20/11/23

 ドゥルーズには三つのベルクソン論がある。一つは一九六六年に発表された『ベルクソニズム』で、あとの二つは彼の死後発表された『無人島』に収録されている短い論文だ。どちらも一九五〇年代に発表されている。で、その二つを読んだ後に上の『ベルクソニズム』を読むと、そうでなかった頃に比べて遥かに違う読み方が出来ることに気がつく。当時は見えてこなかったものが、今は鮮明に、はっきりと浮かび上がってくるのである。

 ドゥルーズの『ニーチェと哲学』を読んだ時、私は痛く感動したのを覚えている。本当に、目からうろこが落ちる程に感動した。それも、私が元々ニーチェが好きで、よく読んでいたというのがあるだろう。このように、この世界には、なにか別のものを踏まえなければ見えてこないものというのがある。丁度ミステリー小説で行われる謎解きのように、今現在には生きられない時間があって、その余白を埋めるためには、他の、別のところにある伏線を回収しなければならないのである。


 悪とは何か。あらゆる悪は社会的なものである。ある人の邪悪さとは、かつて自分が苦しめられたという意識に基づかなければ発生しない。よって、純粋な悪、無私な悪とは存在せず、悪事を働きたいという感情は、常に自分の過去の苦しみの清算であり、償いなのだ。

 悪とは一つの復讐の形である。周知の通り、人は自分が与えられたと感じたことのあるものだけを他人に与える。無差別殺人を行う者は、かつて無実の自分が苦しめられたと感じるからこそ、無差別に、何の罪もない人を殺したいと願うわけだ。

 こうして悪の本性が見えてくる。悪の目的、それは他人の喜びを阻止することにある。人はよく、他人の内にあったかもしれない自分の姿を見出す。「もし俺があんな風に苦しまなければ、俺もアイツのように……」といったふうに。だから悪は、他人の喜びの実現の邪魔をする。もし自分があのような苦しみを負っていなかったら、自分も目の前の人と同じような、平穏な生活が送れていたはずだ。通り魔や無差別殺人の類は、おそらくこのようにして発生するに違いない (言い換えるならば、もし純粋に殺人それ自体に喜びを見出している人がいたならば、その人は悪でないのである)。

 さて、ここから少し大袈裟な話になるが、私には、昔から「よい人間になりたい」という理想がある。子供の頃、自分の周りには尊敬できる大人が一人としていなかった。とりわけ、私が最も助けを必要としていた時、私を助けてくれる人など誰もいなかったのである。

 では、私が「よい人間になりたい」と思うのは何故か。なるほど、確かに私の周りには尊敬できる大人がいなかった。しかし、故人や遠い異郷の地の果てに、私は自分の尊敬出来る対象を見出した。無論、実際の面識はないので、敬愛した人々の実物が私の憧れていた通りだとは思わない。しかし、問題はそこではない。こうして、私は「よい人間」を知ることが出来たのである。

 心の定まらない思春期の日々の中で、人は自由よりかはむしろ服従を求める。自分を導いてくれる存在や、自分が耳を傾けるべきものを得ることで、不安定な自己を安定させたいと願うのである。そして、それが見いだせなくなれば、人は邪悪になり、堕落することを求め始める。だから、他人に尊敬されたいわけではないが、他人にいい影響を与えられる人間になりたいとは常々思っている。綺麗事に聞こえるかもしれないが、一応本心である。

 

 私にはまともな学歴がない。かつてはそれに悩んだこともある。というのも、例えば過去の文豪なり何なりの多くは、それなりにいい学歴の持ち主だからだ。恥ずかしいから直接的には言わないが、私は将来、書くことを生計の一つとしたいと思っている。だから過去の成功者達が自分と違うことに結構な戸惑いを感じていた。

 そんな私のコンプレックスを解決してくれたのがリルケである。彼は手紙に次のような内容を書いたことがある、「自分にはまともな学歴がない。しかし教養というものは、ある程度の経験を積まないと理解できない場合がある。だから自分はこれでよかったと思っている」と。苦節を歩んできたからこそ得られた個性がある、彼はそう書いているのである。

 これには随分慰められた。「ああ、こんな風に生きてもいいんだ」とか、「こういう人間がいてもいいんだ」と、私はよくそう思ったものである。同じように、なにか一般から外れることで悩んでいる人というのは多いように思われる。そのような人に対して、私もまた「ああ、こういう人間がいてもいいんだ」という安心を与えたい。いつかそうあることが出来たらと思っている。無論、今はまだ絵空事なのだが……。

 ただ、こうして今、私なりの「よい人間」の定義が見えてきた。一般性とは一つのモデルである。だから一般社会に生きる人は、常にこのモデルに自分を寄せながら生きることとなる。しかし、辺りを見渡せばわかるが、一般性のモデルを体現したような人間など何処にもいない。『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』のような家庭は何処にもないのである。そして、どんな家庭も、必ず何処かしらの欠点を抱えている。大抵の親は子供の頃から抜け出せないまま親になるし、子供は子供で、成長するにつれて親の期待にそえなくなる。しかし一般性は、モデルは常に社会のうちに存在している。だからそれと自分を比較して、自分がおかしいことに悩んだりする人もいるだろう。

 だから「よい人間」とは、思うに、このような矛盾を克服し、自分が既に一つのモデルとして存在しているような人なのだ。一般性と自己との間で揺れる人達に、「こういう人がいてもいいんだ」という安心感を与える存在、「自分は変じゃない」「自分はひとりじゃない」と思わせる存在、そのような者こそ「よい人間」なのである。そして、そのような人は、既に自分だけに固有な性質を生き、主体化し、他の誰でもない個人の生を生きているのである。


 人は不幸に憧れを抱く。私達の性格は皆、私達自身の手で編み出されたというよりかは、むしろ私達が今日までに直面してきた出来事によって形成されているからだ。そして、人の性格を以前と違うものにするような出来事は、たいていの場合、幸福よりかは不幸なものばかりなのである。変化には喪失が付きまとう。ドストエフスキーの『白痴』などはそのいい例だ。彼は一つの出来事を描くと、次に数カ月後のことを描いていたりする。そして、描かれる出来事は幸福なものよりかは不幸なものの方が多いのである。

 不幸は人を特別にする。不幸は人の生活を特異的なものへと変化させる。映画や小説を開くと、大体のロマンチックな物語が、過去に傷を負った人達が出会うことによって始まることに気がつく。ジッドの有名な『狭き門』を例にとろう。幼い頃から付き合いのあるアリサとジェロームが主役の二人である。ジェロームは既に父親に先立たれて、彼は母子家庭で育てられている。そして、アリサもまた、幼少の日に自分の母が愛人と浮気している現場を見てしまい、やがてその母親は愛人と駆け落ちしてしまう。それに傷つき、ひとり泣いているアリサの姿を見て、ジェロームは幼いながらに彼女のために生きることを決意する。彼女のためならどんな苦難も耐えてみせる。彼は彼女を庇うように抱きしめた。そしてこう考え始めるのである。「私は全心から神に訴え、我が一生の目的は、このアリサを恐怖、不幸、生活から守ることに他ならない思い、自ら進んでそれに当たろうとした……」

 実に美しいストーリー展開である。孤独な、寄る辺のない二人の子供が、お互いのために生きようとする。恐らく、この小説に感動した人の多くは、感動すると同時に彼ら二人の置かれたその特異な環境(不幸な、しかし美しい環境)に憧れを抱いているに違いない。おまけに、『狭き門』を含むジッドの小説のいくつかは、実際に彼と彼の妻がモデルになっている。こうして小説の外にあるものが、小説の内を美しくする。また、彼の小説は主人公の一人称で語られることが多い (「僕は、私はこうで、その時彼女はこうだった……」といったふうに) 。結果として、物語全体に漂う君- 僕-世界な価値観がいっそう強くなる。

 人は何も欲しないよりかは、むしろ不幸を欲する。何もないよりも、何かあった方が遥かにマシに見えるものである。


 一人でいる時、よく自殺する妄想をする。正確には、人といる時にもすることがある。とは言うものの、別に本当に自殺したい訳では無い。実際に拳銃などを渡されたなら、私は怖くて仕方ないだろう。ただ、いつからかは忘れたが、私はよく自殺の妄想をするようになった。首をくくる、今まさに目の前を通り過ぎる電車に身を投げる、拳銃で頭を撃ち抜く……など。

 昔は自分のこういった所を大袈裟にとらえ、悩んでいた気がする。しかし、人はどんな事にも慣れていくものである。気がつけば、私はこの習慣を特に何とも思わなくなっていた。妄想の頻度は日によって違う。ある時期は沢山するが、またある時期は殆どしない。最近はと言えば、少し前よりかは自殺の妄想の頻度が増えた。

 今はただ、嵐が過ぎるのを待つだけである。

 恐らく、私は人より鈍感なのだろう。昔は、見たくないものまで見えてしまうような気がして、見えるものをわざと見えないふりで済ませることが多かった。しかし、気づかないふりを続けるにつれて、私は本当に気づかなくなってしまったのである。かつて見えてたものが見えなくなってしまった。仮面を被り続けるにつれて、仮面自体が本体になってしまった (しかしもしかすると、元々私は何も見えていなかったのかもしれない) 。やはり恐らく、私は人より感が鈍いのだろう。

 ニーチェは確か次のようなことを書いていた、「生に苛まれる者にとって、自殺を考えることは一種の慰めである」と。これと似たような記述はスタンダールの小説にも出てくる(悩める主人公が、自殺について思いを巡らすことで気を和らげる……)。ニーチェスタンダールを愛読していたから、恐らくここから取ったと思われる。そして、これら二つの例からわかるように、私は本当に死にたいというよりかは、むしろ慰めのために(生きるために)自殺を考えているということになる。ならそう変な話ではないはずだ。

 まあ、いつかは治るだろうと楽観している。恐らく、私はまだ精神的な安定を得ていない、病んだ人間なのだろう。または、思春期の影から未だ抜け出せないまま大人になってしまったのかもしれない。しかし、いつまでもこの状態が続くとは思っていない。やがて嵐の夜が明け、再び晴天の昇る朝が訪れる。私はただ、その日が来るのを心待ちにしているのである。きっと老境に到れば、今の自分を懐かしく思うに違いない。そう、きっと多少の恥じらいを感じながら。

 「老年を懐かしむ」とは、これもリルケの表現だが、今の私はまさにその気分である。いつかこの時を懐かしく思う時が来る。そんな未来のことを、私は今から懐かしく思うのである。


 美しい映画を観ていると、一時間二時間の内容が、まるで十分二十分の出来事であるかのような気がしてくる。または十分二十分のことが、まるで一時間二時間のことのように思われてくる。

 美しい時間は、常に普段の時間軸を狂わせる。一瞬が永遠のように思われて、また永遠が一瞬のことのように思われる。一秒過ぎたと思えば一生が過ぎて、また過ぎゆく一生はこの一秒に似ている気がする。

 同様のことは、マーラー交響曲を聴いている時にも感ぜられる。 数十分一時間のことが、まるで一分一秒のことのように思われる。目の前にある全てが止まって見え、私はまるで、静止した世界を歩いているかのような気さえする。まさに一瞬に永遠を感じ、永遠に一瞬を感じる時間だ。何だか胡散臭い、ミステリアスな話に聞こえるかもしれないが、私は至って真面目だ。一瞬に永遠を感じ、永遠に一瞬を感じる。永遠は夢に似ているのである。

 まあ、それだけの話なのだが、この感覚を誰かに理解してほしい気がして、このようなことを書いてみた。どうだろう、君はわかってくれるだろうか。