20/11/26

 皆がそうだとは思わないが、男性には自尊心から何かをする人が多いように思われる。少なくとも私はそうだった。十代の頃には、私も他の子供と同じように、身だしなみに気を使ったり、モテたいと思ったりした。それも、愛されたいからというよりかは馬鹿にされたくないからであった。ベルイマンの『夏の夜は三度微笑む』には次のようなセリフが出てくる。「男は自尊心の生き物。女は恋人や夫を裏切ってもいいが、自尊心だけは傷つけてはならない」と。

 そういう意味では、私には、男性よりも女性の方が大胆というか、(言葉を選ばずにいえば) 性や恋愛に貪欲だと思われる。あくまで経験上の話になるが、自分ではとても怖くて出来ないようなことを、女性は平気でやってのけていた。だから私は女性が怖かった。とりわけ十代の頃は本当に怖かった。そして、この恐れには幾らかの恥じらいが含まれていた。私にとって、女性は欲情と獲得の対象というよりかは、恐怖と恥じらいの対象であった。

 今でもよく覚えている。あれは私が中学生の頃の話である。当時、私には非常に仲のいい女子生徒がいた。私達は本当に仲がよかった。毎日のように連絡のやり取りをした。学校ではおしゃべりをして、家に帰ればメッセージを打った。互いに文房具を交換し合ったこともあった。彼女は私に筆箱をくれて、私も彼女にペンをあげた。私は彼女が好きだった。

 しかし、だからと言って何かをする気にはならなかった。もとい、私はこれ以上何を望むべきかを知らなかった。当時、彼女は私によく「先輩」の話をした。それは我々の同級生のお兄ちゃんで、一つか二つ歳が上だった。彼女はその先輩に憧れているらしかった。私は好きにすればいいと思った。何か馬鹿にされている気がして不快だったし、実際、どうするかは本人の自由だと思ったのだ。

 向こうはよく私をからかった。ある年のエイプリルフールに、彼女は「他校の先輩の子供をはらまされて、今家出している 」というメッセージを打ってきた。私は物凄く慌てたのを覚えている。何度も向こうに電話を入れたが、出なかった。自室を行ったり来たりと歩きながら、私はいてもたってもいられなかった。鏡を見れば、きっと自分の顔が真っ青になっていることに気がついただろう。

 間もなくそれが嘘であることが明かされた。私は安心すると同時に彼女に怒り始めた。こちらの気持ちを考えてほしかった。やがてむこうから電話がきた。私は怒鳴りながらどれだけ心配したかを話した。それに対して、彼女は大して謝らず、笑いながら「心配してくれて嬉しい」と言った。それに呆れて、気がつけば「まあいいか」という気持ちになっていた。

  中学生の頃、私は地味で、目立たない生徒だった。成績が優秀なわけでもなく、ただただ不真面目で、だらしない子供だったと思われる。そして、それは学業に対してだけではなく、人と向き合うことについてもそうだった。私は緊張した雰囲気が苦手だった。だからよく人前でおどけたり、道化を演じることが多かった。要するに、私は臆病な性格をしていた。人に馬鹿にされるのが嫌だったから、むしろ進んで自分を愚かに見せようとした。だからこそ、時折誰かから真剣な眼差しを向けられると、気まずいというか、まともに目を見ることが出来なかった。

 ある日、彼女が私の家に遊びに来た。それは突然のことで、なんの前触れもない事だった。だから私は驚いた。どうして家を知っているのかと思った。次に、家には兄がいるから早く玄関の前から去って欲しいと思った。恥ずかしかったし、馬鹿にされるのが怖かったのである。しかし、それ以降も彼女はよく私の家に遊びに来た。家に誰もいない時に、私の部屋に勝手に入ったこともあった。その散乱している様子を見て、「汚い」と笑われた。事実、私の部屋は汚かった。

 しかし幸福な時期というものは、いつも気が付けば通り過ぎているものである。私達は何事もないまま中学を卒業した。そして、自ずと互いに疎遠になっていった。

 そして今。もう何年も会っていないが、今当時のことを思い出すと、こんなふうに思うことがある。つまり、「もしかすると、向こうは私より遥か先を眺めていたのかもしれない」と。高校二年の夏、私は下校中の彼女と偶然にも再会を果たした。彼女の話を聞いていると、その頃、既に向こうには恋人がいるらしかった。無論、私にはそのような相手はいなかった。彼女は私に自分が幸せだということを話した。それに対して、私はただ「そうか」とか、そんな感じの返事をした。

 昔から今に至るまで、特に当時のことを後悔してはいない。実際、あの頃、私は幸せだった。充分すぎるくらいに幸せだった。だから、もし本当に向こうが「それ以上」を求めていたら、私にはその意味がわからないのである。一体何が不満だったのだろうか。それに、私にはあれ以上の何を求めればいいのかがわからないのである。


 重荷を担うことを、よく人は美徳と見なす。キリスト教を例にとれば、それはよくわかる。全人類の罪を肩に背負って、無実のイエスが自ら進んで十字架にかけられる。キリスト教信仰の根底にあるのは、そのような無償の愛を実現する者の存在を信じることにある。私がここで思い出すのは、パウロが手紙の中でこう書いていたということだ。「罪と何の関わりもない方を、神は私達のために罪となさいました。その方によって、私達は神の義を得ることが出来たのです……」

 この信仰の裏にあるのは、まさに「担う」ということの美しさ、その憧れである。キリスト教の考えに従えば、人間とは本来罪深い存在であって、自分で自分を救うことさえ出来ないものだ。そして、そのような罪深さを自分の肩に担い、人々の罪の犠牲となるために、イエスは進んで十字架にかかりにいく。実に美しい話だ。利己的なものに失望した人ほど、利他的なものに憧れる。そして、私達は誰しも、一度は人間の傲慢さに失望しなければ生きていけない。だからこそこの話は美しく見える。キリスト教倫理の根底にあるもの、それは自分の以外の存在のために生きることへの夢である。


 暗い人の大半は、暗くあろうとする人だ。その逆も同様で、明るい人の大半は、明るくあろうとする人なのである。

 人によっては、嘆くことで人生が始まる場合がある。何故なら、あらゆる嘆きは自分自身であることに由来するからだ。言い換えるならば、嘆きとは自分の性質の発見なのである。そして、その性質が自分には担えない、耐えられないと感じる。だから人は嘆くのだ。

 J.コールの歌詞に次のようなものがある。"Don't save her, she don't wanna be saved (彼女を救うな、救われたくないんだ)" というものだ。正当な解釈に従うならば、この際、saveには「救う」と同時に「(お金を)節約する」という意味をも含まれている。著名になったJ.コールの周りには、金銭目当てで関係を求める女性が沢山現れる、save(節約)されたくない女性が沢山いる、というわけだ。

 さて、ではここから敢えてこの歌詞を誤読してみようと思う。例えば今、私達の目の前に、何かに悩んで泣いている女性がいたとする。しかし 、誰かが彼女を実際に助けようすると、きっと彼女は気を悪くすることだろう。何故なら、彼女が求めているのは自分の不幸を嘆くことであり、それを解決してもらうことではないからだ。まさに"she don't wanna be saved(彼女は救われたくない)"のである。

 前述の通り、人が嘆くのは自分自身の性質を発見するためだ。嘆きとは描写なのである。時には自分の悩みを泣きわめくことでしか見えてこないものがある。だから世には悩みを聞いて欲しいが実際になにかして欲しいわけではないという人が沢山いる。彼らが求めているのは救いというよりかは寄り添いなのである。


 ドビュッシーピアノ曲といえば、大抵の人はロマンチックな、夢想的な印象を思い浮かべる。確かに、彼の音楽はこちらに夢見心地を与えてくれる。しかし、ショパンラヴェルと違い、彼の音楽には悲愴な雰囲気や、感傷的な曲調が殆どない。ドビュッシーの音楽には、彼独特の乾きがある。

 有名な『月の光』や『亜麻色の髪の乙女』にしても、そこに切なさはあれど悲しさはない。物憂げで夢見がちだが、追憶や嘆きは見られない。ドビュッシーは常に聴き手を惑わし、こちらが一つの夢を見るよう作用するが、それが機能するためには裏で印象操作が行われている必要がある。そして、見る夢は常に曲によって異なる。そこには官能的な夢と同じくらい沢山の悪夢がある。私はツィマーマンの弾いた『前奏曲集』を、もう五年以上前から繰り返し聴いているが、私が何故彼の演奏を愛するかとなれば、それは彼の演奏が硬質で、常に機能的であるからだ。機械的ではない、ただ機能的である。その完璧にコントロールされた音色が、絶えずこちらの印象を支配する。そして、一つの印象は常に別の印象を想起させる。美しい音楽が聴覚に訴えかければ、視覚は自ずと目の前の景色を美しいものだと錯覚するようになる。それは美味しい匂いがするもの(嗅覚に訴えかけるもの)のせいで味覚が錯覚し始める(味まで美味しいと思い込み始める)のと同様である。

 このような徹底した偽なるものの力能に、ドビュッシーの音楽が貫かれているのだとするならば、彼の音楽は幻想的というよりかは魔術的で、神聖というよりかはいかがわしいものだ。しかし、それでいいのだ。ああ、私は今でも初めて『沈める寺』を聴いた時のことを覚えている。その楽曲の長さは七分に及ぶが、しかし曲が盛り上がるのは一分にも満たない。しかし、その静謐な始まり方と、幽玄な、神秘的な音楽の流れが、こちらをここではないどこかへと連れ去ってくれる。本当に目の前に魔法の世界が広がってるかのように幻惑してくれる。海に沈んだ寺院が霧から現れ、そして寺院は再び海の底へと消えていく……。ああ、なんて美しい音楽なんだろう。

 音楽にあるのは、常に感情ではなく描写である。感情的に聞こえる音楽とは、感情がよく描写された音楽なのだ。それと同様で、ドビュッシーの音楽もまた描写である。そして、描かれたものが、現実にある人の心までもを描き始める。音楽に触れることによって、人はそれまで感じなかった感情までをも感じ始める。まさに描かれたものによって描かれ始める瞬間である。その素晴らしさ、偉大さ。恐るべき音楽の力!

 私はドビュッシーの音楽を昔から愛してきた。しかし、いつも、毎日聴いていたわけではない。何ヶ月かあまり触れない日々が続いて、ある日突然、昔のように、または昔以上に、狂ったようにそれを聴き始める。私はいつもドビュッシーを愛することは出来ないが、いつまでもドビュッシーを思い出すことは出来る。そして、思い出す度に、私は彼を再び愛し始めるのである。それはかつてと同じであるが、しかしそこにはかつてにはないものがある。当時の私では気づかなかったものまでをも、私は今ドビュッシーの内に見出しているからである。しかし何より、こうして昔から今日に至るまで、同じひとつのものを愛することが出来ているというのは、幸福なことである。


 先日、ジェームス・アイヴォニーの『日の名残り』を初めて観た。感動した。本当に、心から感動した。以来、私は毎日『日の名残り』のことを考えている。恥ずかしながら原作はまだ読んでないのだが、これを機に読んでみようかとも考えている。アンソニー・ホプキンスの、あの機敏な、言葉にあらわさずとも表情にあらわれる感情の動きの演技が本当に素晴らしかった。何かにつけて、私は彼のあの独特な表情を思い出しながら、ここ数日の生活をしている。