20/11/20

 夜、薄明かりの部屋の中。私は何故自分がこうなのかを考えていた。

 私の性格には面倒くさがりなところがある。床の上には本とか、脱ぎっぱなしの靴下とかが沢山散らかっている。ベッドの下など本当に酷い。私には、寝る前にベッドの上に読みたい本を山積みにする習慣がある。いつも念頭に置いているから、また目が覚めてすぐにでも手の届く場所にあって欲しいからである。しかし寝ている間にそれらを蹴っ飛ばしてしまう (私は寝相が悪いのである)。結局、翌朝には読みたい本をベッドの下で見つけることも少なくない。そんな時は本を探すのがとても厄介になる。ベッドの下に手を突っ込んで、やたらめったらと暗闇で手を泳がせる。やっと読みたい本が見つかる。するとその頃には気分がやや疲れている。

 何度も片付けなきゃと思いながらも、結局今日まで部屋の片付けをして来なかった。するのが面倒だからだ。無論、今日もしていない。自分のよくないところだと自覚はしているが、何がする気にもなれない。そんな意欲もわかないのである。

 では、何故意欲が湧かないのか。それは「こんな事をしても何になるんだ」という気持ちが心のどこかにあるからかもしれない。部屋を片付けで、生活がしやすくなる。で、それが一体何になるんだろう。突拍子もないように聞こえるかもしれないが、私は本気でそう考えているのである。これは、言い換えれば「一体自分は何のために頑張っているのだろう」または「一体自分は何のために頑張ればいいのだろう」という事でもある。

 こんな私にも、一応真面目に取り組んでいることはある。しかしそれ以外については恐ろしくだらしなく、不真面目である。私は無感動な人間だ。何にも熱くなることが出来ない。何のために熱くなればいいかわからないからだ。

 先程の話に戻ろう。「一体自分は何のために頑張ればいいのか」、これを更に言い換えるならば、「一体自分は何のために生きればいいのか」となる。人は生きる理由を求める。理由でも見出さなければ、生活などやっていけないからだ。そして、理由が見いだせないまま生きる人間には二通りの種類が存在する。つまり、そもそも「理由」なきことに悩んでいない人か、または「理由」がないまま自分の孤独や虚しさに苛まれている人か。また、突き詰めて考えるならば、「理由」の不在に悩まない人もまた、二通りに分けることが出来る。つまり、そもそもそんなことで悩まない程に生を楽しんでいるか、それとも他の感覚で自分の悩みをなんとか誤魔化しているか。

 大抵の人は、自分の心の騒音(孤独や寂しさ)を別の騒音でかき消している。たとえばある人は、とにかく誰かと一緒にいたり、または直接的な快楽を求めたりする。世の中が悲観的になると、薬物とセックスとか、そういった直接的な快楽に溺れることを求める人が増え始める。真面目にやっても報われない、だから真面目の反対にあるものを理想化する、というわけだ。で、最近は悲観的な人が増えた気がする。そして、そのような人の大半は、とにかく他人と一緒にいることを求めたり、酒や何かにすがろうとするのである。

 またはSNS。現代のSNSは、昔のラジオやテレビと同じ役割を果たしていると言える。つまり、ただひたすらに情報を垂れ流すことで、沈黙をかき消すのである。沈黙は孤独な印象を私達に与える。そして孤独は死に近い。だから沈黙は人の心に不安な喧騒を起こすことに繋がる。そしてそれをかけ消すように、とにかく何らかの情報を垂れ流す。で、その垂れ流しに触れることで、または自分が情報を垂れ流す側になることで、何とか気を紛らわせようとしているのである。

 で、私も上の二つの例に当てはまらないわけではない。現代は孤独と疎外の時代である。 私達は暗い時代を生きている。よく、何をするでもないのに、ただただぼんやりスマートフォンの画面を眺めて時間を過ごしてしまう。で、何もしないまま一時間が過ぎている。無駄な時間を過ごしているのはわかっているが、そうでもしないと気が紛れないのである。

 今日まで、なるべく誠実さを大事にして生きてきたつもりだ。しかし時折、私には自分の傲慢さと誠実さの区別がつかなくなることがある。そんな時に、よく思うのである。「一体理想と現実の何処で折り合いをつければいいのだろうか」と。ニーチェベルクソンドゥルーズ。三人とも待つことの大切さを問いた哲学者である。なるほど、待つことは大切だ。やがて今の苦しみが報われる日が来る。私はそう信じている。しかし、この苦しみに耐えるためには、一体どんな忍耐をすればいいのか。一体いつまで私は待てばいいのか。そもそも待つ必要があるのか。何故他の人が容易に手に入るものが、自分には手に入らないのか。それは自分が間違っているからではないか。なら、自分は一体何処で理想と現実に折り合いをつければいいのか……など。そんな答えの出ない問いに考えを巡らせてしまう。

 こうして焦りが募っていく。他の人達だけ光のある世界に生きていて、まるで自分だけが暗闇に取り残されているかのような気分だ。しかし結局何もしない。何故か。何もする気が起きないからだ。したところで一体何になる?どうせ何も変わらない。今の生活がマシになった所で、どうせまた虚しさとか寂しさに苛まれる。何故か。それは他ならない、自分の生きる理由がわからないからだ。何のために頑張ればいいのかがわからないからだ。

 「自分のために生きればいいのでは」という意見も出てくるだろう。否、今日まで自分はそうしてきたつもりなのだ。誠実に生きるということは、自分勝手に生きるということだからだ。他人に誠実であるためには、先ず自分に誠実であることが必要だ 。そして、自分に誠実である限り、人は自分のためにしか生きられないのである。しかし、何処かで自分のためにいきることをやめなければ、そもそも他人に向き合うことも出来ないのではないか。

 私は今日まで自分のために生きてきた。結果として分かったことがある。これではまるで一人芝居だ。私には耐えられん。何処まで行っても、舞台の上には自分以外の誰もいないのである。そうだ、耐えられん。

 「耐えられん」、そうは書いたものの、今日までにもう何度もそう感じてきたかはわからない。そして、何度も「耐えられん」と感じながらも、 結局今日まで生きてしまった。要するに、私は自分の独り舞台に耐えられたのである。笑える話だ。あんなにも「耐えられん」とか嘆いていたくせに。

 結局、自分はがさつな人間なのだろう。他の人なら耐えられなかったかもしれないが、私はがさつで無神経な人間だから、自分の孤独に耐えられてしまったのである。もしくは、ただ自分の感情を誤魔化すのが得意なだけかのかもしれない。「耐えられん」と思っても、なんだかんだ耐えてしまう。そのためにも色々なことをして気を紛らわす。もとい、目を逸らすと言い換えてもいい。がさつで無神経で、その上都合のいい人間だから、自分に不都合なことはすっかり忘れてしまう。そんな自分を哀れだと思うが、同時に滑稽だとも思う。モーパッサンの短編にありそうな話だ。実際、私はこれを笑いながら書いている。我ながら愉快である。

 そのつもりはなくとも、自虐と自嘲をやめることができない。だからだろうか、他人に真正面から向き合えない理由は。もしかしたら、私は自分が嫌いなのかもしれない。自分としては自己愛の強い人間だと思うのだが、どうなのだろう。


 病気とは何か。たとえば体温は、それ自体では病気とは見なされず、(当たり前だが)誰にでも備わっているものである。しかしそれは、平均より高くなったり低くなったりした時に病気として認知される。精神的な病も、恐らくこれと同じである。気分が落ち込むことは、確かに誰にだってあるかもしれない。ただそれが頻繁だったり、または常時だったり、もしくは落ち込み方が異様だったりした時、それはうつ病として見なされる。その反対の場合も同様で、気分の落ち込みが一切欠如した人間は、最早気分が高揚することもないため、それは一種の病気なのである。精神病患者とは、このように、ただ人が元々持っている性質が異常なまでに肥大化した(または縮小化した)人間を指すのだと言っていい。丁度体温が異常に高くなった時、その人が病人として見なされるのと同様に。もとい、そういう意味では、人間は本質的に病への意志を内に秘めた存在なのだと言っていいのではないか。

 関心を持っていることは沢山ある。だから他人に無関心というわけではない。ただ、私は自分の関心事を表出させるのが苦手なのだ。結果として、人によくあらぬ誤解を与えることがある(他人に興味が無いとか、そういう類のものだ)。実際、どういうわけはわからないが、私は他人に自分の本心を知られるのをとても恥ずかしいと思う傾向にある。だから好んで他人に誤解されたいと願う。そういう意味では、このような結果になるのは当然なのかもしれない。

 愛というものは共感から生まれるのではないかと思われる。一目惚れにしてもそれは同じで、相手の見た目が別の印象(「きっとあの人はこうなんだ」という印象)を想起させるからこそ、それは生じる (たとえば、こけた頬を見れば人は内気さを想起するし、褐色の肌は相手の快活さを想起させる) 。

 異性には母性というよりかは姉妹のような友情を求める傾向にある。愛する異性に対して、先ず何よりも自分の一番の親友であり、家族のようであることを求めてきた。私は愛されたいと言うよりかは信頼されたいのである。それから、出来れば次の傾向を持っていると好ましい。つまり、私と同じで、人が嫌いであって欲しいのだ。私には友人が沢山いる。そして、私の友は皆私を愛してくれているし、私もまた友に対しては忠実でありたいを願っている。しかし、そうでありながら、同時に心のどこかで人を嫌悪しているのである。矛盾しているように見えるかもしれないが、実際そうなのだ。私は人が嫌いだし、人と関わるのも好きではない。

 こちらに知性を感じさせる人とは、何らかの形で恥を知っている人である。そして生きていく上で、人は何らかの形で恥をかかざるを得ない。だからだろうか、かつての恥を忘れて何者かであるかのように振舞っている人には、何か鼻につくものがある。自分以外の何かを演じているように見える。まさに「恥知らず」に見える。だから矛盾を感じたり、違和感を覚えたりせざるを得ない。少なくとも私はそうだ。言い換えるならば、何らかの形で恥を知っている人は、こちらに美しい印象を、知的な印象を与える。恥を知るとは何か。それは自分の弱さを知ることだ。

 私の悪い所として、知ったかぶりをよくしてしまうところがある。見栄を張るつもりはないのだが、話の流れの中で、ついつい「ああ、そうだよね」と頷いてしまうことがある。自分でも、何故そんなことをしてしまうのかを考えてみた。で、虚栄心からしてしまう事も勿論あるが、何より場の空気を壊したくないからというのがあるのかもしれないというのが思い浮かんだ。相手が、または周りが楽しそうにしながら、何か一つのことを前提として話している。で、自分がここで「知らない」と言えば、相手の話の腰を折ることとなる。それは、何だか気まずいきがする。だから知ったかぶりをしてしまう。そんな事もあるのではないか。


 散歩の際によく通る公園に向かうと、木々は皆丸裸になり、一面は落ち葉で満たされていた。紅葉の季節が終わりつつある今、私達は冬を迎えようとしている。日によっては本当に寒いが、例年に比べ暖かい日が続いているように思われる。おかげで過ごしやすい。落葉を足で踏むのを楽しみながら、少し暑いコートを羽織りつつ、私はそんな事を考えていた。それから次のことに思いを馳せる。「ああ、去年の冬からもう一年が経つのか」と。長かったような気もするし、短かったような気もする。色々なことを体験したし、変わった部分も多いかもしれないが、結局自分は何も変わっていないのかもしれない。去年の今頃、私は自分がどうすればいいのかで悩んでいた。そして今年の今、私は未だに自分がどうすればいいのかがわからないでいる。

 友よ。毎日、君のことを考えている。君は私のことを覚えているだろうか。覚えていてくれたら嬉しいのだが。

 湿った風が吹いている。既に冬を前にしているのに、今日はどこが夏の終わりを思わせるような一日であった。