を得ることが出来た。しかしそれでもまだ不満は解消されない。少し満たされたと思ったら、また大いなる不満に襲われる。だから次の瞬間にはこう考える、「私に足りないのは情熱的な恋愛だ」と。こうして彼女は自分より年下の男と不倫を始める。しかしまた再び、どうせ彼女は「私は不幸だ」と嘆き始める……以下同様。

 頭の中で思い描いていた幸福の大体は、実現しても自分の頭で思い描いていた程に幸せなものではない。それは理想と現実(または予想と実際)の間には必ず差異が生じるからでもあるが、何より、人が幸福を夢想するのは、自分がもっと別の人間だった場合を想定するからである。人は他者の中によく「あったかもしれない別の人生」の可能性を見出す。他人を見て「自分もああだったら」と考えたり、また「自分にはあの人にあるものが足りない」と考えたりする。だから結果として、自分にはないものを求めてあくせくするようになる。がしかし、実際にかつての自分にはないものを得たとしても、きっとその人は「何かが違う」となって、また自分にはない幸福を求め始めるのである。だからいつまで経ってもそれがないものねだりであるということに気が付かない。

 良くも悪くも、人は自分であることしか出来ない。そして、あらゆる不幸が自分自身であることから生じるのだとしたら、あらゆる幸せもやはり自分自身であることから生じるのではないか。こうして、私達が幸福になる唯一の方法が、今ここで示されることとなる。つまり、幸福のないように見える状態に幸福を見出すこと、それである。

 この事を思いついたのは、かつて教会に通っていた時のことである。私の通っていた教会では、礼拝毎に黙祷の時間を持つ。そして、黙祷に入る前に、必ず牧師がこう言うのである。「祈りのときを持ちましょう。私達が祈る理由は、今自分に与えられているものに気がつくためです」と。これは実にキリスト教的な考え方だ。キリスト教徒は、それぞれが皆神に愛されているから、今の自分の生活にも神の愛が何処かで働いていると考えようとする。そういう教えがあるのだ。結果として盲信めいたものが生じやすいのは事実だが、しかし幸福というものは、ある程度盲目にならなければ手に入らないものなのかもしれない。幸せになるとは、何処かである程度鈍感になるということなのである。幸福とは信仰の対象なのだ。

 無論、現状に不満を抱くことは何も悪くない。あらゆる進歩と発展は、現状に不満があるからこそ生じるのだから。ただ、幸せになることを求める人の大半は、進歩や発展のことなど糞ほどどうでもいいと思っているのも事実だろう。自分の不幸に精一杯な人は、まず第一に自分の不幸が解決されることを求めるからだ。


  最近「死ぬのも悪くないな」と考える時間が増えてきた。誤解は避けたいが、別に「そろそろ自分も死のうかな」という意味で書いているのではない。それに、どうせ私はまだ死なない。事故にでも遭わない限り、あと十年は死なないだろう。その自信がある。では、上の言葉は何を意味するか。それは、「やがて死ぬのが楽しみである」という事だ。

 人が死んだら、一体どうなるのだろうか?何もない暗闇に還るのか、それとも天国なり地獄なり、それら死後の世界と呼ばれるものへ向かうのか。では、この二つの場合を検討してみようと思う。

 先に後者の場合を考えてみよう。もし死後の世界がその先にあるとしたらば、私は非常に楽しみである。そこには人が議論していたようなものがあるのか、それとも全く別の、私達が思いもしなかったようなものがあるのか。死は、私にそれを確かめるきっかけを与えてくれるからだ。ならば、これはまたとない機会だと言える。

 次に、もし死後の世界などなくて、あるのは一切が無に帰った状態だとしたら、どうだろう。それはそれで悪くないのではないか。そうなったら、私はもう何かに苦しめられなくていい。生きていれば、人は何かを感じたり、考えたりすることを強いられる。そして、あらゆる喜びはこの感覚と経験から生じるが、あらゆる苦しみもまたこの感覚と経験から生じるのである。もし死ぬことが永遠に覚めない深い眠りであるならば、私はもう生きて何かを感じたり、考えたりしなくていいということである。素晴らしいではないか。私はやっと自分の求めていた平穏を手に入れたことになる。

 再三書くが、別に死にたいわけではない。実際はむしろその逆である。私にはまだ読んでない本も多いし、経験していないことも沢山ある。だからまだまだ生きるだろう。そして、実際に死が現実的となる老年の日々を迎えた時、私はこう考えるに違いない。「あの頃は俺も若かったな」と。そしてやや皮肉っぽい微笑を口元に浮かべるだろう、きっと遠くの空を眺めながら。

 そう、どうせ私はまだ死なない。実際、来年も再来年もピンピンしているだろう。毎日食事も摂っているし、毎日よく眠ってもいる。オナニーだって毎日している(私は右利きなのだが、オナニーの時は必ず左手で慰めを施している。これは中学の頃からの癖である)。ただ、悲しいかな、最近は昔のようにカップ麺を楽しむことが出来ない。たまに食べると美味しいのだが、毎日は食べられなくなってしまった。しかし、これもいい機会なのかもしれない。私は普段好んで外出することが少ない割に、スピノザのように浅黒い肌をしている。これは恐らく、普段の不健康な食生活のためだろう。それを正すいい機会なのかもしれない。

 ただ、ドゥルーズも書いていたが、疲労とはなにかの終わりを感じさせるものである。たとえば一日の内に感じた疲労は、その一日が終わりつつあることをこちらに感じさせる。それと同様に、生に対する疲労は、生がもうじき終わるような錯覚をこちらに与える。そう、生きるとは疲れるということだ。私は疲れた。何故ロマン派の芸術家達が皆死に魅せられていたか、今ならわかる気がする……しかし、また誤解されるようなことを書いてしまった。やがて、こんな若き日々を回想し、懐かしむ時がやってくるのだろう。私は今から、老年を懐かしく思うのである。


 時々、昔仲の良かった友達の事を思い出す。たとえば四、五年前に仲が良くて、今は疎遠になった人がいるとしよう。で、ある日ふと、また昔と同じように友達付き合いがしたいと思う。しかし、いざそうしようとしても、それが中々上手くいかないのである。私が変わったのか、はたまた向こうが変わったのか。またはそのどちらもなのか。何にせよ、ここで私は、そもそも我々が互いに同じものを見ていなかったということに気がつく。私達は、それぞれがそれぞれ、違う思惑ありきで友達付き合いをしていたのであり、私が相手に求めていたものを、相手もまた私に求めていたわけではない。そして、それを上手く誤魔化すことによって二人の友情は成立していたわけだ。こうして私は、何故私達の友情が終わったかにも気がつく。そう、美化することで誤魔化していた感情の不一致を誤魔化しきれなくなったからだ。

 とまあ、長々と例え話をしたが、別に実際にそのような友情の行き違いをここ最近で体験したわけでもない。むしろその逆で、先日、昔からの友人に久しぶりに会って、実に楽しい夜を過ごしたことがある。ただ、ここ一、二ヶ月の間によく思うのである。「前よりも、よく現実が見えるようになったな」と (無論、それも自惚れなのかもしれないが) 。

 上のたとえ話は、そんなここ数ヶ月の間に思い浮かんだものである。私はいつもないものを求めていた。そして、最近になってやっと自分の求めていたものが存在しないということに気づいたわけだ。いや、受け入れられるようになった、と言い換えていいかもしれない。

 私は元々、人と関わるのが好きではない。そう言うと少し語弊があるかもしれないが、誰かと一緒にいたら、同じくらいひとりの時間が恋しくなる。これはもう相手が嫌いとかではなくて、生理的に人と関わるのが苦痛になるのだ。これは頻繁に人と関わる私の現在の生活と矛盾している。何にせよ、いつかこの矛盾を清算する日がやって来る。それは間違いのないことだろう。

 人はよく孤独を悪く言うが、それはそんなに悪くないものだと思われる。なるほど、確かにひとりでいるとよく寂しさを感じる。実際、私は毎日寂しいと思っている。しかしそれよりも、他人の好意を得ようとして、当人のいない所で好んで友人の悪口を言ったりすることの方が、私には遥かに耐えられないものがある。普段は楽しそうにつるんでいるくせに、裏では互いに見下し合っている。そんな下らない友人付き合いよりも、ひとりでいる方がずっと好ましい。